第32話 月に1度の辛苦の日

――♪♬♩♫♪♩



ピアノ…?


悠紫くんのピアノの音だ…。


どうして聞こえるんだろう。





姿が見えなくても悠紫のピアノの音色だとわかる。

いつもよりタッチが優しい。


さっきまで、あまり良く無い夢を見ていた。

悠紫のピアノとは無縁の夢。

夢の展開ってどうしてこうも脈絡が無いのだろうか。


暗闇の中、悠紫の姿が見たくなった。

ゆっくりと目を開けると、白いブラウスを着て黒の蝶ネクタイを着けた悠紫がピアノを弾いている。

だけど、おかしい…。

悠紫もピアノも横に見える。


(こんな鮮明な夢、初めて見るかも。)




「おはよう。」


悠紫が演奏しながら私を見る。

穏やかな顔をしている。



(何なの?この夢…。ってか夢か?これ。)



「ふぇ?」


「おはよ。目、覚めた?」



覚醒して状況を把握した。

これは、夢では無い。

悠紫が私の枕元にあぐらをかいてピアノを弾いている。

悠紫が横になっていたのでは無く、私がベッドに横になっていたのだ。



「おはよ…。何、してるの?」


「俺のピアノに起こされるのも良いだろ?」


「うぐ、うぐんぐ。」


口から言葉にならない音が小さく出てしまった。

笑ってしまいそうだ。



「うぐぐ、ありがと…。」


(もう…ダメだ…)



「ふふふっごめん、違うのっ、ふふっ、ごめんねっ。」



私は我慢できず笑ってしまった。

悠紫の気持ちを考えると申し訳なく思う。

だけど耐えられず笑ってしまった。


面白い訳ではない。

とても恥ずかしいだけ…。

それに、悠紫は無理をしている。

それが伝わって余計に恥ずかしい。



「なんだよ。思ってたリアクションと違うんだけど。」


「ごめんね(笑)笑っちゃいけないのは分かってるんだけど。恥ずかしくって笑っちゃう。」


「なんだ。杏実って、こうゆうの喜ぶタイプじゃ無かったのか。」


「そんな事無いし!違うよ!悠紫くんがこんな事するタイプじゃ無いんだよ。」


「うん。確かに。ぷはっ(笑)」


―あはははははは!


「ねぇ!早く着替えて来てよ!(笑)面白過ぎるから!寝室に鍵盤なんて持ってきて何してんの(笑)」


「この部屋防音じゃないからって、音も小さいしさ。何やってんだろな!(笑)くくっ(笑)」


「エマさんになんか言われたのは間違い無いよね?(笑)」



・ 

・  


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《悠紫side》


【昨日】



今、録音している曲はヒットする予感がする。

だけどちょっとだけ引っ掛かるだよな。

ピアノに向かっていても閃きそうに無いから

音響のみんなに休憩を取って貰った。


俺は気分を変えたくて、一人で事務所をウロウロとしてみた。

この事務所のフロアを区切る壁は透明のアクリルで出来ていて中が見やすい。

杏実のデスクのあるフロアを覗くと、杏実は自分のデスクで通話をしてた。

通話が終わると机に向かって何かを書いたり忙しそうだ。


声をかけるのはやめておこう。




「悠くん。散歩?」


「あぁ、エマさん。う〜ん。外に出るほどでは無いんだけど、でも、気分を変えたくて。」


「そ、あともう少しって所よね。」


「そうですね。あとちょっとなんだけど…。浮かばなくて(苦笑)もうちょっとウロウロしてみます(笑)」


「そ。 あ、そうだ。」


(ん?)


「あなたと杏実のエピソードって全然面白くないわね。」


「面白く無いってなんですか?(苦笑)」


「世界的なピアニストになろうという人が、恋人とのピアノにまつわるエピソードが無いなんて。聞かれた時に何も無いじゃ話題にならないじゃないのよ。」


「そんな事言われてもなぁ…。」


「例えばさ? 朝にピアノで優しく起こしてあげるとか、記念日にサプライズでお花いっぱいのピアノで弾いてみるとかさぁ。女はそうゆうの嬉しいものよ。」


「杏実、そんなの喜ぶかなぁ(苦笑)」


「うっとりするんじゃないの?やってみなさいよ!」


「あんまり期待しないで下さいよ。」



俺がそう言うとエマさんはつまんなそうに、シッシッと手を振り仕切りの中に入って行った。





俺をデビューさせてくれたエマって人は、酒が好きでしょっちゅう飲みに行っている。

俺も何度も行ってるけど、めちゃくちゃ強い。

飲み仲間は男女問わず山ほどいるのに、恋人は居ないらしい。

欲しいとも思わないと言っていた。


エマさんは飲みに行くと徹底して聞き役にまわり、自分の事は話さない。

辛かった事や嬉しかった事、家庭環境や友人関係、性的嗜好まで色んな事を聞きたがる。

悲しみや痛みなど人が生きていく上で経験する不可抗力な出来事や、興奮や癒し喜びなど人が欲する刺激の様なものを体験談を聞く事で擬似体験している。

しょっちゅう飲みに行くのは、刺激を求めての事だ。

杏実は次のターゲットにされている。



エマさんと出会った時、杏実との突然の別れをやっとの思いで受け入れ、前に進もうとしていたところだった。

そりゃあ興味津々だっただろうな。

杏実を見つけられるのかどうか、もし見つかったとしたらどうなるのか。

今の現状を一番喜び楽しんでいるのは、エマさんなんじゃないかな。

なのに、まだそれ以上の事を期待しているのか。



笑っちゃうよ。




・ 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《杏実side》


【現在】



「ごめんね。うっとり出来なくて(苦笑)」


「誕生日にお花いっぱいのピアノで作った曲の演奏は?」


「無くても良い…かな(笑)」


「何かの記念日に、レストランで演奏のサプライズは?」


「嬉しいけど、たぶん小っ恥ずかしくて笑っちゃう(苦笑)」


「小っ恥ずかしいとか言うなよ!ふっ(笑)」


「ごめん…。」


「でも杏実が、そうゆうのを求める女じゃなくて良かったなって思ってる。俺の性にも合わないし。」


「それなのに…私が喜ぶならってしてくれたんでしょ?」



うん。

と、悠紫は即答して頷き微笑んでくれた。

なんて幸せな朝だろう。



「ありがと。嬉しい(笑)」


「じゃあ、こうゆうのはどう?」


「ん?」



何を言うのか、次の言葉を待っている私に悠紫がキスをした。



「おはよ。」


悠紫が優しく微笑む。

キスで起こされる朝。

毎日これでも良いな…。



「ふふっ。こっちの方が良い(笑)」


「珍しく素直じゃん(笑)」


「ふふふっ(笑)」


「今夜、みんなと会うだろ?」


「うん…。」


「それまで、服着せないからね…。」



そう言うと私の返事も聞かずにキスをした。



いつもなら歯の浮いてしまう様な言葉を、今日は沢山言ってくれる。

『愛してる』の言葉も惜しげもなく沢山…。



転職してから毎月1度、こんな日が来る。



“あの人に会う日”



その日は私を、痛いくらいにただひたすら愛してくれる。

何度も何度も…。

これは一種のマーキングの様なものなのだろう。

私を自分のものだと確認し安心したいのだと思う。

もう、心配など必要ないのに。

いや、元々心配など必要はない。

納得のいくまで私を求める悠紫が、心の底から愛おしくて苦しい。



(もう、終わらせてあげなきゃね…。)






半年前のエリカとの一件の後、どうなったのかと心配する星准せいじゅんと早苗さんと4人で飲みに行った。

その日に誰が言い出したのか今となっては定かでは無いけれど、月に1度定期的に会って近況報告会をしようという事になった。


今夜の開催場所は横浜。


前回は早苗さんの家から近い所での開催だったから、今回は星准の家から近い横浜。

住む場所がバラバラだからローテーションで開催場所を変えている。



19時の待ち合わせに間に合う様にシャワーを浴び、化粧など準備をして自室を出る。



「おまたせ。」



この日の悠紫は、目が少し怖い。


「何かへん?」


私はわざと、そう聞く。

悠紫は決まって、ううんと首を横に振る。


嬉しそうな顔をしていないか、ソワソワとしていないかを確認しているのは分かっている。

私は嬉しそうな顔なんてしない。

絶対に不安にさせない。

あなたが1番大事だよ。

安心して良いんだよ。

そう、目で訴える。



「じゃ、行こうか。」


「うん。」



口数の少ない悠紫に気を使って沢山話しかけると、テンションが上がっていると誤解されてしまう。

初めて集まる日に、それでケンカになってしまった。

それ以来、気を使わない様にしている。


待ち合わせのお店に着くまでの間、ほとんど口を利かなかった。




――――――――――――――――――――


「おう。お疲れ!」


星准は何も変わらない。

私たちの危うい心の状態など微塵も感じていない。

私はそんな星准に合わせて明るく振る舞う。



「ごめん、4分遅れたね。」


「許容範囲でしょ。」


早苗がそう言って笑ってくれた。

早苗もいつもと変わらない。



「杏実、なんか顔変わったな。」


「そう?どう変わった?」


「なんか、早苗さんと同じ働く女性って感じ?(笑)」


「何それ、私ずっと働いてたけど?」


「泣いてばっかでどうしょうもねぇ従業員だったけど?(笑)」


「まだ言うか!(笑)」



悠紫が気になり顔を見ると、苦しそうな顔をしていた。



(そんな顔で見ないでよ…。)



「悠紫くんは随分変わったわね(笑)」


早苗が私の気持ちを知ってか知らずか悠紫に話を振ってくれた。

悠紫は伸ばしっぱなしにした髪をハーフアップに縛り、しばらく外していたシルバーのフープピアスを着けている。



「そう、ですかね(笑)」


「随分垢抜けたわね。ピアニストってより芸能人って感じがする。」


「やっぱりピアニストには見えないですよね?(笑)」


「うん(笑)」


悠紫も穏やかに笑う。




終始にこやかに、時間が過ぎて行く。

悠紫も楽しそうにして見える。

22時になろうと言う頃、早苗がお開きにしようと声を掛けた。




「そうですね。」


「今日も楽しかったわ(笑)」


「私も楽しかったです(笑)そうだ早苗さん、今度は男性抜きで2人で行きません?」


「あら、それも良いわね(笑)」



この4人で会うのはやめにしよう。

早苗と2人で会う様になれば、別に星准がいなくても…。

すこし寂しい気もするが優先すべきは悠紫の気持ち。

次の約束をどの様にしてうやむやにしようかと知恵を絞っている時だった。


星准が少し照れくさそうに口を開いた。



「あのさ、俺…。最近、彼女が出来たんだよね。」


「うえぇぇ?で?」


「で?ってなんだよ(笑)結婚も視野に入れて付き合ってるよ。」



次の約束をどうやって阻止しようかと必死に考えていた私は、星准の思わぬ告白に

祝福する気持ちよりも、安堵する気持ちの方が強かった。

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