第8話 無銭飲食の魔女
僕はずっと考えごとでボーッとしていたらしかった。だから、誰かに思いっきり後ろからお尻をつかまれた時、盛大に悲鳴をあげた。
「な、なにをするんですか!」
僕はふりかえり、持っていたお盆で相手を叩こうとした。ここは例の居酒屋であり今は僕のバイト先である『口ひげの男前亭』での仕事中だった。
ちなみにこの店名はセンスのカケラもないと僕は思う。
僕は下品な冒険者とかのしわざだと思ったけど、相手を見てふりあげたお盆をとめた。
「お客さま?」
「店員さま、ずっとお呼びしていたのですが、ぜんぜん気づいて頂けないのでつい、ものすごく触りやすい位置にあなたの形のよいお尻がありましたのでさわりました。いけませんでしたか?」
そのテーブルには全く予想外の人がひとりで席に座っていた。僕と同じくらい小柄でやせており、体にぴったりとした全身黒ずくめの服を着ていて、首からたくさん金色のネックレスをジャラジャラとぶらさげていて、頭には店内だってのにこれまた真っ黒でとんがった帽子をかぶっていた。
まだ昼間なのにその客はお酒を何杯も飲み、さんざん食い散らかしていてテーブルの上は空のジョッキとお皿で満載だった。
「はあ。なにか御用ですか?」
僕は今までバイトをしたことがなかったし、なかなかここの仕事には慣れなかった。目がまわるくらい忙しいし、下品な客に絡まれまくるからだ。ただ、その黒ずくめの客は、信じられないことにめちゃくちゃ可愛かった。
大きな潤んだ目に長いまつげ、ぷるんとした唇、清楚で落ち着いた雰囲気。こんなにかわいい女の子は、僕は今までに見たことがなかった。
ただ、なんだか年齢不詳だった。僕よりはるかに歳上のように見えるし、歳下かもしれないし、よくわからなかった。
「店員さま。実はあなたさまに大切なお話があります。聞いていただけますか?」
「はい、なんでしょう?」
なんだか妙に冷静で丁寧な口調だった。僕は、かわいいけどあやしいこの客がいったいなにをいいだすのかと身構えた。
「わたくし、ないのです。」
「ないって、なにがですか?」
とっさに僕は客の胸のあたりを見てしまい、慌てて目を逸らした。
「はい。わたくしは胸がありませんが、実は金銭も全くもっていないのです。」
「は、はい?」
少し考えてから、僕はこれは無銭飲食の宣言だとようやく理解した。こんな時は教えられた通り、用心棒のガンザさんの出番だった。
「わ、わかりました。係を呼びますから待っていてください。」
「いやです。」
「はい?」
客はいきなり立ち上がると、異様なくらい僕に接近してきた。
「わたくしはあなたさまと話がしたいのです。いけませんか?」
「は、離れてください。お客さん、酔ってますよね?」
「あなたさまに酔っております!」
客が僕にしがみついてきて、そんな異常な動きを予測できなかった僕は棒立ちでそれを受け入れてしまった。
「何をするんですか!? 離してください!」
「そんな服を着ているあなたさまがいけないのです。代金はわたくしの体でお支払いしましょう。」
意外と客の力は強くって、いや僕が弱すぎるのかもしれないけど、その勢いのまま僕は押し倒されそうになった。
こんな制服、もっと強く断ればよかったと僕は今さら後悔した。
「や、やめてくださいってば!」
「見られているからですか? わたくしはまったく平気ですが。」
「た、助けてーッ!! この人おかしいよ! ガンザさーん!!」
なにごとかと他の客も立ち見して騒ぎ始めたけど、人垣を押しのけてガンザさんの巨体が現れると静かになった。彼女の姿を見て安心した僕は油断して力が抜け、ついには床に押し倒されてしまった。
「なにをしている! やめんか!」
ガンザさんは鬼の形相でその客を片腕で僕から引きはがし、宙吊りにした。客は宙でジタバタと手足をふりまわし、まるで子どもにつかまったカエルみたいだった。
「客に対してなんと失礼な店ですか。離しなさい。」
「だまれ! グロリア、またお前か! 金がないやつは客ではない!」
ガンザさんは客をグロリアと呼び、そのまま店の奥へと連れ去ってしまった。僕が床の上で呆然としていると、店長の口ヒゲオヤジが客たちを散らしてから僕を助け起こしてくれた。
「大丈夫か、カズミ。新人なのにえらいのにひっかかっちまったな。」
「あのお客さんは常連さんなんですか?」
「まあな。と言っても無銭飲食の常習犯だがな。本当に、魔女なんざ迷惑な連中だぜ、ったく。」
「魔女?」
オヤジはプリプリ怒りながらカウンターに戻っていった。魔女なんて本当にいるのか疑問だらけだったし、ふたりの様子が気になったので僕は店の奥にある事務室に行くことにした。まさかあのガンザさんが危ない目に遭うはずはないけど、なんだか別の意味で心配だった。
「ガンザさん、大丈夫?」
事務室のドアを開けたまま、僕は硬直してしまった。
なんと、ガンザさんとグロリアさんはソファの上で抱きしめあっていた。
僕のいやな予感は当たったのかもしれなかった。
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