第42話 愛を理解したピアニスト②

トゥールレコードから真っ直ぐ事務所に戻り、エマに会議内容を報告すると拍手をしてくれた。


「あなたを引き抜いて良かったわ。やっぱり私の目に狂いはない。」


「そんな(苦笑)いつ変更になるかも分からないですよ。」


「あなたなら成功させるわよ。」


「ものすごく…プレッシャーなんですけど(汗)」


「プレッシャーをかけてるんだもの。」


「えぇ?(笑)」


「私、外で仕事終わらせたら直帰だから、後は任せるわね。」


「了解しました。お気をつけて。お疲れ様です。」


「うん、お疲れ様。」



エレベーターに向かって歩いて行くエマの横顔は笑っていた。

エマが笑ってくれると、なんだか自信が湧いてくる。



「さてと。 やるかぁ。」



アクリル板の壁の向こうでは、忙しなく話す声やさまざまな着信音が、あちらこちらで鳴っている。

それとは逆に神矢かみやゆうの部署は、スタッフ達が各自の仕事をこなしている様で誰もいない。


私は1人寂しく、デスクに向かった。




——トントン



「はい!」



パソコンが立ち上がるのを待っていると、ノックをする音が聞こえた。

扉の方に振り返ると、隣の部署の最高責任者であり事務所の係長が笑顔で入ってきた。



「おはようございます。」


「おはよう。急に悪いね。」


「いえ。何かありましたか?」


「いやぁ。神矢悠と結婚したんだって?(笑)」


「はい…そうなんです(苦笑)報告が遅れてすみません。」


「いやいや。それはさ。この業界では仕方のない事だよ。ひいらぎさんは、うちの部署のお手伝いをしてくれたりしてるからね。ちょっとしたお祝い。」


そう言うと係長の田中は、長方形の紙袋を差し出した。

中身はワインの様だ。


「みんなからちょっとずつ貰ってね。」


と、田中は自分の部署に視線を送った。

私も隣の部署に顔を向けると、社員達がこちらを向き笑顔で拍手をしてくれた。



「ありがとうございます!!」


本当は部屋を出て、お礼を言った方が良いのは分かっているが、あちらはこちらの比にならない位に忙しい。

大きな口を開けて、礼を言いながら何度も何度も頭を下げた。

田中にも改めてお礼を言うと



「お返しは要らないからね。お祝いはするけどお返しは無し。事務所ここの慣わし。覚えておいてね(笑)」


「はい。わかりました。本当にありがとうございます(笑)」


「じゃ、頑張って。僕たちも神矢悠を応援してるよ(笑)」


田中は私の肩を軽く叩いて出て行った。



私は1人でも、寂しくも無かった。

このフロアにいる社員の一員だと嬉しくなった。


改めてデスクに向かい、与えられた仕事に取り掛かった。




――――――――――――――――――――

「※%$℃☆!」


遠くで声が聞こえる。

誰かに呼ばれた様な気がした。



「杏実!」


(は!)


名前を呼ばれて顔を上げると、怪訝そうな顔をしている悠紫ゆうしと目が合った。



「何寝てんだよ。」


「あ、寝ちゃってたんだ…。」


「電話しても出ないし、既読も付かないから心配したんだけど。」


「あぁ、ごめんね。外回り行ったり色んな企画書作ったりしてたから…疲れて寝ちゃってたんだね(苦笑)」



トゥールレコードから帰ってからデスクで仕事をしていたが、新たに営業に回れそうな所を見つけて行ったりしていた。

頭も足も口も沢山動かして疲れてしまって、デスクに突っ伏して眠っていたらしい。



「俺より忙しくなっちゃったね。」


「それは良い事なんだよ?(笑)私、今すごく楽しい。だって悠紫くんのために忙しく出来るんだもん(笑)」


「杏実に支えて貰って心強いよ。」


「ふふふっ(笑)」



悠紫も嬉しそうに笑ってくれる。

幸せだ。


でも、ちょっと今は…。

幸せに浸っていられない非常事態だった。



「あ、あのさ!ちょっとお手洗い!」



慌てて立ち上がりお手洗いに急いだ。

後ろから悠紫の笑い声が聞こえた。




――――――――――――――――――――

《悠紫side》



良かった。

何も無くて。


大きな事故や怪我なら連絡は来るけど、小さな困り事なら1人で耐えている可能性が高い。

エマさんに電話をしたら直帰していて、杏実の行動は分からないと言われた。


居ても立っても居られず、事務所に来てみたけど。

寝てるとは思わなかったな。

早く帰って、家で寝れば良いのに。


慌ててトイレに走って行く杏実を見て、ホッとした。



「はぁあ(笑)」


杏実のデスクに視線を落として、どんな仕事をしていたのかなって、なんの気無しに見ていたら

『ブブッ。ブブッ。』

と、スマホのバイブの音がした。


机に置かれたスマホを手に取ると、画面に『星准』の名前が表示されていた。


は?星准?

今更、なんの用があるんだよ。

出ることにした。



――ピッ


「もしもし…」


「………。」


「あのさ、なんて言うか…。今日、久しぶりに会えて…すごく嬉しかったんだ。お前は結婚したし、俺も彼女はいるけど…。その。時々、2人で会えたりしないかな…。」


「彼女はそんな事はしません。」


「ゆ、悠紫くんか!?」


「杏実がそんな提案を受け入れるはずがありません。」


「………。」


「会う時は4人で会いましょう。店にも1人では行かせませんから。」


「わかった。すまなかったね。じゃ…。」



今日、星准さんに会っていたのか…。

ふ〜ん。



――――――――――――――――――――

《杏実side》


お手洗いから戻ると悠紫は椅子に座り、私のスマホを触っていた。

悠紫は愛情の深い人だけど、私のスマホを勝手に見るような人ではない。

もしかしたら今まで見ていたのだろうか。

恐る恐る声をかけた。



「ごめんね…。片付けて帰ろ…。何か…あった?」


「いま、星准さんから電話があったよ。出てみたら一方的に話し出してさ。」


「それで?」


「時々2人で会おうとか言ってたよ。」


「なんでそんな事になるんだろ?そ、そんな事しないよ?大丈夫だからね!?」


「わかってるよ。代わりに断っておいた。」


「そうなんだ。ありがとう…。」


「早く帰ろ。」


「うん…。」



パソコンの電源を落とし、荷物をまとめて悠紫と事務所を後にした。




――――――――――――――――――――

あれから何事もなく2日が経ち、ボーナストラックの録音の時を迎えた。

録音ブースでピアノに向かう悠紫を見ながら

私は1人で緊張していた。

星准からの電話に出てしまった悠紫の気持ちを考えると怖かった。

迷いや不安、私への不信感。

負の感情が少しでもあれば今日の録音は上手く行かない。

私のせいで、また時間が掛かってしまう。

とてつもない恐怖が襲う。

足が震えた。




「さ、いよいよね。」


エマが録音ブースの悠に向かって、嬉しそうに微笑んだ。



「悠くんのタイミングで始めて良いわよ。」



(悠紫くん!お願い!!)





――… ♫♪♩〜♬♩〜



(あぁ。あぁ…。)



――♫♪♩〜♬♩〜



「これよ…。そうよ、これよ。これを求めていたのよ!」


「これなんですね!前とは全然違う!素敵です!」



エマと亜弥が顔を見合わせ喜んでいる。

私は生まれ変わった思い出の曲『tomorrow is another day』に、静かに涙を流していた。





録音ブースから出て来た悠に、全員で拍手を送った。



「やっと辿り着いたわね。」


「はい。ここまで来られたのは皆さんのおかげです。ありがとうございます。」


悠がその場にいる人達に頭を下げた。

また皆んなが拍手を送る。


「特にエマさん。僕の希望を叶えてくれて。ありがとうございます。」


「これで終わりじゃ無い。ここからが正念場よ。」


「はい。頑張ります。」


「じゃ、今日このまま後の2曲も録音しちゃいましょう。その前に、30分休憩にします。」





レストランの件で、神田や音響スタッフも私たちの関係を知る事になり気を使っているのか、

自然と悠紫と2人きりになった。


屋上テラスでコーヒを飲む事にした。




「本当に良かった。悠紫くんは本当に最高に素晴らしいピアニストだよ。」


「俺もう、大丈夫だから。何があっても。杏実の事信じてるし、何より…。心から愛してる。それだけで良かったのに。今まで何してたんだろな(笑)あの音を出せたのは杏実が居るからだよ。俺に、愛を教えてくれてありがとう。」


「礼を言うのは私の方だよ…。素晴らしい経験をさせてくれて、ありがとう…。」


「絶対にさ…。」


「ん?」


「一緒に、世界に行こう。」



『うん』

と頷くと、悠紫は辺りを見渡した。

私も釣られて辺りを見渡す。


事務所の屋上テラスには、沢山の植木がある。

視界の中には人の気配は無い。



悠紫は人が居ないのを確認すると、私の顔を優しく包み


そっと、キスをした。

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