ダイイング・ダイイング・メッセージ・ダイイング~坂本姫花の場合~

北 流亡

ダイイング・ダイイング・メッセージ・ダイイング

 男はベランダに出て行った。

 ガラス戸を閉じ、外側から紐のような物を引っ張ると、かちりと音がした。鍵が閉まったのだろう。

 男はベランダの柵を乗り越えた。タワーマンションの20階である。男は僅かな隙間に指を入れながら、ゆっくりと確実に降りて行った。


 坂本姫花は、薄れゆく意識の中でそれを眺めていた。

 腹部をナイフで刺された。血が、じわじわと滲み出ていた。命がそのまま流れ出ているのを感じていた。このまま死ぬのだろうというのが否が応でも理解できた。

 犯人の顔はしっかりと見ていた。同じ軽音楽サークルに所属している勅使河原一てしがわらはじめだ。前から、ストーカーじみたことはされていた。まさか宅配業者を装って家に侵入してくるとは思ってもいなかったが。


 姫花の目に涙が滲む。こんなところで簡単に人生を終わらせられるなど、あまりにも悔しい。

 勅使河原はあまりにも用意周到に準備をしていた。帽子の下に水泳帽をかぶり、手にはゴム手袋を着用していた。指紋はおろか、髪の毛一本すら見つからないだろう。しかも部屋は完全に密室に仕立てられた。おまけに20階のマンションのベランダから脱出なんてことは、誰も思いもよらない手段だろう。

 このままでは、完全犯罪になってしまう。姫花は最期の力を振り絞る。犯人を示すメッセージを遺さねば。


 姫花は腹から流れ出る血を人差し指ですくう。どろりとしていて生暖かい。

 そのまま姫花は思案した。万が一、勅使河原が戻ってきたとき、そのまま犯人の名前を書いたメッセージを遺したら消されてしまう。犯人の名前を示しつつ、犯人にはそのことを悟られず、それでいて頭の良い人間には犯人を示していると悟ってもらえるようなメッセージを。


 姫花は思案する。


 姫花は思案する。


 姫花は思案する。


 そのまま、人差し指ですくった血が固まっていた。


 思いつかない。

 思いつくはずもなかった。

 思いつくわけがないのだ。

 姫花は顔を歪めた。そもそも推理小説で出てくるようなダイイングメッセージは、頭の良い作家が何時間も何日も考え抜いて作るようなものだ。そんな高度で複雑で回りくどいものが、この死にゆく刹那に思いつくだろうか。そもそも、遠回しに書くこと自体が間違いなのだと姫花は悪態をつく。単純に犯人の名前を書けば良いし、犯人が戻ってきたらそのときはそのときだ。どうせもうすぐ死ぬ。


 よし、素直に犯人の名前を書こう。そう思い姫花は再び人差し指に血をすくう。

 ここで姫花は再び固まる。犯人の名前は知っている。勅使河原一。てしがわらはじめ。姫花は思う。どういう字を書くのだろうと。

 舌打ちをする。殺人犯のくせに難しい名字とは何事だ。おまけに画数も多い。

 ならば名前の方を書こうと思い、姫花は床に血で「一」と記す。ファーストネームで呼び合うような仲だと思われるのは癪だがそこは我慢した。

 姫花は床に書いた字を眺める。紛れもなく「一」と書いたつもりなのだが、これでは一本だけ線を引いてそこで力尽きたみたいに見えないだろうか。その可能性はどうしても拭いきれなかった。単純すぎる名前も考えものだ。


 ひらがなで書こうと姫花は決意する。再び人差し指に血をすくう。

 血で字を書くというのは案外難しい。すぐに固まってしまうし、思った以上に伸びない。点描のように「てし」と書いたところで次の問題が発生する。傷口の血が固まり始めていたのだ。

 まずい。姫花の額に冷汗が滲む。「てし」という文字を見て、同じサークルの手嶋高人てじまたかひとの顔が頭に浮かぶ。優しくてかっこよくてギターが上手くて頭も良い手嶋くん。最近良く話すようになった手嶋くん。このままでは彼が犯人にされてしまう。

 何かないか。姫花は周囲を見渡して閃く。カバンをひっくり返し口紅を取り出す。これだ。姫花はキャップを外し、血で書いた「てし」に「がわら」を足す。生命と美の共作だ。

 しかしだ。姫花は気に入らなかった。口紅のメッセージなんてやはり痴情のもつれっぽくなってしまう。『ルージュの伝言』じゃあるまいし。手嶋くんとならともかく、勅使河原と痴情がもつれたと思われるのは癪だ。

 姫花は雑巾をしぼり「てし」を拭き取る。「がわら」はメラミンスポンジで擦り取る。メラミンスポンジは念入りに細かくちぎって捨てる。こんな便利お掃除グッズを使っているような所帯じみた女だと思われたくなかった。


 もう血にこだわらずに書けば良いのではと姫花は気がつく。

 万年筆と便箋を取り出し、机に向かう。姫花は書道を習わせてくれた両親に心から感謝する。ありがとうお父さん、お母さん。先立つ不幸をお許しください。


『拝啓 これを読んでくださる誰かに


 これはダイイング・メッセージでございます。

 私はまもなく絶命します。犯人は私と同じ神居大学軽音楽サークルに所属するてしがわらはじめです。彼は20時に宅配業者を装って私の家に侵入し、腹部を刺してベランダから逃走しました。また、逃走の際に外側から錠に紐のような物をひっかけ、鍵を閉めました。見せかけの密室です。犯行の動機は、おそらく交際の申し込みをお断りしたことによる逆恨みでしょう。必ずや彼を捕まえて私の無念を晴らしてください。


 追伸 お父様、お母様、今まで大切に育ててくださり、ありがとうございました。



 敬具


 令和4年4月12日 神居大学英文学部2年

 坂本 姫花』


 渾身の1枚が書き終わった。床にはくしゃくしゃに丸められた便箋がいくつも転がっていた。

 姫花はふふっと笑みを漏らす。書の運び・バランス・文面、どれも完璧であった。最期に遺すのに恥ずかしくない。

 細くため息を吐いて背もたれに体を預ける。もうすぐ死ぬ。それなのにやりたいことは何一つやれていなかった。時間は永遠では無い。理屈としてはわかっていたが、どこか他人事のように捉えていた。

 机の上に飾ってある写真を見つめる。フィジーの青い海が写っていた。

 受け身の人生だったなと姫花は思う。親が習わせたい習い事を習い、親が望むように勉強して、親の行かせたい学校に行き、親の理想とする生き方をする。親を恨むことはなかった。むしろ、感謝の方が大きい。ただ、自分の意思を持たずに生きてきたことに、少しの後悔があった。

 軽音楽サークルに入ったのは、そんな自分を少しでも変えるためだった。だが、それが結果として姫花を死に至らしめている。

 涙。床に染みを作った。もっと生きたいように生きれば良かった。好きな音楽を聴いて、好きなものを食べて、好きな場所に行って、好きな人に好きと言えば良かった。

 姫花は、はっとする。これから死ぬのならやっておかなければいけないことがある。

 スマートフォンを取り出しメッセージアプリを開く。「手嶋高人」をタップする。サークルの業務連絡ばかりが並んだ画面が映る。

 指先が震える。口の中が渇く。「ずっと好きでした」。文字だけ打ったが、なかなか送信を押せない。

 それからどれくらいの時間が経っただろうか。

 姫花は送信ボタンを押して、すぐにアプリを閉じた。気持ちを伝えられた。それだけで良かった。

 あと、やり残したことはなんだろうか。姫花は周囲を見回す。両親が20歳の誕生日にとくれた赤ワインがあった。

 真面目一辺倒で生きてきた人生だ。当然、酒など舐めたことすらない。

 姫花の生まれ年に作られたワインだと父は言っていた。姫花はそれを手に取る。酒に酔うことで死への恐怖とか悔いとかが薄らぐかもしれない。それに、せっかくだから飲んでみたいという気持ちもあった。

 赤ワインはコルクで封をされていた。姫花はコルク抜きなど持っていなかった。どうせならコルク抜きも一緒にくれたら良かったのにと思う。

 どれだけ時間が残されているかわからない。もたもたしてるとワインを口にする前に死んでしまう。姫花は瓶の首をテーブルに叩きつけた。ワインとガラスが床に散乱する。姫花はどこにでもあるようなタンブラーグラスにワインを注ぎ、一気にあおる。

 眉間に皺が集まる。あまりにも、渋い。高級なワインだと言っていたから、飲みやすいものだと思っていたが、そうではないらしい。これが大人の味か。別に無理して知る必要は無いと思った。しかし、ワインを残したまま死ぬことはできない。意地であった。


 ワインを飲み干すのに10分くらいかかった。すでに、意識が朦朧としていた。なにしろ人生初めてのアルコール摂取なのだ。地面が天井がぐるぐると回転していた。あまりにも気持ちが悪かった。刺されたことより、この気持ち悪さで先に死にそうだ。

 なんか無性に腹が立ってきた。感情の抑えが効かない。それは自覚していたが、怒りがどうにも収まらない。今までずっと真面目に生きてきたのに、どうして身勝手な他人に人生を終わらせられなければならないのだろうか。姫花はワインボトルを掴む。思い切り振りかぶってガラス戸に叩きつける。勢いよく飛んでいったボトルは、ガラスを突き破って闇の中へ落ちていった。遠くから悲鳴のような声が聞こえた気がしたがどうでもよかった。どうせもうすぐ死ぬのだ。少しくらい傍若無人になっても許されるだろう。

 足元から着信音がした。ガラスとワインまみれの床にスマートフォンが転がっていた。それを拾おうとして姫花はふらふらと倒れる。体中がワインにまみれる。ガラスでどこかを切ったような気もした。大声を上げて笑う。もう、何もかもがおかしくてしょうがなかった。

 スマートフォンの画面を見る。手嶋くんと表示されていた。酔いが、一気に醒める。通話ボタンをタップする。


「あ、あのさ、姫ちゃん、夜遅くにごめん。今大丈夫?」

「ひゃひゃひゃひゃい。ら、らいじょうぶれす!」

「……遅くにごめん、LINE見たんだけどさ」

「え、あ、あ、うん! ごめんねいきなりあんなの送って迷惑だったよねごめんね! 気持ち悪いよね!」

「気持ち悪いだなんて、そんなことないよ。あれ、本当に姫ちゃんが送ってくれたんだよね?」

「……うん」


 頬が熱くなるのがわかった。鏡を見るまでもなく、顔は真っ赤だろう。遠くに逃げ出したくてたまらなかった。いや、どうせもうすぐ死ぬのだが。


「姫ちゃん、俺も姫ちゃんが好きだ。俺と付き合って欲しい」


 驚きすぎて、声が出なかった。あの格好良い手嶋くんが姫花のことを好きと言った。だが、素直には喜べなかった。


「ごめん手嶋くん……」

「……迷惑だった?」

「違うの手嶋くん、私もうすぐ死ぬの。勅使河原くんにお腹を刺されて死んじゃうの」

「ええ!? 救急車は呼んだの!? 警察は!?」


 姫花はあっと声を出した。そうか、最初からそうすれば良かったのだ。急に恥ずかしさが込み上げて、思わず通話を切ってしまった。


 救急隊と警察は程なくして到着した。

 姫花の傷は浅く、跡も残らなかった。

 勅使河原はマンションの敷地で倒れていたところを逮捕された。5階のあたりで足を滑らせて落ちたらしい。

 部屋の片付けは1時間くらいかかった。

 ダイイング・メッセージは誰にも見られないように燃やした。

 部屋の惨状を見た両親にはこっぴどく叱られた。


 姫花は手嶋と付き合うようになった。

 このことだけに関して言えば、良かったと言えた。

 今日はこれから、ライブハウスに2人でデートだ。

 人生は全力で楽しまなければならない。坂本姫花は強く思った。

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