第30話

 心姫は自分自身がいじめられていることで手一杯なはずなのに、俺のことを一番に考えてくれて、俺にこれだけ優しさを注いでくれる。

 そんな心姫に少しずつ惹かれていっている俺が、自分の中に残っている純花への感情を心姫に伝えるべきではないというのは百も承知だ。


 それでも心姫は俺の力になりたいと言ってくれた。

 そんな人間に対して自分の気持ちを隠しながら話すのは卑怯だと思った俺は、心姫に純花に対する気持ちを打ち明けたのだ。


「瑛太さんにとって純花さんはかけがえのない思い出で、最高の彼女さんだったんですね」


 純花に対する想いを心姫に伝えるべきではなかっただろうかと不安視している俺に、心姫はフフッと微笑みながら、純花のことを最高の彼女だったと言ってのけた。

 普通の人間はありもしないことをでっち上げた純花を批判することしかしないだろうが、俺の気持ちを考えて純花が最高の彼女だったと言えるのはこの世界で心姫だけではないだろうか。


「……そうだったんだと思う。純花が突然彼氏の俺とは別の男を好きになった正確な理由はわからないけど、俺自身が純花にそうさせてしまった部分もあるんだろうなとは思ってるんだ。純花は学校の中で純花のことを嫌いな人間はいないって言っても過言じゃないくらいの人気者なのに、俺は人と話すのが得意じゃなくて教室の隅にいるような陰キャで引け目を感じててさ。俺の方から純花を避けたりしてたから」


「でもそれは瑛太さんなりの優しさだったんですよね」


 心姫は俺が話した『陰キャで引け目を感じて純花を避けていた』という部分をただ鵜呑みするのではなく、それが俺の優しさだと言ってくれた。

 俺が純花に迷惑をかけないようにと考えて純花を避けていたのは事実だ。


 でも俺が純花を避けていた理由はそれだけではなくて……。


「純花のためにと思ってた部分は確かにある。でも自分に自信が無かったってのも純花を避けてた理由の一つなんだ」


 俺が純花を避けていたのは純花のためだけでなく、自分のためでもあったのだ。


 俺は自分に自信が無いし、純花と一緒にいれば周囲の人間からは「なんであんな奴が」と思われるのではないかと考えていた。

 それは仕方がないことだとは思うが、そう思われないために俺は純花を避けるようになったのだ。


「そうだったのかもしれません。でも瑛太さんが純花さんに迷惑をかけないようにって思ってたのも事実ですよね。そんな風に考えてくれていた瑛太さんの気持ちを理解しようともせず、別の男の人を好きになった純花さんをわたしは到底許すことができません」


 心姫は純花のことをただ否定するでもなく、ただ肯定するでもなく、俺の考えを尊重してくれた上で、最後には許すことができないと自分の気持ちを伝えてくれた。

 そんな心姫の対応は、きっと今の俺が一番必要としていたモノだったと思う。


 普通の人間からしてみれば、純花とは比較にならないほど優しい心姫がいるのだから、純花のことを未だに心の底から憎めないなんてあり得ないと思うだろう。

 それでも俺には小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた純花との思い出があるし、純花がクソ女になってしまったのは俺との関係が悪化してからだったので、そう簡単に純花に対する想いが消え去ることはない。


 そんな煮えきらない想いを、心姫は見事に受け止めて見せたのだ。


「心姫……。ありがとう。本当に」


「もしよかったら話してくれませんか? 純花さんとの思い出とか、純花さんがどんな人だったのかとか」


 心姫が純花との思い出や純花の人となりを訊いてきた意図は理解できなかったが、心姫が純花との思い出を話してほしいというので、俺は心の奥底に秘めていた純花に対する気持ちや思い出を引っ張り出してきて純花の話を始めた。


「純花とは小さい頃からの付き合いで、子供の頃はお互いが絶対に結婚すると思ってて、お互いがそんなことを口に出したりもしてたんだ。それで中学に上がると周りの友達でも付き合いだす人がいて、そんな流れに身を任せるように俺も純花と付き合い出したんだ」


 心姫に純花との思い出を話し始めると、純花との思い出が予想以上に鮮明に頭の中に浮かんできて、そしてその思い出を心姫に話すと、胸の奥に詰まっていた何かが少しずつ吐き出されるような、そんな感覚に陥った。


「そりゃもう最初は楽しくてさ。好きな人と一緒に学校から帰ったり、休みの日に二人で動物園とか水族館に遊びに行ったりするのは中学生の俺にはあまりにも刺激的で、それでいて居心地の良さを感じる毎日だったよ。誕生日にはお互いプレゼントを渡しあったり、記念日には少し遠出して高めのご飯食べたり……」


 話せば話すほど純花との記憶が蘇ってきて、聞きたくもないであろう話を俺は心姫につらつらと話してしまっていた。


「楽しかったんだ、本当に楽しかったんだ、楽しかったんだよ。純花が俺のことを好きでいてくれて、俺も純花のことが大好きで、二人でいる空間はいつどんな時よりも居心地が良くて、この先もずっと一緒にいると思ってたんだ。それなのにっ--。それなのに、なんで、なんで……」


 心姫に純花との話を曝け出したことで、詰まっていた物が取り除かれ、堰き止められていた何かが溢れ出るように涙が止まらなくなってしまう。

 なぜだろうか、人前で涙なんて流したくないのに、心姫の前では自然と涙が出てきてしまう。


「瑛太さん、ちょっと待っててください」


「えっ……?」


 そういうと心姫はおもむろにイスから立ち上がった。


 何をしに行くのだろうかと心姫の姿を目で追っていると、部屋の隅に置かれた木製ラックの上から、ネイビーの箱を手にとって俺の方へと持ってきた。


 あれは確か以前心姫の家にきた時に説明された--。


「これ、前お話しした私のお父さんがお母さんに送った婚約指輪です」


 心姫が持ってきたのは、以前話していた心姫の父親、武嗣さんが心姫の母親に渡した婚約指輪だった。

 心姫が手に持っていた箱を見た瞬間、それが以前話した結婚指輪だということはすぐに理解できたが、なぜ婚約指輪を俺の元へと持ってきたのだろうか。


「えっ、あっ、ああ。前に教えてもらったやつだな」


「これ、瑛太さんにお渡しますっ」


 心姫が言葉を放ってしばらくの間、俺は心姫が何を言っているのか理解できなかった。


 勿論言葉の意味は理解できる。


 言葉の意味をそのまま受け取るのであれば、武嗣さんが心姫の母親に渡した婚約指輪を俺に渡してくれるということだ。


 ……うん、言葉の意味は理解できるが、心姫がその婚約指輪をなぜ俺に渡そうとしてきたのか、その意図が理解できない。


「えっ、そ、それはどういう……」


「瑛太さんはもう純花さんとは付き合えません」


「……へ?」


 俺は心姫の言葉に、ポカンと口を開けた。


「純花さんとの思い出がどれだけいいものであったとしても、純花さんが更生していい人になったとしても、瑛太さんに酷いことをする純花さんとはもう絶対に付き合うべきではないです!」


「えっ、ちょっ、心姫……?」


 心姫は俺に両親の婚約指輪を手渡しながら、涙を流し始めた。

 そんな心姫の姿に一瞬焦りはしたが、心姫は俺のことを想って、俺のために泣いてくれているのだろう。


 そんな心姫が俺のために必死になって紡いでくれる言葉を、聞き逃さないよう俺は耳を傾けた。


「純花さんより瑛太さんを幸せにできる人はたくさんいるはずです! その中でも一番瑛太さんのことを幸せにしてくれる人とお付き合いするべきです!」


「……ああ」


「瑛太さんは優しすぎる人です。瑛太さんみたいな優しすぎる人が純花さんみたいな人に不幸にされるなんてあってはならないんです!」


「ああ」


「瑛太さんは絶対に、幸せになるべきなんです‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」


 涙を流しながら、大きな声で必死に俺に訴えかけてくる心姫は、俺の心の痛みを理解し、そして支えようとしてくれているのだろう。

 自分のためにも俺は幸せな人生を歩みたいと思うが、俺のことを自分のことのように考えてくれる心姫のためにも、俺は絶対に幸せにならなければならない。


 俺のために涙を流し、俺の幸せを願ってくれる心姫という女の子のことが、俺は愛おしくて仕方がなかった。


「……ああ。そうだな」


「だから瑛太さんにはもう純花さんは必要ありませんっ。瑛太さんのそばに純花さんはいてはならないんです! その代わりに私がいます! 私がずっと瑛太さんのそばにいます! 瑛太さんが壁にぶち当たったら一緒に乗り越えますし、瑛太さんが転んで立ち上がれそうにない時は私がそばにいて手を貸します。だからっ--」


 心姫は俺にとんでもないことを言い終えてから、荒い息を整えるように呼吸をした。


「……いつかこの指輪を私に渡したいと思う時がやってきたら、渡してください。別の女の子と付き合ってもらっても勿論構いませんし、そうなったら指輪だけ返してもらえればそれでいいです。とにかく瑛太さんのそばには私がいます! これだけで安心するのは無理かもしれませんけど、瑛太さんのそばにはいつでも私がいると思って学校に行ってください」


「--心姫っ」


 きっと俺は後日心姫の『いつかこの指輪を私に渡したいと思う時がきたら渡してくれ』という発言と、両親の婚約指輪を俺に渡すという行動について頭を悩ませることになるのだろう。


 それでもそんな後の話は今の俺にとってはどうでもよくて、とにかく俺を元気付け、勇気を出してもらえるように武嗣さんが亡くなった心姫の母親に渡した婚約指輪を俺に渡してくれた心姫が愛おしくて愛おしくて、柄にもなく咄嗟に心姫を抱き寄せ、それからしばらくの間、俺は心姫を離さずにただ強く抱きしめていた。

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