オーダー3 鳥子 おかわり!
お迎えに行くと、島彦はカバンを肩に掛けて靴も履いて、ぴしっと背筋を伸ばして待っていた。
「時也くんのおうちに行こう。くすりびん、持って行かなきゃ」
両手でぎゅっと乳酸菌飲料のケースを握っている。
「そんなに毎日行くのも迷惑になるよ。嫌われちゃうかもしれないよ」
「時也くん、毎日来ていいって言ったもん」
「でも、病気だから静かに寝かせてあげないと」
「病気だからくすりびんがいるの。届けなきゃ」
「じゃあ、ちょこっと寄って、くすりびん渡して帰ろうか」
島彦は不満げだったけど「わかった」と頷く。
時也の家に向かう道すがら、保育園で教わった歌を披露してくれた。
「雨のしずくちゃん、カサにピチャン。お花が好きで、キスしたい」
えええ、保育園児の歌にキスとか出てくるんだ。
「それ、なんの歌?」
「園長先生の歌。ウクレレでポロンポロンって」
「自作? 園長先生ってミュージシャンなんだ」
「歌が上手だよ」
六十代くらいで、いつもアロハシャツにソフトハットをかぶっていて。不思議な人だなって思ってたけど、本格的に変わった人かもしれない。変わってるって、良い方にだけど。
「お母さん、今日の晩ご飯なに?」
歌い終わった島彦が聞く。
「なんにしようか。冷蔵庫になにがあったかな」
「卵があったよ」
「そうか。他にはなにがあったかな」
「お魚とほうれんそう」
「じゃあ、お魚を焼いて、ほうれんそうのオムレツにしようか」
「なんでもいい」
「ありゃあ、なんでもいいの」
にこにこと私を見上げて島彦はご機嫌だ。
「虎狼くんのおにぎり、美味しかったね」
「うん、美味しかったね」
「明日も食べたいな」
「明日はちゃんとお弁当作るよ。寝坊しないよ」
「寝坊してよ」
スキップまで始めた。
「しないって。毎日虎狼に面倒かけたらダメだもん」
「虎狼くんはいいって言うよ」
「大人はいろいろ遠慮するものなのよ」
「子どもになれば?」
「そうもいかないよお」
「でも、お母さんは虎狼くんと子どもの時から一緒でしょ。一緒にいたら子どもだよ」
島彦の理屈は、わかるようでいて難しい。
「とにかく、今は時也にくすりびんを届ける使命に集中しようか」
「うん!」
大家さんの家に着くと、それはそれはもう、良い香りがしていた。
「あ! カレーだ!」
「カレーだねえ」
島彦は駆け出して、ガラガラと大きな音をたてて玄関のドアを開けた。
「虎狼くん、ただいまー」
台所から虎狼がひょいと顔を出す。
「お帰り。島彦、手を洗ってうがいしろ」
「はーい」
たった二日お邪魔しただけなのに、島彦は自分の家みたいに自然に過ごしてる。
「鳥ねえも、ちゃんと手を洗って」
「はーい」
島彦について行くようにして、廊下の突き当りにある洗面台で手を洗って、うがいもする。なんだか、子どものころに戻ったみたいだ。
「そう言えばさ」
台所に顔を突っ込むと、鍋に向き合っていた虎狼が振り返った。
「小さいころも、虎狼はよく、手を洗えー、うがいしろーって言ったよね」
ちらりと視線がそれたけど、すぐにまたこちらを見た。
「兄がうるさかったからな」
「獅狼兄ちゃんか。あやつは厳しかったからね。自分にも、他人にも」
虎狼は黙ってしまって、カレーがふつふつ煮える音だけが響いた。なんとなく居心地悪くなって、顔を引っ込める。
「鳥ねえ、プリン食べるか」
「食べる!」
また台所に顔を突き出した。
プリンは虎狼の手作りで、島彦と並んで食べた。クリームみたいに、とろーりとろけそうでいて、しっかりとスプーンで掬える。口に入れたら、今度こそ、とろける。ひんやりしたプリンはすーっと溶けて優しい甘さと玉子の滋味深い、こってり具合を残して喉の奥に滑り下りていく。
「美味しいね」
島彦がにこにこする。
「ほんと、美味しいね」
おやつを作ってもらうなんて何年ぶりだろう。何年じゃきかないな。十数年ぶりくらい? プリンはあっという間に消えてしまった。まるで優しい夢だったみたい。
「時也くんはプリン食べないのかな」
「どうだろう。寝てるかな、時也。島彦、見てきてくれる?」
くすりびんを持って時也の部屋を覗きに行った島彦は、すぐに戻って来た。
「すーすー言ってた」
カレーの調理が終わったらしく、虎狼がお茶の間にやって来た。
「うつ病になってから、ずっと眠れてなかったらしい。その分を取り戻してるのかもしれないな」
「虎狼が来てくれて、安心したのかもね」
「鳥ねえと島彦もいるしな」
「僕も元気のもと?」
「ああ。時也は島彦が来るのを待ってたぞ」
「約束したもんね。くすりびん」
嬉しそうな島彦の頭をかりかりしてやって、虎狼に目をやる。
「虎狼。お届け物さ、預かってくれる? くすりびん」
「島彦が自分で渡せばいいだろう」
虎狼はくすりびんを受けとらないという意思表示か、両手を卓袱台の下に引っ込めた。
「お母さん、時也くんが起きるまで待ってよう」
「んでも、虎狼も忙しいでしょうし」
上目づかいで聞いてみるけど、虎狼は軽く首を振った。
「いや、もうすることもない。カレーも出来たしな。どうする、腹が減ってるなら時也が起きるのを待つ間に飯にするか?」
「うん! お腹空いてる!」
元気に両手を上げた島彦の頭に軽いチョップを落とす。
「いやいや、今日はおうちでお魚でしょ」
「だって、ハンバーグカレーだよ。昨日、約束したもんね」
島彦が「ね」と言うと、虎狼が微笑んで頷いた。
「ああ。鳥ねえと島彦の分も用意してる」
「ほらね、お母さん」
「えー、本当にいいの?」
「当たり前だろ。鳥ねえが食べると思って、米は五合炊いた。食べてくれなきゃ困る」
「しょうがないなあ。それじゃ、私の食欲をお見せしちゃおうかな」
「見せちゃおう、見せちゃおう」
島彦が見せちゃおう踊りを披露していると、時也がとぼとぼとお茶の間に入って来た。
「お帰り」
「ただいま!」
島彦が時也に抱き着く。時也はなんだか目をしょぼしょぼさせている。
「起こしちゃった? ごめん、うるさくて」
「ぜんぜん、大丈夫。今日は元気なんだ」
顔色は悪いし、髪はぼさぼさだし、元気そうには見えないけど。島彦もそう思ったのか、不安そうに尋ねている。
「時也くん、くすりびん効いてる?」
「効いてるよ」
「はい、これ! 今日の分のくすりびんだよ」
ポケットから出したくすりびんを、時也の顔近くまで持ち上げてみせる。
「ありがとう」
笑顔を見せた時也を見て島彦も笑顔になる。
「これで明日も元気だね!」
「うん」
時也に頭を撫でてもらってご満悦の島彦は、保育園バッグからハンカチを取り出した。おにぎりを包んであったやつ。
「虎狼くん、おにぎり美味しかったです」
「あ、そのハンカチ、洗って返すよ。島彦、ちょうだい」
私が受け取るより早く、虎狼が島彦の手からハンカチを引き取った。
「いいから。たいしたものじゃないんだから。鳥ねえのも、ほら」
促されるままにハンカチを渡す。
「なんだか甘やかされてるなあ。申し訳ない」
「子どものころ、甘やかしてもらった恩返しだよ」
島彦が嬉しそうに言う。
「鶴の恩返し」
「そうそう」
卓袱台の前に座った時也がぺこりと頭を下げる。
「俺も甘やかしてもらって、ありがと」
「時也くん、もっと甘えていいんだよ」
島彦がキリっとして言う。
「大変な時は助けてもらっていいの。知ってた?」
時也はそっと微笑む。
「知ってたのに、忘れてたよ」
「忘れんぼさんだなあ。時也くん、大切なことは紙に書いておくといいよ。はい、紙をあげる」
保育園バッグから折り紙を取り出して時也に渡す。
「ありがとう」
虎狼が茶箪笥に置いてあるペン立てからボールペンを取って渡してやってる。
「なにを書くんだ」
時也はにこにこしながら「虎狼、鳥子ちゃん、島彦、大好き」と書いて私たちに見せてくれた。漢字が読めない島彦が時也に尋ねる。
「なんて書いてあるの?」
「皆のことが大好きだよって書いたんだ」
「僕も時也くん大好き!」
島彦が時也に抱きつく。私も泣きそうなくらい嬉しくて、時也と島彦を抱き寄せる。
「私も大好き!」
虎狼に顔を向けると、困った様子で私を見返す。手を伸ばして引っ張ると、長い両手でそっと皆を抱きしめた。
すごく暖かくて、すごく近くて、一つの生き物になったみたい。皆で団子になって暖め合って。こんなに幸せな気持ちになったのは久しぶりだ。
抱きしめられて苦しくなった島彦がもぞもぞと動き出して、私たちはまた、一人一人に戻った。
「よし、飯にするか」
顔を真っ赤にした虎狼がそそくさと台所に入っていく。
「お手伝いする」
島彦がついていく。時也はと見ると、とても幸せそうに微笑んでいた。
「美味しーい!」
思わず叫んじゃうほど虎狼のハンバーグカレーは美味しい。
「ねえ、これ隠し味とか入れたの?」
「べつに。普通の市販のルーだけだ」
「うそお。私が作ってもこんなに美味しくならないよ」
スプーンで掬ったカレーをまじまじと観察してみる。見た目は、私が作ったのと変わらない。でも、絶対に別物だ。
「ハンバーグをカレーのルーで煮込みにしたから、味が染み出たのかもな」
「お母さん、ハンバーグも食べて、食べて!」
島彦に言われてカレーの海に浮かんでいるハンバーグをスプーンで切る。驚くほど柔らかくて、すっとスプーンが入る。三センチくらいの厚みがあるけど煮込みハンバーグだからか、中心まできれいに火が入ってる。いつも生焼けにしてしまう私と虎狼では腕が違うのがはっきりわかってしまった。
大口であぐっとくわえる。口の中に入れると、柔らかいのにしっかり噛み応えがある。肉食ってるぞーって叫びたいくらい。
「カレーとご飯とハンバーグの三位一体」
時也がふふっと笑う。
「鳥子ちゃん、美味しいもの食べると変なこと言うよね」
「的確なグルメリポートでしょ」
島彦が私のお皿のハンバーグをじっと見ている。島彦のハンバーグはもうお腹の中に消えていた。カレーのお皿を、そっと島彦から遠ざける。
「お母さん」
「皆まで言うな、息子よ。これは、やらん」
がっかりした島彦に虎狼が笑ってみせる。
「お代わりあるぞ」
「本当? やったー!」
すでにカレーを平らげていた虎狼は自分と島彦のお皿を持って台所に行った。島彦も後について行く。
「島彦は食べるのが好きでいいね」
時也がぽつりと言う。
「時也だって食べるの好きじゃない」
「俺は好き嫌いあるし、今はあんまり食べられないし」
たしかに、時也のお皿のカレーはまだ三口ほどしか食べられていない。
「虎狼の料理は美味しいし、食べると元気になるみたいな気がする」
ぽつりぽつりと言いながら、ゆっくりスプーンを口に運んでいる。
「隠し味は愛情だったね」
「そうだね」
私のカバンの中でスマホが鳴った。時也が首をこちらに向ける。
「電話?」
怪獣が海から上陸してくるときのBGM。佐渡くんだ。
「ちょっと電話出てくる」
「うん」
玄関先まで出て、通話ボタンを押す。
「もしもし、わざわざ電話って、なにごと?」
「明日にしましょう」
「は? なにが?」
「カレー」
「ええ? それはスパイスから作るカレーの話?」
「はい。休みだからちょうどいいでしょう」
「あのね、一つ問題があって」
「なんですか」
「今夜の晩ご飯のメニュー、カレーなの」
「いいじゃないですか。インドの人は毎日カレー食べてるんですよ」
「しかもハンバーグカレーなの」
「こっちはコブサラダ付きですよ。生ハムのせます」
「行く」
生ハムには弱い。とても弱い。そのことを、なぜか佐渡くんは知っているらしい。酔って話したのかな。
会社の至近駅で待ち合わせという約束をして、電話を切った。
玄関を上がって台所を覗くと、虎狼と島彦は仲良くおしゃべりをしながらハンバーグの焼き上がりを待っていた。今度は煮込みじゃなくて焼きらしい。いいなあ。
お茶の間に戻ると、時也が卓袱台に突っ伏して目を瞑っていた。お皿を覗くと、カレー五口、ハンバーグ二口食べられたといったところか。
「がんばって食べたね」
「美味しかったから」
時也の頭を「よしよし」と撫でてやる。
「お母さん。時也くん、良いことしたの?」
島彦と虎狼がお茶の間に戻って来た。虎狼が二つのお皿を卓袱台に置く。こんがり焼けたハンバーグから香ばしい脂が焼けた匂いが立ち上る。お腹が空くよう。
「たくさん食べて偉いねって褒めてたの」
「そっかあ。時也くん、僕のハンバーグも食べる? ソースかけてもらったよ」
時也が、のそっと頭を起こした。
「ありがとう。美味しそうだね」
島彦はにこにこと、ハンバーグをスプーンで抉り取った。肉汁がじゅわーっと流れ出る。いいなあ。
「はい、時也くん。あーん」
時也は口を開けて島彦にハンバーグを食べさせてもらって、弱々しいながら、にこっと笑う。
「美味しいね」
「本当? 僕も食べよーっと」
島彦が口から迎えに行ってハンバーグに齧りつくのを横目で見る。ほっぺにソースがついてる。それも美味しそうだよお。
「鳥ねえ、タネはまだあるから、焼こうか?」
島彦の頬を拭いてくれながら虎狼は言うけど、首を横に振って断った。大事な話があるのだ。
「島彦、ご相談があります」
ほっぺを膨らませて口いっぱいにお肉を頬張っている島彦は、ことんと小首を傾げる。
「明日、一人で遊びに行ってもいいでしょうか」
島彦は急いでハンバーグを飲み込んだ。
「そしたら、僕、明日もここに来てもいい?」
島彦が目を輝かせて虎狼を見上げて、虎狼はすぐに笑顔で頷いた。
「ああ、いいぞ」
「やったあ!」
バンザイする島彦に慌てて言い含める。
「明日はおばあちゃんのお家だよ。いつもそうしてるでしょ」
「ここのお家がいい」
よっぽど気に入ったらしい。どうやって説得しようかと一瞬黙ると、虎狼が言った。
「明日も預かるよ。遠慮しなくていい」
「いや、そこは大人として、ひとつ遠慮もしておかないとね」
「大丈夫だって。時也も俺も、のんびりしてるだけなんだから。時也、お前も大丈夫だよな?」
「うん」
時也も島彦と並んで嬉しそうにしてくれる。
「ごめんね。なんだか毎日、甘えに来てるみたいで」
「どんどん甘えとけよ。時也が元気になったら、忙しくして遊んでなんか貰えないからな」
「そうだねえ。忙しすぎたのが病気の原因かもって言ってたけど」
時也が目を伏せる。
「もう、前みたいには働けない気がするんだ」
虎狼は怖い顔をして時也の顔を覗き込む。
「前みたいに働いたらダメだ。月の残業時間が八十時間で休日出勤もするなんて、俺は認めない」
時也がゆるゆると頬を緩める。
「虎狼が上司だったら、すごくいい会社になるんだろうな」
「会社じゃないけど、本当に食堂やれば? 虎狼が厨房で時也がウェイター。和食中心で、カレーは常備するの」
「カレーは市販のカレールーじゃダメだよね」
時也が言うので、うなずいてみせた。
「そこは、こだわりを見せないと。なんか、すっごい必殺技みたいな名前のヤツがいいよ」
島彦がカレーを頬張ったまま言う。
「お父さんのカレーがいいよ。すっごい辛いけど美味しいんだ」
一瞬、卓袱台の上がしんとなった。島彦はカレーを飲み込むと、私の顔を見て「ね」と同意を求める。なんとも言えないでいると、島彦の視線は虎狼に向いた。
「難しくてお母さんは作れないんだって。虎狼くん、作ってよ」
虎狼は黙って島彦を見つめている。時也がチラリと私を見る。気合を入れて、なんとか笑顔を作った。
「そうだね。虎狼なら作れるよね。明日さ、島彦を連れてくるときに、レシピ持ってくるよ。いつか作ってよね」
妙に真面目な顔で、虎狼は頷いた。
翌朝、早い時間に島彦と手を繋いで時也のところに向かう。島彦はらんらん歌いながらスキップしてる。
「島彦は本当に時也と虎狼が好きだね」
「うん、大好き!」
「美味しいものを食べさせてくれるから?」
「それだけじゃないよ。時也くんは僕がいないと元気なくなるし、虎狼くんは僕がいないと喋らなくなっちゃうの。僕がいてあげないと、二人ともへにょんってなる」
「そっか。へにょんってなったら大変だ」
「そう。だから、今日も……、あ!」
大きな声を出して島彦が立ち止まった。
「どうしたの」
「くすりびんがない!」
「ああ、保育園、お休みだもんね。大丈夫だよ、時也もご飯食べられてるし」
「大丈夫じゃないよ。どうしよう。どこかに宝箱ないかな」
「うーん。近所では見たことないなあ」
「あ!」
突然、島彦が駆けだした。道の向こうに渡っていく。
「あぶない! 急に走ったらダメ!」
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