オーダー6 獅狼
「虎狼」
古めかしい一軒家から出て来た背中に呼びかけると、虎狼はぎくりと体を揺らして振り返った。
「……兄さん、どうしてここが」
「江之島さんに聞いた。時也の看病をしているらしいな」
「看病というか……」
「部屋を辞めたのも、それが原因か」
「いや、そうじゃない」
虎狼は抱えている小さな布袋を握り締めている。視線は定まらずおどおどしている。情けない。
「来い」
逃げ出さず、大人しく付いてくるだけの気概はまだ残っているようだ。足音が続いてきている。
人がいない方が話しやすい。いつもの神社に向かう。土俵に上らなくなってからも、習慣になってしまっているのか、トレーニングのためにジョギングをしていると、ここに来てしまう。俺にとって最後の取り組みになった苦い思い出の場所だ。奉納相撲で、四歳も年下の弟に土を付けられた。悔しくて忘れることが出来ない。
それなのに虎狼は勝手に相撲を止めた。相撲部屋に入って番付を上って。それなのに俺が欲しかったものすべてを簡単に捨てたのだ。その行動を許すことなど出来はしない。
歯ぎしりしそうな怒りを飲み込んで虎狼に用件を告げた。
「梅が里親方には話を通してある。新弟子検査を受けてからだが、部屋に戻れる。痩せてしまった体は、また作り直せばいい」
「戻る気はない」
振り返ると虎狼は地面に目を落としていた。なんだ、この弱々しい態度は。まるで我が儘を言う子どもじゃないか。イラついて声が大きくなった。
「なにを勝手なことを言ってるんだ! お前がどうやって強くなれたかわかってるのか!」
怒りのあまり、大声で怒鳴っていた。冷静に話をするつもりだったのに、自分を抑えることが出来ない。
「俺と親父が、お前を鍛えて一人前の力士にしてやったんだ。それを忘れたのか!」
「育ててもらった恩は忘れてないよ。だけど、貰った分は昇進で返したつもりだ」
昇進。そうだ、こいつは強い。俺の身長を追い越した途端に、俺に勝った。俺が身長のせいで落ちた新弟子検査にも当たり前のように通る体格だった。梅が里部屋でも、ぐんぐん伸し上がった。
「お前なら、もっと勝ち上がれる」
体格にも恵まれてる。技もある。土俵に上れば弱気も見せない。だが、今のこの体たらくはなんなんだ。なぜもっと気迫を見せない。地面に目を落とした弱々しい姿にイライラが募る。
「俺は相撲が好きだ。だが相撲で稼ぐことが好きじゃないんだ」
「生意気なことを言うな」
二十五歳にもなって、青臭いことを言う。現実というものを見ていない。
「好きなことをして稼いでなにか不都合があるのか。良いことしかないじゃないか」
「力士になったら、ただ好きなだけじゃ駄目なんだ。勝たなければ意味がない」
「当たり前だ!」
そんなのは幼いころ初めて土俵に上った時から変わらないことだ。
「俺は勝ち負けに関係なく、ただ楽しんでいたかった」
楽しんでいた、それだけか? こいつにとって素人相撲はすべて楽しかったと? 俺を負かしたあの時も、今では楽しい思い出にしているのか?
「ふざけるな!」
張り手を繰り出そうと右手を上げたが、虎狼はさっと体をかわして避けた。はたき込みはされなかったが、勢い余ってたたらを踏む。もう少しで土足で土俵に踏み込むところだった。怒りが一層増して、虎狼をぎろりと睨みつけた。虎狼は先ほどまでの弱腰がどこへ行ったのか、強い視線を叩きつけてくる。それに応じるように、突き倒しを掛けようと向かっていく。虎狼はまた避ける。すれ違いざま、平手を出すと、虎狼の手を捕らえた。
と、思ったが手が当たったのは虎狼が持っていた布袋だった。地面に落ち、中身が転がり出た。
「……なんだ?」
あっけに取られて思わず動きが止まった。なにかのキャラクターらしい目の大きな動物の絵が描かれたハンカチから、アルミ箔に包まれた丸いものが飛び出したのだ。虎狼は軽いため息を吐いてそれを拾おうとした。俺の方が近くにいる。拾いあげた。アルミ箔の破れ目から海苔が見える。
「握り飯?」
「島彦の、鳥子さんの息子の弁当だよ。忘れ物を届けに行くところだったんだ」
「……すまん」
急に頭が冷えた。今日は落ち着いて話すつもりだったことも、しっかりと思い出した。
「いいよ。時間はある。また作るから、貸して。持って帰る」
「いや」
アルミ箔が破れているのは、ほんの一部だ。土を払えば食べられる。アルミ箔を剥いてかぶりつく。虎狼が慌てて止めようとする。
「兄さん、無理しなくても」
「無理じゃない。神社で食べ物を粗末にできるか」
小ぶりな握り飯は米の炊き加減がいいのか、崩れることはないが柔らかい。子どもでも食べやすいだろう。真ん中には丸く焼かれた玉子焼きが入っている。どうすればこんな形になるのかわからないが、甘くてうまい。母の作る玉子焼きに似ている。
「母さんの味だな」
「俺の基本は母さんの味なのか」
虎狼が、ふっと微笑んだ。
「知らなかったよ。作る時になにも考えてなくて、なんとなくその味になったんだ」
「うまい」
虎狼はいつも泣きながら飯を食べていたのに、なぜ、今になって美味いものを作るんだ。それも他人の子どものために。
「お前は、食べ物が嫌いなんじゃないのか」
「食べるのは好きだよ。ただ、量をたくさん食べることが辛いだけだ。料理も好きだし、ちゃんこ番は楽しかった」
ちゃんこ番などという自分が体験したことがない相撲部屋の働きを聞いても、なぜかもう怒りは湧いてこない。
「今は鳥子の息子のために作ってやってるのか」
「島彦だけじゃないよ。時也も病気で動けないから、食べさせてる」
「お前は昔から時也にべったり懐いていたからな」
虎狼が寂しそうに笑う。
「稽古が辛くて泣きそうだったんだ、俺は。でもいつも気を張って笑ってた。父さんにも兄さんにも泣いたところは見せられなかったから。弱音を吐くなと怒鳴られるから。そんな俺の辛さを、時也だけがわかってくれたんだ」
「子どもになにがわかるっていうんだ」
鼻で笑ったが、虎狼は真面目な表情を崩さない。
「時也が、いや、俺もだけど。四歳の時だよ。『お相撲つらい? うちの子になる? お父さんに頼んでみるよ』って言ってくれたんだ。俺は泣いてなんかいなかった。ちゃんと笑顔を作れていたはずだ。それでも、時也は俺の気持ちをわかってくれた。それだけで頑張れるって思ったんだ。父さんと兄さんが言う通りに、力士になるまでやってみようって」
ぐらりと目眩のようなものを感じた。虎狼の話に衝撃を受けたのだということはわかった。だが、それを真正面からは見つめられない。そんなことをしたら俺は、俺の過去は、どうやって報われればいいんだ。
なんだか……、なんて言っていいのか、なにも思いつかない。子どものころの泣いている虎狼の顔が、今の虎狼とはかけ離れていて、どうしていいのかわからない。今、目の前に見ているのは知らない大人の顔だ。無理をしていない自然体の、強がりもしない幸せそうな。
それが全部、力士を諦めたから、いや、捨てたからだというのなら。
「お前は本当に、相撲が好きだったのか? 俺のために気を遣って、そう言っているだけなんじゃないのか」
「奉納相撲、負けてばっかりだったけど、楽しかった。兄さんと相撲取るの、好きだったんだよ」
神社の土俵に屋根はない。さんさんと春の陽が降り注いで、きっと裸足になって土俵に上ったら温かいだろう。子どものころ、奉納相撲の稽古で何度も踏んでいたのに、俺はもう、その感触を覚えていない。たった一回、虎狼に負けたことだけが心の底に残って、この土俵がどんな感触だったか、すっかり記憶から追い出してしまっていた。
俺はどうして土に触れることを止めたんだ。虎狼に負けたから。それは本当だろうか。俺はずっと、逃げたかったんじゃないのか。
「お前が飯が食えなくて泣いてたのを見て、なんて情けないやつだって思っていた」
家で出てくる料理は、俺も虎狼も同じ量で、食べ終えるまで席を立つことは許されなかった。俺でもきつい量だったんだ。虎狼は四歳も年下だったのに、俺はなにも考えていなかった。自分のことしか見ていなかった。俺はそれだけの人間でしかない。
「自分が食べられなくても、人に飯を食わせることは出来るんだな」
「たくさん食べてもらえるのは、すごく嬉しいよ」
虎狼がなにが好きかなんて考えたこともなかった。虎狼は小さく笑ってみせる。
「そうだな。もし部屋に戻るなら、ずっと序二段のまま、ちゃんこ番に徹するか」
まさか、こいつが冗談を言うなんて。つられて思わず頬が緩む。
「馬鹿を言え。そんなことのために部屋に入るやつがあるか」
もう、いい。もうなにも言うことはない。虎狼は自分で自分の道を決めたんだ。俺には関係ない。俺は関係することが出来ない。
期待すると見せかけて無理を強いて、俺と父は虎狼の人生を奪い取っていたんだ。虎狼は己の思い浮かべる人生を歩んでくることが出来なかった。俺と同じように。
叶わなかった俺の夢も、父のこだわりも、虎狼が背負って当然だと思っていた。
「邪魔をして悪かった」
顔をそらして神社を出ようとすると、呼び止められた。
「兄さん」
振り返ることは、とても出来ない。こんな情けない表情を弟に見せることは出来ない。
「なんだ」
「時也と一緒にカフェを開くためにいろいろ初めてる。料理を仕事に出来そうなんだ。次の土曜日、試食会をするから、兄さんも来てくれ。父さんにも話してみてくれないか」
ぐっと唇を噛み、顔を上げる。せめて背中だけでも昔の通りに見えるように。
「話だけはしておく」
俺の声は情けなく震えていなかっただろうか。頼りがいのある兄と見えていただろうか。
玄関に入ると、いつものように母が迎えに出た。
「お帰り、獅狼。あら、今日はお仕事じゃなかったの」
平日に俺がスーツを着ていない姿を母は見たことがないはずだ。
「有給休暇を取りました」
「そうなの。珍しい。朝早くから出かけていたから、お仕事かと思ってた」
「虎狼と会っていました」
母の動きがぴたりと止まった。心配そうな表情だ。俺がまた虎狼に突っかかったことを心配したんだろう。その通りだが、結果は想像とは違う。母の心配は杞憂だ。それがなんだかおかしくて笑ってしまった。母は不思議そうにはしたが、なにも聞かずにいてくれた。
「虎狼から、父さんに伝言を頼まれました。父さんは?」
「お部屋にいるけど……。伝言ってなに?」
「時也たちと飲食店を開きたいそうで、試食会をするとか。来てくれるか尋ねて欲しいと」
「まあ、変わったことを始めるのね」
母は結婚してから友達付き合いもせず、父が退職してからは、ほぼ二十四時間一緒にいる。この家に嫁いでからは、カフェになど一度も行ったことがないのではないだろうか。
「父さんにも来て欲しいと」
「え、それは……」
母の表情が曇る。父は古いものにしか興味がない。自分が生まれた年代より以前のことしか信用しない。若い人間など蔑むことしかない。それは息子にも当てはまる。俺も虎狼も本当の意味で認められたことは一度もない。今まで現実を見ないようにしてきたが、俺は疎まれてすらいる。父が俺に期待したのは力士になるということだけで、俺はその期待に応えられなかったのだから。
「お父さんには、そういうこと言わない方がいいんじゃない?」
母の心配は、今度は杞憂では終わらない。父に話せば、もう二度と虎狼は家の門をくぐることすら出来なくなるだろう。だが、虎狼自身が望んだことだ。虎狼が自分で選んだ道だ。俺にはなにを言う権利もない。
父の部屋は家の一番奥にある。まるで奥座敷にいる殿様のように窓もろくにない薄暗い部屋に鎮座している。勤めていた公的機関を早期退職し、若いころに相続した親の遺産で暮らしている。それも殿様らしい気難しさの原因でもあるのではないかと感じる。
縁側に面した廊下を進み、角を曲がると、父の部屋の襖が見える。両開きの襖の前に膝をつき声をかける。
「失礼します」
「ああ」
礼儀に則って襖を引き開ける。少しでも粗相があれば灰皿が飛んでくる。子どものころは緊張したが、今では滑るように体に馴染んだ所作だ。
「虎狼と会いました」
父は無言で、読んでいる新聞から目を上げない。
「角界に戻る気はないと言っていました」
父は黙ったまま新聞を捲る。無言だが不機嫌になったことは如実に感じられる。子どものころから感じ続けた気配だ。家中どこにでも転がっていたこの空気を恐れて、俺と虎狼はろくに喋りもしなかった。母もずっと黙っていた。家族の団欒などというものを味わったことはない。
「飲食店を始めるそうです」
ぴくりと父の片眉が上がった。気に食わなかったのだ。
「その準備の試食会に、父さんにも出席してほしいと」
灰皿が飛んできて音をたてて襖に当たった。父は新聞を放り出し、息を荒らげている。
「それで? お前は子どもの遣いをしているのか。黙って虎狼の言い分を飲んだのか」
「はい。虎狼にはもう、相撲の世界で苦労させたくはないんです」
「なにが苦労か!」
怒鳴った父に気迫はない。いつの間にか老いて、弱々しくなっていた。
「俺のすべてをかけてお前たちに相撲を仕込んだんだ。お前たちが楽に生きられるようにと思ってのことだ。お前たちには才能があった。それを二人ともどぶに捨てて」
父がギリッと歯ぎしりする。今にも拳が飛んできそうだ。
「俺達には才能がなかったんです。俺は体格に恵まれなかった。虎狼は食べることが出来る体に恵まれなかった。持って生まれたものは仕方ないと……」
「俺が悪いとでも言うのか! 生まれた体に文句を付けるのか! 十分に生きられる体だ、飯も十分に食わせた。なにが不満だ! 言ってみろ!」
「もらった体には感謝しています。育ててもらった恩にも俺も虎狼も感謝しているし、なにかでお返ししたいと思っています。ですが、俺達には相撲しかなかった。相撲で生きていけない時にどうしたらいいのか、途方にくれた俺たちの気持ちは、父さんにはわからないでしょう」
「それはお前たちが悪い。お前はろくに育たなかった。虎狼は気が弱い。俺はそんな風には育てなかった。お前たちは母親に甘やかされたから、そんなことになったんだ」
「母さんに、なんの落ち度があるって言うんですか」
「甘やかして我が儘を聞いて、結局、なにも出来ない大人を育てたんだ。これ以上の罪があるか」
ため息を吐きそうになるのを、眉を顰めることでなんとか堪えた。老いた父を見捨てるようで、言葉を継ぐのが躊躇われた。だが、今言っておかなければならない。子どものころから抱えて来た違和感を解消する、その時が来たのだ。
「あなたはなにもかも母さんに押し付けて自分ではなにもしなかった。ただ座って怒鳴り散らしていただけだ。相撲の稽古をつけたこともない。当然だ。あなたは相撲を取ったことすらない。食事についてもそうだ。あなたがなにか考えたことがありますか。メニューや栄養価を唱えたことがありますか」
父はまた歯ぎしりして俺を睨む。
「すべて母さんが一人で立ち働いたんです。相撲部屋への推薦だって、あなたは一指を動かすこともしなかった。ただ命令しただけです」
「俺がなにもしなかっただと? お前に相撲の良さを教えたのは誰だ。生きる道を示したのは誰だ。お前は大切なものがなにもないような人生を歩みたかったのか?」
父にそのまま返してやりたい言葉だ。あなたに大切なものはあるのですか、と。
「俺も相撲は好きだ。出来るなら力士になって勝負の世界で生きたかった。その思いは今もある。だが、今の自分を後悔はしていないんです。今の俺がなんの仕事をしているか、父さんはご存じないでしょう」
父が目をそらして俺を無視しようとする。都合が悪くなった時のいつもの姿だ。
「据え置き型ウォーターサーバーの会社で営業をしています。お父さんなら水は水道水で十分だと怒鳴るでしょう。ですが、世の中にはウォーターサーバーを必要としている人がいるし、歓迎されもするんです」
父の機嫌が急降下したのが眉間の皺でよくわかる。
「そんな口八丁で稼いだ金なぞ、身につかん。もっとましな仕事をしろ」
「父さんが言う、ましな仕事とはなんですか。具体的になにか言えるんですか。ただ自分の気に食わないことに文句を言つけているだけで、なにか考えがあるわけではないのではないですか」
「黙れ!」
父は脅すような大声を出したが、狼狽していることが、目をそらしたことでありありとわかった。
「父さん、俺も虎狼も生きる道が他にあった。それだけなんです。虎狼のこと、受け入れてやってはもらえませんか。相撲以外の生き方を認めてはもらえませんか」
「出て行け」
その声に張りはない。往時の迫力もない。ただ、今でも息子たちを支配しようとする妄執を感じる。支配出来ないならば切り捨てるまで。そんな気持ちが透けて見える。
「わかりました。今までお世話になりました」
立ち上がろうとすると、廊下に立ち尽くしていた母が縋りついて来た。
「獅狼……!」
そっとその手を放す。
「母さん、虎狼は良くやっています。良ければ、行ってやってください。きっと、喜びます」
母はなにか言おうとしていたようだった。だが、もうここにいることに耐えられない。急ぎ足で家を出た。門前で、ふと立ち止まる。
虎狼。俺たちの自由は、苦いな。この苦さをいつも感じて、恐れて、目を瞑って来た。だが、見上げさえすれば空はどこまでも青く、日は暖かい。
「行くか」
やっと手に入れた、俺だけの世界へ。
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