第4話 とっさの嘘

日曜日。


日頃パンツスーツばかりの私も、今日ばかりは女性らしい格好がしたくて

紺色のシフォンワンピースを着て、普段より1センチ高いヒールを履いた。

春だと言っても夜になればまだ肌寒い。

淡い紫色の薄手のコートを手に持って家を出た。




音楽大学の正門から入り看板の案内に従いホールへ向かう。


〝その先を右〟


一階建ての小屋の様な建物を右に曲がり、広がる景色に息をのんだ。


ホールに続く歩道に、満開の桜でアーチが出来ていた。



(すごい!キレイ!)


桜を見上げながら歩くなんて、どれくらい振りだろう。

ここ数年、桜をキレイだと思う余裕などなかった。

美術館の様な外観の建物の入り口に、定期演奏会の看板が立っていた。

ここがどうやらホールのようだ。

中に入りそのまま受付に向かった。



「柊杏実です。チケットは無いんですが。」


「少々お待ち下さい。あ、はい。お名前ありました。こちらどうぞ。」


「ありがとうございます。」


A4サイズのフライヤーを貰った。

今日の出演者の名前と顔写真が小さく写っている。


菅屋すがや悠紫ゆうしって、こう書くのね。)


菅屋さんは、ちゃんと名前を伝えてくれていて、それだけで嬉しかった。


フライヤーを見ると終了時間が17時半になっている。

菅屋さんの出番は10人中、10番目。


(2時間半もあるんだ。トリを飾るなんて凄い人なんじゃ…??)



ホールの座席表を見ると収容人数は320人。

私は舞台から5列目の真ん中の席を陣取る事が出来た。

前過ぎるのは少し恥ずかしくて、ここを選んだ。


開演時間が近付き、振り返り見渡すと客席はほとんど埋まっていた。



9人の演奏者は全員がピアニストというわけでは無く、バイオリンやトランペットなど、ありとあらゆる楽器が登場した。

知っている曲も有れば知らない曲もあって、どの演奏者も素晴らしかった。


ずっと感動しっぱなしで、

菅屋さんの出番まであっという間だった。



菅屋さんは舞台の下手から登場し、早歩きでピアノの前に立つと観客席を見渡した。


白のウィングカラーシャツに黒の蝶ネクタイ、ベロア生地のベストに、足の細さが分かるスリムなスラックスを合わせていた。

シャツ以外は全部黒でまとめているのにどこか華やかさを感じる。


観客席を見渡した後、真っ直ぐ前を見ると深く一礼。

目が合った様な気がした。


椅子に浅く腰掛け左足を椅子の下に入れて右足でペダルを踏む。

ラフな演奏スタイルに何故かドキドキした。


左に顔を傾けると、ふわりと右手を持ち上げ鍵盤に落とした。



奏でる音がさっきまでの人達とは全然違って聞こえる。


一音一音に愛を感じる。


全然笑わない人だったけど、冷たそうに見えたけど、

この人は、愛の深い人だ。


両目から涙があふれてくる。


聞いた事の無い曲だった。

なんて良い曲なんだろう。

後で曲名を教えてもらおう。

帰りにCDを買って帰らなきゃ…。



2曲の演奏が終わり、目を押さえるハンカチは水分を吸う余白が無いくらいに濡れてしまっていた。


疲れた心が解れ、ストレスが軽減されて行くのを感じる。


3曲目は癒しの総仕上げの様な曲だった。

奏でる音は、私を包み込みフワフワと持ち上げあやしてくれている様だった。



お仕事頑張ってるね。

あなたが居てくれて良かった。

時には休んだって良いんだよ。

僕が癒してあげるよ。



私を慰め癒し浄化する。



「うわぁああん!」


声をあげて泣いてしまった。

止めたいのに、声が漏れてしまう。


「あぁ。うぅわぁあ。」



「あの人やばっ。」「誰の関係者?」「怖いって。」「外出した方が良いんじゃ無い?」


観客席に座る人達が私を見る。

小声で私の事を言っていると、分かっていても泣き止む事が出来なかった。


菅屋さんもこちらをチラリと見て、観客席の状況に気が付いていたが演奏をやめなかった。

それどころか、もっと感情を込め演奏をした。

お陰で私は、自分の中の負のもの全てを外に出す事が出来た。


菅屋さんは演奏が終わると、満足そうに天を仰いだ。


力強い拍手が湧き起こり、ゆっくり椅子から立ち上がるとこちらへ体を向けた。

幸せそうな顔をしている。



「うわあぁ!良かったよー!あぁー!!」



終わってもなお、拍手をしながら号泣する私に周りの人達はドン引きしている。

それなのに1人だけ反応が違った。



「あははははは!」


舞台の上で菅屋さんが笑っていた。

それも、声をあげて爆笑していた。



そして、真っ直ぐ私を見て


「ありがとう。」


と、言った。

その言葉を聞いて、私はまた号泣した。





観客が、どんどん外へ流れていく。

私は顔が上げられず最後まで座っていた。

その時も、コソコソと私の事を言っている声が聞こえた。

その声の中に

「悠紫があんなに笑うの初めてみたかも。」

「菅屋くんって笑えるんだね。」

などと言う声もあって、あまり普段から笑わない人だという事がわかった。


身体の中に水分が残っていないんじゃ無いかと思うくらいに喉が渇いていた。

ホールのエントランスにある自動販売機で冷たいお茶を買い速攻飲んだ。


ホールを出ると先程とは景色が一変していた。

桜にライトアップがされている。

桜の木の間に、ベンチが置かれている事に気が付き腰を下ろした。


菅屋さんに恥ずかしい思いをさせたに違いない。

会ってしまう前に立ち去らなければと思うのに菅屋さんの演奏の余韻は私をその場に拘束した。



――ブー、ブー、ブー、ブー


(電話?はぁ。会社かな…。)


スマホを取り出し見ると菅屋さんからだった。

怒られてしまうのだろうか。

出るのが怖かった。


「もし、もし…。」


「杏実さん!今日は、来てくれてありがとう。」


「杏実さん??」


「そう…呼んじゃダメ?」


「ダメなわけない…」

(嬉しい(泣))


「良かった。」


「お礼を言うのはこっちだよ…。うっ。本当に良かった…。ひっく。良かったよ…。」



菅屋さんは怒って無かった。

菅屋さんの優しく低い声が耳に響いて、また涙が出てきてしまった。

私の恋心の芽は、完全に花を咲かせていた。



「また泣いてるの?あはっ(笑)」


「3曲とも良い曲だったよ。ひっく。曲名教えて。帰りにCD買って帰るから。」


「3曲とも、僕の作った曲なんだ。だからCDは無いよ。」


「そうなの!?悠紫くん…天才なんだね。」


「杏実さん、今どこにいる?」


「ホールを出てすぐのとこ。桜がキレイ…」


「わかったすぐ行くから待ってて!」


電話は切れてしまった。





「ごめんなさい。怒ってるでしょ?恥ずかしかったよね?」


「そんな事ない。嬉しかったよ(笑)」


笑っている。

菅屋さんが、私にだけに笑顔を向けている。

幸せだった。


「みんな杏実さんの事話してるよ(笑)」


「ごめんなさい…。」


「謝らなくて大丈夫だよ(笑)」




「胸のここがね…」


心があるとされている、胸の真ん中に両手を置くと悠紫の目がそこを見た。


「暖かいんだ…。」



悠紫が顔を上げたタイミングで私の目から涙がこぼれた。


「すが…、ゆ…悠紫くんのピアノ、好きだよ…。聴いていられたら幸せになれる。悠紫くんのピアノ…ずっと聴いていたいな…。」


「杏実さん。一緒に帰ろ。」


「お友達は?いいの?」


「どうでも良いよ。俺、杏実さんの事たくさん知りたいんだ。」






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

《現在》




それからずっと一緒に居たのに、

好きだったのに目の前から消えた。

悠紫の側で、悠紫の奏でるピアノの音が聴けなかったのは地獄に等しかった。




「そう言えば、いま大学院に居るってなんで?」


「杏実さんが居なくなって、同じ毎日を繰り返す事が辛くなってしまったんだ。毎日探し回ってたし休学したんだよ。」


「…………。」


「1年が過ぎてちょっとずつ自分の事が出来る様になった時、ニューヨークの事務所が声を掛けてくれたんだ。」


「ピアノは続けてたの?」


「ピアノは俺の全てだし…辞めたら杏実さん天国で悲しむと思ったから。」


「死んだと思ってた?(苦笑)」


「最初はね。だっておかしいだろ。急に居なくなるなんて。家ももぬけの殻だし。身辺整理してから死んだんだと思ったよ。悩んでる様にも見えなかったし、なぜ救えなかったのかなって…すごく辛かったよ。でも、死んでんのはちょっと違うよなって思う様になったけど…。」


「本当にごめんなさい…。私、死んでたとしたらきっと天国には行けてないよ…。 で、それから、ニューヨークの事務所はどうなったの?」


「ピアニストとしてニューヨークに渡ってしばらくは演奏の仕事をしたよ。だけど1年位して社長に呼ばれて言われたんだ。『お前のピアノは悲し過ぎる』って。それから徐々に仕事が無くなって、日本に帰って来た。」


「悲し過ぎる?」


「うん…。だから今月から大学院に戻ってるんだ。卒業だけはするつもりだよ。杏実さんはどうしてたの?」


「私は3年前にこの土地に流れ着いてからずっとここに居る。星准せいじゅんに拾って貰ったんだ…。」


「杏実さん、もしかして…あの人と付き合ってるの?」



「付き合ってるよ…。」





私はその一言をきっかけに



嘘ばかりを言ってしまう様になった…。

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