オーダー4 朋美
「どうしよ」
考えるよりも先に口が動いてた。本当に、どうしよう。
「なんで、あれもこれも壊れるのよう」
理由はわかり切っている。このアパートが古いからだ。築五十年だとか。古い。
「裸でなにしてんだ、
「
「風呂?」
お風呂場を覗いて諸くんが言う。
「普通だろ」
「お湯が出ないんだよ」
「ガスの機械だろ、壊れたのは」
諸くんはこういう細かいところ、気にする。
「どうしたらいい?」
「大家に言って直してもらえばいいだろ。台所のも、そうだったじゃねえか」
「そうだけど、大家さんは旅行でいないんだよ」
「ふうん」
面倒くさそうにしている諸くんに、とっておきの情報を披露してみた。
「世界一周してるんだって」
「うわ、金持ち。そんなに金持ってるんだったら、家賃タダにしてくれりゃいいのにな」
「じゅうぶん安いよ、広いし」
「でもぼろいよな」
「諸くん、文句ばっかり」
「文句じゃねえ。事実だろ」
ぐるりとお風呂場を見回す。水色のタイルの壁とか、コンクリートの床とか、うん。
「そうだけど」
「あ、やべ。チャット途中なんだった」
「またゲーム? ねえ、就職活動は? お仕事辞めてからもう一年になるよ」
「は? なに、人の心配してんだよ。自分はどうなんだよ」
「就職決まったよ。四月から働くよ。新年度でちょうどいいときじゃない。諸くんもお仕事を……」
「うるせえな。ほっとけよ」
「でもお」
「どうでもいいけど、ドア勝手に開けるなよ」
諸くんはさっさと自分の部屋に戻って行ってしまった。
「もう、なんにも考えてない」
頭がぷんぷんしちゃう。諸くんのこと心配してるのに、全然わかってくれない。もう考えるのやめようかな。
それより、問題はお風呂だよ。裸のまま間違ってお水かぶっちゃったから寒いんだってば。
とにかく服を着て、リビングの隅に置いたこたつに潜り込む。もう春だけど、こたつはしまうわけにはいかない。絶対、必要悪。
こないだスマホに新しく登録した番号を見る。大家さんの家の留守番さん。一度しか見たことない人に電話するの、いやだなあ。
それに、あの人、本当に大丈夫な人だったのかなあ。目が据わってるっていうか、どこを見ているかわからなくて、なんとなく怖かったんだよね。もう、本当になんであれもこれも壊れるんだろう。嫌になる。
思い出したら、さらに憂鬱。あの人が出ると思うと、なおさら電話しづらい。うちまで来てくれた、親切な方の男の人が電話に出てくれたらいいんだけど。
「あ、だめか」
変な人の方のスマホだもん。変な男の人しか出ないよ。
「えー、どうしよう」
こたつの中で悩むこと八分。八は良い数字だ。良いこと思いついた。
「直接、話しに行こ」
そうだそうだ。そうしたら、あのちょっとかっこいい親切な人が出て来てくれるかも。少し楽しみ。
そして、楽しみはすぐ消えるもの。
「こ、こんにちは」
玄関のチャイムのボタンを押したら、なんだか元気のない暗い感じの色白で猫背の男の人が出て来た。誰?
「給湯器、その後どうですか」
「えっと、壊れました」
「また? ガス屋さんに頼んだのに。寿命かなあ」
ああ、そっか。この人、変なほうの人だ。おヒゲがないからわからなかった。
「あの、キッチンじゃなくて、お風呂の」
「あー。そっちも古いですもんね。またガス屋さん呼びます」
え、この人は見に来てくれないの。
「あの、見に来てくれないんですか?」
すぐにお風呂に入りたいんだけど。
「え、見に行っていいんですか?」
「はあ……」
変な男の人は、なんだかみょうに嬉しそうに出てくると、ふらふらと扉を閉めた。
「じゃあ、行きましょう」
促されて歩きだしたけど、この人、本当に大丈夫? ものすごく、ふらふら、ぺしょぺしょ、目を眩しそうにぱちぱちしてる。
「あの、大丈夫ですか?」
あんまりふらふらだから声をかけると、がっくりと頭を下げて立ち止まっちゃった。
「すみません、大丈夫じゃなかったです。同居人が帰るまで待ってもらえますか。買い物行ってるだけなんで、すぐ戻ります」
「はあ……」
なに、この人?
大家さんの家に上がって、お茶を淹れてもらった。緑茶だ、今時珍しい。飲むの何年ぶりだろ。ふうふうして口を付ける。あ、なんか甘い感じがする。
「美味しいですね」
「良いお茶らしいです。大家さんのなんですけど」
「はあ」
沈黙。重いなあ、空気が。
「大家さんって、いつ帰ってくるんですか」
「まだ、半年くらい先……」
ぐらりと頭が揺れて、俯いちゃった。なにか悪いことを聞いたかな。大家さん、死んじゃったとか?
「えっと、泣いてます?」
「いや……、ちょっと疲れて」
体が弱い人なのかな。
「すみません、横になります」
えー。お客さんがいるのに、寝る? 相当、具合が悪いんじゃない?
「救急車、呼びましょうか?」
「いえ、いいんです」
「お医者さん、行きます?」
「いいえ」
喋るのもしんどそう。どうしよう、早く帰ってきて、ちょっとかっこいい方の男の人!
願いは大抵かなわない。三十分待っても、ちょっとかっこいい方の男の人は帰ってこない。おヒゲの人は本格的に眠ってしまって、すうすう寝息が聞こえる。
よし。
「お茶、飲もう」
玄関の扉が開く、がらがらという音がした。急いで立って廊下を覗く。かっこいい方の人だあ!
「あれ、
「この人、具合悪そうなんです。救急車、本当に呼ばなくていいんでしょうか」
「ああ」
靴を脱いで上がって来ると、部屋を覗きこんで、おヒゲの人の側に膝をついた。
「寝てるだけです。疲れやすいんですよ、時也は」
やっと、ほっとした。すごい名前の病気とかじゃなくてよかった。
「その人、時也って言うんですか」
「はい。
「あ、どうも。日振です」
「知ってます。今日はどうしたんですか」
そうだそうだ。お茶を飲みに来たんじゃないんだ。うっかり忘れちゃいそうだった。
「あの、お風呂が壊れたんです」
「またお湯が出ない?」
「はい。全然です」
「じゃあ、ガス屋に連絡しときます。今日中に行ってくれるように頼んでみますんで」
「え、見に来てくれないんですか」
「風呂釜だと、俺じゃどうしようもないですね」
小野さんはちょっとかっこいいけど、結構、冷たい。
「じゃあ、帰ります」
「なにかあったら、電話して下さい。行きますんで」
「はい」
玄関を出て、空を仰ぐ。よく晴れてる。なんだか寂しくて泣きそう。もっとお話ししていたかったな。最近、あんまり人と喋ってないもん。鯉みたいに口をぱくぱくしちゃいそう。
「日振さん」
呼び止められて振り返る。
「これ、良かったら食べてください」
小野さんがお弁当箱みたいなものを持ってやって来た。
「筑前煮、作り過ぎたんで。嫌いじゃなければ」
「あ、大丈夫です。いただきます」
「じゃあ」
お見送りはしてくれなくて小野さんはお家に入っていった。だから、寂しいんだってば。
家に帰ると、諸くんの部屋のドアが開いてた。家の中にはどこにもいない。パチンコ屋さんかな。ドアが開いてるってことは、入っていいっていう合図。掃除しておこう。
諸くんの部屋には、おっきなモニターがある。これは触ると怒られる。私が帯電体質だから、壊れるって。確かにパソコン触ってると、変になることが多い。卒論中に急に動かなくなった時は焦ったあ。諸くんが直してくれなかったら短大中退するところだったよ。
諸くんの部屋の掃除が半分済んだころ、ガス屋さんが来てくれた。部品を取り寄せるから今日中の修理は無理だって。お風呂、どうしよう。諸くんが帰ってきたら相談しなきゃ。
「お帰り、諸くん」
諸くんが帰って来たのは午後九時過ぎ。すっごく不機嫌。パチンコで負けたんだな、きっと。タバコ臭いし、お風呂に入って欲しいなあ。
「お風呂ね、明日までお湯が出ないの。どうしよう」
「風呂なんか明日入ればいいだろ。てか、メシは?」
諸くんはずんずんリビングに入って行って、テーブルを見下ろした。眉がぎゅっと持ち上がる。不機嫌がさらに増えちゃった。
「なんだよ、この茶色い料理。ババアが作ったのか」
「違うよ。これね、筑前煮って言うんだよ。ニンジンの赤もあるし、おまめの緑もあるよ。美味しいよ」
睨まれた。息が苦しくなる。
「筑前煮ぐらい知ってんだよ。お前、本当に頭悪いな。会話も出来ないのな」
「……ごめん」
「なんか他にないのかよ」
「ごはん、炊けてる」
「は? なに?」
「あと、お味噌汁と鮭の塩焼き」
諸くんが「へっ」と笑う。
「田舎かよ。コンビニでなんか買ってこいよ」
「でもね、筑前煮美味しかったし、諸くんも味見してみて……」
突然、諸くんが筑前煮の器を壁に投げつけた。
「こんな糞みたいな色したもん、食えるかよ。買ってこい」
諸くんの声がすっごく低い。でも怒鳴ってないから怒ってないのかも。
「な、なんで投げたの」
「は?」
諸くんの顔を見ないようにしよう、怖いもん。
「投げたら、食べられないよ。もらいものなのに」
「拾って食えよ」
「いや」
「は? お前、生意気言ってると捨てるぞ」
「いやだ」
「さっさとメシ」
「いやだ」
ガン!とテーブルが音をたてた。諸くんが、もう一度テーブルを蹴る。思わずビクッと震えた。
「そうかよ」
諸くんに蹴り飛ばされたイスが倒れて大きな音をたてる。体が竦む。諸くんが玄関を出て行く。
「諸くん、捨てちゃやだ! 捨てないで!」
ドアがバタンと大きな音をたてて閉まった。
体の力が抜けてぺたんと座り込んだ。諸くんが行っちゃった。私を置いて行っちゃった。
ぼろぼろと涙がこぼれる。ううん、そんなことあるわけない。諸くんが私を捨てるわけない。だって、私がいないと諸くんはお金がなくてパチンコに行けない。私がいないとお掃除もお洗濯も誰もしてくれない。私がいないと、ご飯も炊けない。
そうだ。リビング、片付けなきゃ。汚いままだと、諸くんが帰って来た時に、また怒っちゃう。よろよろするけど、なんとか立ち上がれた。
リビングに行ってイスを起こす。イスの背もたれが当たったみたいで、借り物のお弁当箱が壊れている。
「どうしよう……、どうしよう」
謝らなきゃ。すぐに謝らなきゃ、許してもらえない。
スマホ、スマホ、スマホ、どこ? どこ? あ、ポケットだ!
登録した、おヒゲの人。ああ、違う、筑前煮くれた人、あの人に謝らなきゃ。だめ、番号知らない。手が勝手におひげの人の番号をタップした。
呼び出し音、呼び出し音、呼び出し音。
「はい、日振さん?」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「どうしたんですか? なにかあったんですか?」
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「落ち着いて……」
「駄目なんです! 私が悪いんです、ごめんなさい!」
「ちょっと、今からそっちに行きます。落ち着いて待っていてください」
「やだ、切らないで!」
「大丈夫です、このまま行きます」
もう、声も出ない。でも、通話は続いている。誰かと繋がってる。
すぐに階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。もしかして、諸くん? 帰ってきてくれたの?
でもすぐにチャイムの音がした。ぴーんぽーんだって。玄関、開けなきゃ。
「大丈夫ですか、日振さん。なにがあったんですか」
「小野さん……」
おヒゲの人に電話したのに、小野さんだ。
「ごめんなさい、小野さん」
涙がぼろぼろ零れ続けてる。
「なにが?」
「筑前煮が……」
「爆発した?」
「え?」
なにを聞かれたのか分からなくて、きょとんとしちゃう。
「レンジにかけすぎると、スナップエンドウが弾けるかもって言ってなかったと思って」
「違うの。壁に」
「壁?」
もう、無理。話せない。ひっくひっくってなる。部屋の奥、リビングを指差すと、小野さんは「失礼します」と言って奥に歩いていく。
「どうしたんですか、これ」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ。とにかく、片付けましょう。壁も早く拭かないと、染みになる」
そう言って小野さんは筑前煮を手で拾って、壊れたお弁当箱にのっけていく。
「雑巾はありますか」
「ないです」
「ウエットティッシュとか」
こたつの上に置きっぱなしのウエットティッシュを渡すと、小野さんは丁寧に壁と床を拭いてくれた。イスも戻して、なんでかテーブルも拭いてくれた。
「座って、落ちつきましょう」
イスを引いて座らせてくれる。すとんと腰を下ろすと、炊飯機が見えた。ああ、ご飯を混ぜてない。硬くなっちゃう。でも、膝に力が入らなくて立てなかった。
「日振さん、なにがあったか、話せますか」
「諸くんが、投げちゃったんです。筑前煮。茶色いからって」
「諸くん。一緒に暮らしている方ですか」
「そう。でも出て行っちゃった」
頭がぼうっとしてきた。小野さんは困った顔をしている。どうしよう、謝らなきゃ。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ、日振さんのせいじゃない。壁の汚れのことは、大家さんが帰ってきたら相談してください。優しい人だそうだから、叱られないと思います」
「ごめんなさい」
小野さんが口を開きかけた時、玄関のドアが開く音が聞こえた。廊下に走っていくと、諸くんが玄関に立っていた。
「諸くん! 帰ってきてくれた!」
駆け寄ろうとしたら、諸くんに睨まれた。
「おい、なんだよ、この靴」
言いながら、小野さんの靴を蹴る。
「誰のだよ」
廊下を歩いて来た諸くんが、リビングの入り口でぴたりと足を止めた。
「誰だ、あんた」
諸くんが小野さんを睨んでる。でも、小野さんは平気な顔だ。怖い顔の諸くんが怖くないみたい、よかった。少し安心して諸くんの服を握る。
「小野さんだよ。筑前煮をくれた……」
「お前には聞いてない」
諸くんは私の腕を振りほどいて、小野さんに近づいていく。
「おい、女一人の部屋に上がり込んで、なにしてんだよ」
「掃除だ」
「はあ?」
小野さんは静かに立ち上がって、諸くんの前に立った。
「暴力はよせ」
「なんだそれ。暴力? 誰が?」
「料理を壁に投げつけたのは、あんただろう」
「それが?」
「ものを投げつけて脅すのは暴力以外のなにものでもない」
「なに言ってんの、馬鹿なの? お前こそ住居不法侵入だろ。犯罪者だ。朋美、警察呼べ」
「いやだ」
諸くんが私を睨んだ。
「さっきからなんだよ。この男に乗り代える気か。俺を
諸くんに髪を掴まれた。ぐいぐい引っ張られる。
「やめろ」
小野さんの声がして、諸くんの手が離れた。なにが起こったのかと思って顔を上げると、小野さんが諸くんの手を叩いたみたいだった。諸くんが痛そうに顔を歪めてる。
「やめて! 諸くんに痛いことしないで!」
小野さんは困ったような顔で私を見る。
「しかし……」
「大丈夫です。私たち、仲よしなの。本当に大丈夫」
「出てけよ」
諸くんが小野さんに言ったけど、小野さんは動かない。
「日振さん、暴力を受けて脅えているなら……」
「受けてません。大丈夫です。帰ってください、大丈夫です」
「日振さん……」
諸くんがチッと舌打ちした。イライラしてる。
「阿呆らし。勝手にいちゃいちゃしてろ」
玄関に向かう諸くんの腕を握って止めようとしたけど、簡単に振りほどかれた。
「諸くん!」
出て行っちゃった。
諸くんは、もう、帰ってこない。
そんな気がした。
諸くんがいない家にいたくなくて、ネットカフェに泊まった。夜中ずっと、ゲームを見てた。怪獣を皆でやっつけるゲーム。諸くんがいつもやってたやつ。どこかに諸くんがいないかなって思ったけど、ゲームのやり方がわかんなくて探すことが出来なかった。
起きたらお昼過ぎだった。朝までのパック料金でいたのに、結構な追加料金がかかった。またバイトのシフト多く入れてもらわなきゃ。
あ、違う。もういいんだ。もう、諸くんのパチンコのお金、あげなくていいんだ。腕時計も買ってあげなくていいんだ。お小遣いもいらない。もう、いらない。
なんだかすごく重たい足を引きずって歩いた。家にたどり着いて鍵を開けようとしたら、開いてた。
「諸くん!」
帰って来てくれたんだ! 帰って来てくれたんだ!
リビングに駆けていく。がらんとしてる。
「え……?」
諸くんはいない。誰もいない。そして、なにもない。部屋は空っぽだ。こたつもテーブルもイスもソファもエアコンも炊飯機もなにもない。ただひとつ、ウエットティッシュだけがころんと転がってた。
諸くんの部屋のドアは閉まってた。でも、勢いよく開ける。
「……なにもない」
パソコンもモニターもベッドもフィギュアを飾ってた棚もなにもない。
なにが起きたの?
玄関に行ってみると、靴もない。諸くんの靴だけじゃなくて、私の靴も、履いて出かけた一足以外ない。
私の部屋に行くと、そこもなにもない。本当になにもない。雑誌の一冊もない。全部、諸くんが持って行っちゃったんだ。
「ひー」
喉から変な音がする。
「ひー、ひー」
息が出来ない、息が吸えない。
「ひー、ひー」
息が出来ない。このままじゃ死んじゃう、助けて、諸くん、助けて!
「日振さん?」
玄関から声がする。
「日振さん、いますか、小野です。引っ越し屋が来てたって聞いたんですけど……、日振さん!」
息が出来ないよ、諸くん。
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