オーダー3 鳥子

「島彦! 起きてー!」


 油断した、油断した、油断した!

 寝坊した、寝坊した、寝坊した!

 時也のところで夕飯もらったから、お酒飲んでないから、島彦寝てたから、早寝したから油断した!


「遅刻、遅刻するから、島彦!」


 ぼーっとしている島彦のパジャマを引っぺがし、ちょっと暖かくなった時用の服を着せて、保育園のベストを頭から被らせる。


「お弁当がない!」


 どうしよ、どうしよ、どうしよ。

 コンビニのパンじゃダメだよ。コンビニのおにぎりもダメ。あああ、しまった、ご飯も炊いてない!


「島彦ー、どうしようー」


「お母さん、保育園バッグがないよ」


「あああ! 時也のところに忘れてきたあ!」


 島彦の手を引いて家から駆けだす。走りながら虎狼に電話。


「もしもし!」


「鳥ねえ、保育園バッグのことだろ。今、保育園の前に付いた」


「虎狼、愛してる!」


 電話を切って走り続けようとすると、まだ眠いらしく島彦の足が動いていない。急いで抱きかかえて走り続けた。


「鳥ねえ、おはよう」


 虎狼がのんびり挨拶する。返事も出来ずに、膝に手を突いて荒い息を吐く。だめだ。年だ。運動不足だ。


「あっ! お弁当!」


 がばっと顔を上げると、虎狼が保育園バッグと逆の手に抱えている包みを差し出した。


「これ、おにぎりだけだけど。二人分」


「虎狼ー、本当に愛してるよお」


 泣きそうなほど愛おしい、私の弟よ。姉はこの恩を絶対に忘れないぞ。




 なんとか島彦を時間内に保育園に押し込み、虎狼にぺこぺこぺこっと頭を下げて、会社にダッシュ。こちらも始業時間に間に合った。


沖野おきのさん、また飲み過ぎですか」


 隣のデスクの佐渡さどくんが椅子をコロコロ寄せてきて、にやにや笑いながら言ってくる。まだ整わない息を深く吸いながら切れ切れに返事する。


「違う。飲んでない。寝坊しただけ」


「へーえ。珍しいですね。シラフでも眠れるんですか」


「うるさいな。人をアル中みたいに言わないで」


 軽く睨むと、佐渡くんは、ケケケと笑ってデスクに戻った。ムカつくやーつ!




 まあ、なんというか。仕事はうまくいった。寝坊したということは睡眠時間をたっぷり取れたということで、頭の中がすっきりしていた。

 島彦との二人暮らし、家事も仕事もご近所づきあいも一人でこなすのは、実はちょっと大変で。ここ二日、虎狼のご飯を食べさせてもらえたのは本当にありがたかった。

 ずっと寝ている時也を見るのも、赤ん坊を見守るような充実感がある。病気の人を相手にどうかなと思う感想ではあるのだけれど。


 昼休み、いつもは外食するけど、今日は虎狼のおにぎりがあるのだ。ふだんはコーヒーだけど、今日はお茶だよねと給湯室に行くと、佐渡くんがいた。


「あれ、どうしたの。お昼行かないの」


 尋ねると、佐渡くんはコンビニのビニール袋を掲げてみせた。


「今日はこれです。お茶、淹れます? ほうじ茶で良ければ、一緒に淹れますよ」


「ありがとう」


 コーヒーが入っていたマグカップを軽く洗って差し出すと、大きめの急須から、たっぷりと茶色のお茶を注いでくれた。

 マグカップに鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。香ばしいけど、麦茶とかとは違う。茶畑で育った、生粋のお茶ですよって出自を感じさせるキリっとした香りだ。その場で一口すする。渋みが弱まったお茶の、優しく和らぐ温かさが舌の上でコロコロと踊る。


「美味しいね」


「ほうじ茶専門店のやつなんですよ。お茶農家と一緒にこだわって作ってあって」


 お茶を淹れ終えた急須を洗いながら佐渡くんが言う。


葡萄ぶどうほうじ茶なんてものもあるんです」


「んんん? 葡萄がどうしたって?」


 お茶を啜ってて、良く聞こえなかった。


「葡萄ほうじ茶。葡萄の枝を焙じたお茶なんですよ。甘味があって香りが爽やかで。今度、持ってきます」


 佐渡くんが会社が用意しているお湯呑を取って歩き出したので、並んでデスクまで。


「なんで、今日はお湯呑み? いつものニョロニョロのカップは?」


「お茶は湯呑です」


 まじまじと見つめられて、自分のマグカップを、デスクに積んでいる書類の山の陰に、そっと隠した。


 千鳥格子模様のハンカチを開くと、くしゃっとしたアルミホイルの包みが出て来た。皺を丁寧に伸ばしながら包みを開くと、のり巻きおにぎりが三つ顔を出す。丸っこい三角で、手が大きい虎狼が握ったからだろう、私の拳より大きいかもしれない。

 海苔がしっとりとご飯に馴染んでいるところがいい。虎狼のことだ。おにぎり三つの中には違った具が入っているはず。


 一つ目を取って、がぶりと食らいつく。おにぎりの三分の一くらいを、一気に頬張ってやったぜ。しっとりした瑞々しさを、まず感じる。炊き立てご飯で作ってくれたんだな、ご飯が甘くて香り高い。

 噛みついて顔を出した具は子持ちキクラゲだった。細切りのキクラゲとシシャモの卵を炊いたやつ。甘辛くて美味しい。三口で食べ終えて、次のおにぎりに行く。


 ツナと茹で玉子をマヨネーズで和えたやつ。玉子もツナも形がしっかり残ってるから、おかずとしてちょうどいい。黒コショウが効いてるのも食欲が増す。こってりしてて食べ応えもある。もりもりっと食べて、次。


 鮭と壬生菜漬け。塩鮭を焼いてほぐしてある。皮もちゃんと入っていて香ばしい。壬生菜漬けの緑も目に嬉しい。お漬物の汁が滲みたところがお米をふにゃっとさせるのがいい。好きだ、これ。あぐあぐっと行ってしまって、もうおしまい。


「ごちそうさまでしたー、美味しかったー、もっと食べたいー。お代わりをくれー」


 コンビニ弁当のから揚げを飲み込んだ佐渡くんが尋ねる。


「自分で作ったんじゃないんですか」


「作ってくれたの。弟が」


「へえ。お姉さん思いですね。量も多めがいいって知ってるし」


「うん。しかし、私の食欲を甘く見ていたみたいね。はー、お腹が切ない」


 佐渡くんが箸を置く。


「今日、帰りどうですか。ハッピーアワーでちょっとお腹に入れていきませんか」


「息子のお迎えがあるから」


「弟さんに頼めばいいじゃないですか」


「そんなわけにはいかないでしょ」


「たまには息抜きした方がいいですよ」


 佐渡くんの話し方だと、ちょっと休憩しようなんて話じゃなくて、なんだか深刻な問題を論じているように感じる。そんなに疲れた顔はしていないはず。


「なあに、たまにはって。ちゃんとしてるよ」


「一人でなにもかも抱え込んでるじゃないですか」


 あ、ちょっとムッとした。ちょっとムッとしたぞ。


「抱え込んでるとか、そういうんじゃない。私の大切なものを守ってるの。両手を広げて、ぎゅってしてね」


 顔をそらした佐渡くんが「ふうん」と呟く。


「じゃあ、そのデスクに積み上げられた書類も大切にしてるんですか」


「えー、これはあ。仕方ないでしょ、年度末なんて皆こんなもんでしょ」


 言いながら、ちらりと佐渡くんのデスクを見ると、そこは。それはそれはもう、平原のように美しく、書類なんて散らかってない。


「ペーパーレスの時代に乗り遅れてますよね、沖野さんは」


「ううう」


 耳が痛い。


「書類のスキャン、俺がやりますから貸してください」


「いいよ、入力とか全部終わってから、自分でやるよ」


「最後は結局データ化してしまわなきゃならないんです。入力するまえにやっておかないと、二度手間ですよ」


「それはそうだけど……。あっ!」


 佐渡くんはお弁当の蓋を閉めると、私のデスクで山になってる未処理の書類を抱えて席を立った。慌てて追いかける。


「いいってば! それにまだお昼休みじゃない」


「昼休み返上して、その分早く退社しましょう。そうすれば、お迎えの時間まで三十分は時間が出来る」


 もともと強気な佐渡くんが、今日は更にグイグイ来る。酒好きが呑みに誘うにしても強引だ。なにか話したいことでもあるのかな。


「わかりました。働きますよ」


「よろしくです」


 食休みが必要ないくらいの、緩めの腹具合で良かったかも。


 私がペーパーレスに踏み切れないのは機械に苦手意識があるからだ。間違ったボタンを押したら爆発するんじゃないかと思ってしまう。子どものころにパソコンを壊したことがあるというトラウマのせいだけど。なかなか乗り越えられないものなんだなあ。


 佐渡くんの仕事は早かった。あっという間に書類を読み込んだデータを表にしてくれた。

 データ化してもらった画像で処理を進めると、かなり早い。いつもなら左手で書類をめくって顔をモニターと書類とに振ってるから。データ化してしまえばモニターだけ見るし、書類を触らないから、左手をずっとキーボードショートカットに使える。

 そんな小さな時間の積み重ねが全体の仕事時間を短縮する。わかってはいるの。わかってはいるんだけど、やっぱり苦手なんだよお。

 しかし本当に捗って、終業時間一時間前には今日の分の書類が捌けた。


「ペーパーレス、いいでしょう」


 佐渡くんが自慢げに胸を張る。


「はい。すごくいいと思います」


「スキャンが苦手なら、手伝いますよ」


「いいよ、自分でやる。苦手も克服していかなきゃね。今日だけ、ありがとう」


「じゃあ、今日は沖野さんの奢りということで」


 さっさと席を立つ佐渡くんに慌てて声をかける。


「本当に行くの?」


「もちろん。週末ですし、勤務時間変更届けは申請してますから」


「え、いつの間に?」


 佐渡くんは、にやりと笑ってロッカールームに入っていった。




「で、弟ってなに者ですか」


 19時までのハッピーアワーで半額のハイボールをぐびぐびいきながら佐渡くんが言う。カウンターだけの立ち飲み屋で、つまみは駄菓子だ。私はお迎えがあるからウーロン茶。飲みたいよお、でも飲めないよお。代わりに、駄菓子を片っ端からモリモリ食べる。


「なに者って、弟は弟だよ。忍者じゃないよ」


「沖野さん、一人っ子じゃないですか」


「えー、なんで知ってるの?」


「俺、一度聞いたことは忘れないんです」


 ウーロン茶を一口飲んで考える。


「話したことあったかなあ」


「ありますよ。沖野さんのこと、色々知ってますよ」


「例えば、どんなこと?」


「息子さんの蒙古斑がハート型だとか」


「あ、それは話したかも。よく覚えてるね」


「旦那さんの遺したレシピ集で料理の練習して失敗したことも」


 ぴたりと、手が止まってしまった。


「……私、そんなことも話した?」


「去年の忘年会で。結構、顔赤かったし、記憶飛んでるんじゃないですか」


 酔っぱらった私はどうして……。どうして話そうと思ったの? それも、佐渡くんに向かって。


「やだなあ。料理が下手だってバレて、ちょっと恥ずかしい」


「恥ずかしいだけですか」


「ん、なにが?」


「ノスタルジーとか感じてるんじゃないですか」


「なんだ、それ」


 佐渡くんが姿勢を変えて、私に向き合う。


「旦那さんのことを話すとき、初恋を知ったばかりの少女みたいな顔になるんですよ、沖野さん」


「佐渡くんって、詩人かい?」


 茶化してみたけど、佐渡くんの真面目な視線は揺るがない。


「いつまで、そんな表情し続けるんですか。旦那さんが亡くなって、もう二年も経つじゃないですか。もうそろそろ大人の顔に戻ってもいいんじゃないですか」


 いつもの飄々とした感じとは違う。なんだか迫力がある。


「佐渡くん、もう酔った?」


「得意料理ってなんですか」


 脈絡がない。


「私の?」


「旦那さんのです」


「カレー」


「普通ですね」


 ちょっとムッとして、早口になってしまう。


「小麦粉を使わないでスパイスを粉に挽くところからやるの。本当に美味しいんだけど、私にはスパイスを挽くのは無理かな」


「スパイスを挽けたら、また食べたいですか」


「うん。それはそれはもう、美味しいんだから」


 考えるまでもない。目を瞑れば今でも舌の上に味が蘇る。温かな湯気の色と一緒に。


「俺、料理するんですよ」


「そうなの? 意外」


「得意料理、なんだと思います?」


 やっぱり脈絡がないような気がする。


「うーん。佐渡くん、お洒落だからなあ。なんとかのポワレとかなんとかのパエリアとか」


「カレーです」


 思わず、ぴたりと口を閉ざす。


「スパイスを挽くところからやります。小麦粉は使いません」


 私を困らせたくて、わざと言ってる? それとも本当に得意なの?


「ナンも焼きます」


 プッと噴き出してしまった。


「ご飯じゃなくてナン派なの」


「旦那さんに対抗するには、それしかないでしょう」


「対抗って……」


 敵視してもらっても困る。ナンとご飯はまったく違うものだもの。


「食べに来てください」


「え、いやあ、なんか悪いし」


「今日手伝ったお礼に。約束してください」


「それは、今日の奢りでチャラだって言って……」


 私の言葉を佐渡くんが、きっぱりと遮った。


「もうそろそろ、お開きにしなきゃですね」


「え?」


「お迎えの時間じゃないですか」


「あ、本当だ。じゃあ、お会計を……」


 カバンから財布を出そうとした手を、佐渡くんがぎゅっと押さえる。


「今日は沖野さん、呑んでないじゃないですか。俺が払います」


「いや、だって、その分食べたし」


「約束してください。カレー、食べに来るって」


 眉間に皺を寄せた睨むような顔で、手を握られた。ええええええー、どうしよう、どうしたら?


「わかった、わかったから。ほら、もう行くし。また来週ということで」


 佐渡くんはいつものシニカルなようにも見える表情に戻った。


「また来週。スキャンの仕方、練習しましょうね」


「はーい、わかりました」


 店を出て少し歩いたら、心臓がバクバクしていることに気付いた。佐渡くん、なんであんな怖い顔したの?

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