第10話 本能の赴くままに
13時、予定通りに引っ越し業者は到着した。
荷物を全て運び出してもらい鍵を閉め、指定のポストへ鍵を入れる。
良い思い出など全く無いこの部屋と、今日でキレイさっぱりお別れが出来る。
取り壊されるから掃除も要らない。
早く、一刻も早く立ち去りたい。
荷物を整理しているトラックを横目に、待たせておいたタクシーに乗り込んだ。
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タクシーを降りてマンションの玄関に入り、暗証番号を入力した。
10階建てマンションの7階角部屋へ向かう。
インターホンを押す前にドアが開いた。
「思ったより早かったね。」
「ちょ、ちょ、ま、待って!髪!!どうしたの!!?」
深い赤色に染められいた髪が、黒に変わっていた。
「良いから早く上んなよ。」
「待ってよ!髪!戻したんだ!?」
黙って廊下を進む
「すごくカッコいいよ!赤いのも似合ってたけど、これもやっぱりいいね!これ、ホントだからね!!?」
リビングの扉を開き、私を中に入れる。
目を見ようとしない。
照れている。
私が褒めると目を逸らし黙ってしまう。
いつものこと。
答え方が分からないのだろう。
そんな悠紫も、すごく可愛くて好きだった。
「ね?照れてるの?」
「チッ。」
分かりやすく顔を背けた。
「わかった、わかったからぁ(笑)ごめんね(笑)」
「あの色保つの大変なんだもん。もう必要無いし…。」
「何か意味があったの?」
「遠くからでも分かりやすいから。杏実さんが俺に気付く様に派手な色にしておこうと思ってしてたんだ。もう必要ないだろ?」
「………そんな…。」
「なんだよ、泣くなよ(笑)」
「だって…。ごめんね…ありがとう…。 ってか、凄過ぎじゃない??この部屋。」
涙を拭いて部屋を見渡す。
まず、天井が高い。
大きなテレビと大きなガラスのテーブル、その前には黒革のL字型のソファーが鎮座している。
大きなガラス窓。
ベランダも広い。
観葉植物の大きな鉢が2つ。
ピアノや楽器は無い。
「このお家でピアノは弾かないの?」
「防音室があるからそこで弾いてる。」
「防音室かぁ!」
「防音室が俺の部屋探しの条件だよ。」
――ピーンポーン
壁のモニターに、1階の玄関とは違う場所からインターホンを鳴らす引っ越し業者が写し出された。
「これ、どこ?」
「地下駐車場。」
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引っ越し業者のプロの仕事のおかげで一瞬にして荷物は運び入れられた。
家具と言える大きな物は、ベッドと組み立て式のクローゼット、タンスに本棚だけ。
大家さんが要らない物は何でも置いておいていいと言ってくれたから小さい冷蔵庫は置いて来た。
衣装ケースや段ボールも合わせても20箱もない。
悠紫は拍子抜けした様な顔をしていた。
「私の住んでた部屋より広い…。」
「8畳だけど?」
「6畳しか無かった…。」
「お金ないの?」
「節約してんの!」
広告代理店では毎日気が狂いそうになりながら働いた。
辞める同僚を何人数えただろうか。
精神科へ行く人も居た。
働いた分の報酬はきっちりくれたからなかなか辞められなかった。
月々のお給料もボーナスも、男性サラリーマンの平均以上を貰っていた。
5年も働いていたんだもん、それなりに貯金もある。
そんなとこを辞めたのだから節約は必須。
「転出届は出した?」
「午前中に出したよ?」
「じゃ、転入届出しに行こう。」
「今から?」
「うん。」
「落ち着いてからで良くない?」
「また逃げるからダメ。」
タクシーを呼び、乗せられてしまった。
逃げるつもりはもう無いのに信用がないようだ。
お役所というのは何でこんなに時間がかかるのか。
待っている間この場に相応しい話など浮かぶはずもなく、2人でスマホを触ったまま赤の他人のように座って順番を待った。
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どこにも寄らず、またタクシーに乗り帰って来た。
「じゃ、私は、部屋を片付けようかな。」
「俺、あの白いドアの部屋でピアノ弾いてるから何かあったら呼んで。飲み物は冷蔵庫から好きに飲んでね。」
「うん。ありがとう。」
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2時間もすると殆どの物が片付いてしまった。
冷蔵庫からペットボトルの水を取りソファーにドスンと腰を落とした。
水を一口、深呼吸を一回。
テレビをつけた。
夕方のニュースを見始めて10分程過ぎて、悠紫が部屋から出てきた。
「呼べば良いのに。」
「さっき終わったとこだから。」
「一緒に買い物行こう。必要な物もあるだろ。夕飯は俺が作るよ。」
「え? 嬉しいっ。」
・
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エリカの事が怖い。
ずっとついて回って忘れた事がない。
用心の為に悠紫より先に部屋を出て、教えて貰ったスーパーマーケットに向かって歩き出した。
(怪しい人居ないよね?あの子今、どんな風になってんだろ…。)
「杏実さんっ。手つなご。」
「びっくりしたぁ…。合流するの早いよ!」
「大丈夫だよ。手つなごうよ。」
「やだよ。」
「じゃ、はい(笑)」
悠紫は嬉しそうに笑いながら手を差し出した。
歯と頬の間に洞窟を作る悠紫独特の笑顔。
私はこのキラースマイルに何度やられた事だろう。
「は?」
「やなんでしょ?はい!(笑)」
また悠紫は手を差し出した。
そっか、そうだった。
嘘をつかないといけないんだった。
「そうじゃなくて!(笑)わかった。うん。繋ご。」
「うん。繋ご!はい!」
「違うじゃん!(笑)」
「あはは!」
私も一緒に笑ってしまった。
結局、欲望にも負けて手を繋いで歩いた。
毎日楽しいだけの2人で一緒に居た頃にもしなかった事を、今になってしている。
神様はいったい、何がしたいのだろうか…。
これ好きだったよね?
これ美味しいよ。
こんなのあるんだね。
せっかくならこっちにしようよ。
そんなたわいも無い会話も、夢の様に幸せなのに同じ家に帰れるなんて。
ちょっと泊まりに来ただとか、そんなんじゃない。
今日からは私の家。
2人の家…。
3年間という時間は、私たちの仲には何の影響も無く、まるで数日の空白だったかの様に埋められて行った。
今日は特別な日だからと、1番得意だというステーキを焼いてくれるという。
お肉の処理や下味を付けたり、料理をする姿にも無駄な動きが無く危なっかしい場面がどこにも無い。
併せてコンソメスープやサラダまで手際良く作ってくれた。
味はもちろん最高に美味しい。
私はバケットを切って出しただけ。
「ごちそうさまでしたっ。美味しかったぁ!片付けは私がやるね。」
「うん、じゃ、宜しく。」
「悠紫くんってさ。ピアノが上手くて作曲も天才だし、頭も良くてカッコよくてさ」
悠紫がわかりやすく照れている。
「お料理も出来て、ダメなとこあるの?」
悠紫は腕を組み右手でアゴを触り何やら考えている。
「無いんじゃない?」
「あぁ(笑)その性格だな(笑)」
「おいっ!」
「ぷはっ(笑)」
「ふっ(笑)」
「…俺、シャワー済ませちゃうよ。」
「あぁ…じゃ、片付けちゃうね。」
・
・
悠紫はシャワーを浴びながら浴槽にお湯を溜めてくれていた。
「疲れたでしょ?ゆっくり浸かって来て。」
「ありがとう…。」
・
・
お湯に浸かりながら、やっぱりこうなった事が不思議で色々と考えていた。
3年の期間が無くてもこうなっていたのかな?
どうして3年も離れていなきゃいけなかったのだろう。
エリカのせい。
相談しなかった私のせい。
だんだんと怒りが湧いてくる。
次は絶対に逃げてはいけない。
悠紫を絶対に傷付けさせたりしない。
3年間で私は強くなった。
絶対に負けない……。
・
・
洗面室でスキンケアを済ませ髪を乾かした。
タオルで顔を隠してそそくさとリビングを横断して部屋に向かう。
「悠紫くん…。部屋…入るね。おやすみなさい。お風呂ありがとう!」
――パタン
「ふう…。」
――トントン
「はい!?」
〔入っていい?〕
(え、どうしよう。 …しょうがないな。)
「………どうぞ。」
――ガチャ
悠紫は部屋に入るなり、私に詰め寄った。
「な、何?」
「何で顔隠してんの?」
「化粧してないから。」
「そんなのどーでもっ、良いんだけど。」
「や!ちょっと!」
「へへっ(笑)」
顔を隠してたタオルを取られてしまった。
手で顔を隠すと手も剥がされた。
掴んだ腕を離してくれない。
「やなヤツだなぁ。もう…。」
「大丈夫だよ。キレイだよ。」
「やめてよ。」
「てか、ホントにこのまま寝るつもり?」
「…何よ…。」
「一緒に住む様になって、なんも無いなんて思ってないよね?」
「ち、近いよ…。」
私の腕を引き寄せた。
お風呂上がりの悠紫の肌が、いつも以上に白く見える。
吸い込まれる様な肌と目に抵抗が出来ない。
本能が、理性を剥がしていく。
目を閉じてしまった。
柔らかい感触がくちびるに触れた。
すぐに離れて私を見つめる気配がする。
私が目を開けるのを確認すると、悠紫は目を閉じまたくちびるを重ねた。
ゆっくりとお互いの動きを確認する様にくちびるが動く。
悠紫のキスはまるでピアノの演奏の様だった。
緩やかな序奏でゆっくりと心を掴み、溶かす。
いきなりクライマックスから始まったりしない。
心が溶かされた頃に徐々にクライマックスへ流れて行く。
悠紫の舌がしなやかに動く。
警戒心も劣等感も罪悪感もどこかへ行ってしまった。
自分の身体が、反応している。
もう、我慢が出来ない。
私の気持ちに気付いたのか、悠紫も同じ気持ちなのか…。
キスをしながらベッドへ誘導された。
ふくらはぎがベッドに当たるとキスをやめて優しく寝かされた。
私の隣に横になると穏やかに笑った。
「優しくしてね。」
「それ、私のセリフ。」
「ふっ(笑)」
「電気消して…。」
「ダメだよ。杏実さんの事たくさん知りたいんだよ。いっぱい見てあげる。」
「私の事、嫌いになっちゃうかも。」
「ならないよ。杏実さんは…俺の事嫌いになってね。」
「どうかな…」
身体も白い。
私よりも真っ白でキレイな肌。
ずるい。
こんな私を、こんなに愛してくれるなんて
ずるい。
私をこんなに好きにさせるなんてずるい。
愛おしさが限界を超えて胸が死ぬほど痛い。
罪悪感も蘇って来る。
それなのに身体は快楽に包まれ、気がおかしくなりそうだった。
精神と身体のバランスが崩れたのだろうか。
涙が停めどなく溢れる。
「あっ。ごめんぁ、なさいっ、悠紫くんっ。」
「はぁ、泣かないで。」
「あっ、あぁ。許してっ。」
「はぁ、もう…怒ってないっ。」
・
・
・
・
・
悠紫の身体にしがみつき泣いた。
悠紫が私の頭や背中を優しく撫でる。
胸に背中に直に触れる体温が温かい。
どれくらい経ったのだろう。
涙は流れるけれど頭はだんだん冴えて来た。
「こんな…面倒くさい、年上の女…嫌になったでしょ?」
「そう思う?」
「うん…。」
「俺だって3年…辛かったんだよ?4年間ずっと好きなんだよ。俺にはずっと…杏実だけだったんだよ。」
杏実と呼び捨てにされたのが嬉しくて、泣きながら笑ってしまった。
「やっと一緒になれたのに。嫌になるなんてないだろ。俺の事なんだと思ってんの。」
「ごめんなさい…。」
「杏実、大好きだよ。…愛してる。」
「私は…、悠紫くんが…。大っ嫌いっ。」
悠紫が穏やかに笑ってくれた。
私も穏やかに笑う。
表情は…
嘘をつく事が、出来ない。
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