オーダー2追加 小野家

 とにかく表札が大きい。『小野おの』という小さげな名前に向こうを張っているかのように、厚い石板に金色の文字が埋め込んである。


 溜め息。今日、何度目だったか。

 実家に足を向けたのは、島彦が仲直り出来たのを見たからだろう。時也が俺の過去を慰めてくれたからかもしれない。

 しっかりとした歩調で門をくぐりたかったが、また溜め息が出た。門の前でぴたりと止まったまま動けない。


「虎狼?」


 呼ばれて驚きの余り飛び上がりそうになった。振り返ると、スーツ姿の兄が立っていた。


「……なにしてるんだ」


 低い声で言われると、身がすくむ。


「お前、相撲を勝手にやめて、どのツラ下げて帰って来た」


 話せると思っていた。きっと顔を合わせたら言葉が出てきてくれると。だが、何年経っても、兄にしごかれた思い出は恐怖となって拭い去れない。


「俺と親父がどんな思いでお前に相撲を仕込んだかわかるか! 俺には手に入らない才能を持ったお前を指導し続けた俺の苦しみがわかるか!」


 まるで言葉が拳にでもなったかのように、びしびしと叩きつけられる。


「なんとか言ってみろ!」


 声が出てこない。足が動かない。兄がさらに怒鳴ろうと口を開きかけたとき、玄関の引き戸が開く音がした。


獅狼しろう、どうしたの、大きな声で……」


 玄関から母が駆けだして来た。


「虎狼! 心配してたのよ。連絡もつかなくて、どこに行ったかもわからなくて。どうしたの、こんなに痩せて。ご飯は食べてるの」


「ああ、適量を食べてる」


 兄が焼けているかのように真っ赤な顔で俺を睨む。


「適量とはなんだ。まだ子ども気分が抜けていなかったのか。力士は食べることも稽古のうちだ。それをお前は……!」


「虎狼、とにかく中に」


「入れるな」


 家の中から父の声だけが聞こえてくる。


「自分から捨てたんだ。もう家に居場所はないと思え」


「そんな、お父さん……」


「家の前にいつまでも立っているな、恥ずかしい」


 父の言葉から逃げるように、踵を返して早足で歩き出す。背中に兄の視線を痛いほど感じながら。


 それからどう歩いたのか、ぼんやりとして思い出せない。予想はしていたが、実際に宣告されると胸に来るものがあった。


「勘当か。落語みたいだな」


 呟いてみたが、笑いは湧いてこない。

 ふと顔を上げると、神社の鳥居が見えた。小さな神社だ。小ぢんまりした社が一つだけ、そこに不似合いなほど大きな土俵。神主が来るのは例大祭の時だけ。

 その祭りでは奉納相撲があって、俺と兄は毎年出ていた。


 鳥居をくぐる。子どものころは物凄く大きいものと思っていたが、いやに小さく感じる。身長も伸びたせいだろう。それとも、巨大な力士に囲まれて生活し続けていたせいで、サイズ感が狂って、普通がわからなくなっているのかもしれない。

 土俵もやけに小さく感じる。子どものころの記憶が、そう見せているのかもしれない。


 この土俵で練習して試合をした。奉納相撲には近隣の、普段は相撲に触れることのない子どもも出場する。俺や兄は相撲クラブで鍛えていた。毎年毎年、何度やっても最後に残るのは俺と兄だ。四歳違いの兄は俺に恨みでもあるのかと思うほど、様々な技をしかけてきて、だが俺が土俵から出るほどの強さでは当たらないのだ。

 俺は疲れ果て、へろへろになって、もう無理だと思うまで兄に小突き回される。それが毎年の恒例だった。


 勝敗が覆ったのは俺が小学校四年生になった時だ。身長が伸びて兄を越し、父に強制的に食べさせられて太っていた。突っ張り、一手だった。突き出しで俺は勝った。あの時の兄の絶望したような目の色が忘れられない。

 兄はそれから土俵に上ることはなくなり、俺をしごきあげることだけに注力した。兄の身長はなかなか伸びず、新弟子検査に合格できなかった。そのことを兄は気にしていない風を装っていたが、俺をしごく強さは増した。稽古というより恨みを込めた私刑のようだった。


「もう、嫌なんだよ」


 兄と父の前で出てこなかった言葉を漏らす。


「俺は、俺のために生きたいんだ」


 そう言い切ってみせる強さが、俺にはない。




 大家の大屋さん宅に戻ると、まだ六時半にもならないというのに、鳥ねえと島彦がいた。


「どうした、鳥ねえ。早退か」


「うん。島彦が偉かったって聞いたから、早く顔が見たくて」


 卓袱台に顎を乗せてぼやっとしている時也が「親バカだねえ」とのんびりと言う。


「そうなの。バカになれるのも今のうちだけだしね」


 島彦はと見ると、なぜか正座して俺に向かって両手を突き出していた。


「ああ、これか」


 ポケットから乳酸菌飲料の容器を出して島彦に渡す。島彦は緊張した面持ちでその容器を時也に差し出した。


「時也くん、くすりびんだよ」


 顔を上げた時也は重そうに手を伸ばして、くすりびんを受けとった。


「これ、くれるの?」


「うん。MP回復して元気になって」


「ありがとう」


 容器の上部を止めてある折り紙と輪ゴムを取り、中身を手のひらにあける。


「丸いね。これ、どうするのかな」


 まさか飲むわけにもいかない。それは島彦もわかっているらしく、困った顔で鳥ねえを見上げた。鳥ねえはすぐに「両手で挟んでお祈りしてみたら」と提案した。時也は言われた通り、粘土で出来た白い粒を両手に挟み、目を瞑る。


「MP、MP、回復しろー」


 本気で祈っている様子がなぜかおかしくて、思わず噴き出した。島彦が眉根を寄せて叱る。


「虎狼くん、真面目にして」


「すまん。なんだか面白くて」


 我慢していたらしく、鳥ねえもぷーっと妙な音をたてて笑い出した。


「ねえ、なんで笑うの。ちゃんとしなきゃMPよくならないよ」


 時也が手を伸ばして島彦の頭を撫でてやる。


「回復したよ。ありがとう」


「本当に? よかったあ。あのね、明日もくすりびん持ってくるからね」


「まだ持ってるの?」


「うん。あと五個」


 手のひらをぱっと開いてみせる島彦の小さな手、今はそれがとても頼もしく見える。時也も同じ気持ちなのか、微笑を浮かべた。


「すごいね。そんなにもらったら悪いな。島彦がMP切れの時のために取っておきなよ」


「大丈夫だよ。僕、くすり職人だから」


「そうなんだ。じゃあ、安心だね」


「うん!」


 島彦は職人らしい生真面目さで頷いた。



 四人で晩飯を食べることになった。まあ、そうなるだろうと多めに材料を買っておいて良かった。

 メニューは時也が好きなもの、で、食べやすいもの。と、考えて今夜は親子丼だ。

 鶏もも肉は小さめに切って、玉ねぎは薄切り。鶏肉には塩少々と酒を揉み込む。肉は案外よく水分を吸う。揉みこんでおけば加熱してもパサつきにくくなる。玉ねぎは火をよく通して柔らかくする。

 ツユは薄味で飲み込みやすいように。卵はゆるく、とろけるくらいが時也の好みだ。

 炊き立ての白飯は少しだけ硬め。柔らかい方が飲み込みやすいかとも思ったが、食べるスピードが上がらないなら、ツユを吸ってべっちゃりになるよりはいいだろう。


 四人分を一気に作るために親子鍋ではなくフライパンを使う。きれいな丸い形にはならないが、皆で一緒に食べ始められることが一番重要だ。


「出来たぞ」


 卓袱台に盆を運ぶと、島彦が拍手しだした。鳥ねえと時也も参加する。


「なんだ、それ」


 それぞれの前に丼と箸を置きながら聞くと、島彦が笑顔で言う。


「虎狼くん、ありがとう」


 鳥ねえも笑顔だ。


「美味しいご飯をありがとう」


 時也は目を細めた。


「虎狼、ありがとう」


 こそばゆい。なんだか顔が熱いような気がして、咳払いしてみた。


「じゃあ、食べようか」


「手を合わせてください」


 島彦が音頭おんどを取る。皆が胸の前で手を合わせる。


「いただきます!」


「いただきます!」


 そう言えば、俺と時也が通った幼稚園でも、食事の前には同じようにしていた。全国一律なのだろうか。十二時には日本中の子どもたちが手を合わせている。それはとても幸せなことだ。


「虎狼くん、美味しいよ!」


 島彦が元気よく言う。


「そうか」


「島彦、ご飯粒付いてる。口の横、右のとこ」


 鳥ねえと島彦はいつも二人だけの食卓だからか、特別に親密な空気を醸し出している。

 そう言うと、一人暮らし歴の長い時也は個食に慣れているのかと思うが、人と一緒に食事をするのは楽しいらしい。昔から人懐こいところが変わっていなくて安心する。


 親子丼は、ほっかりと湯気が立つ白飯に玉子がとろりとかかるあたりが、ツユの香りが立って美味い。そう言えば時也の好みに合わせていたら、玉子料理ばかりになるな。飽きることはないだろうか。


「時也、明日はなにが食べたい」


 聞いてみると、鳥ねえが噴きだした。


「今ご飯を食べてるのに、もう次のことを考えてるの? うちのお母さんみたい」


「え、いや」


「虎狼くん、僕ハンバーグ食べたい」


「俺はカレーかな」


 鳥ねえに突っ込まれて恥ずかしかったが、リクエストがちゃんと出てきてホッとした。


「もう、男の子は食いしん坊ね。今は親子丼に集中しなさいよ」


「はーい」


 島彦が元気に返事をして、もりもりと食う。時也も順調に食べ進めている。


「虎狼、お代わり」


 鳥ねえは誰よりも、よく食べた。




 満腹の食後にお茶を飲みながら、ぼんやりと過ごす。島彦は眠ってしまって、大人三人で雑談をする。急に鳥ねえが姿勢を正して時也に尋ねた。


「仕事は、休み続けて大丈夫なの」


 時也は首を横に振る。


「もう三か月も休んじゃってるから……。退職を考えてる」


 くすりびんの効果が切れたかのように急に暗くなってしまった。慌てて口を挟む。


「うつ状態の時に大きな決断をするなって、おじさんがくれた『うつ病の話』ってパンフレットに書いてあるが」


「うつ病の時こそ決断しなきゃならないことだらけだよ。仕事をどうするか、家族にどう話すか、友だちには伝えるのか、もうなんか、なにもかもどうでもいいや」


 ちらりと鳥ねえに視線を送ると、口の形だけで「ごめん」と囁く。


「とりあえず、大家さんが帰ってくるまでは家守のことだけ考えろ。大切な仕事だろ」


「そうだね。そうしようかな」


 時也の気持ちが地に着くほどには落ち込んでしまっていないと知って安心した。同じ気持ちらしい鳥ねえが、こっちに話を振って来た。


「虎狼こそどうするの、これから」


「なにも考えてない」


「仕事はするのよね」


「まあ、しないと。生きてるだけで金はかかる」


 なんとなく肩を揉んでみた。肉が減って肩も薄くなって、自分の体じゃないようにも思う。


「どんな仕事がいいの」


「学歴が必要ない仕事だな。就職情報誌ってやつを見てみたが、どれも高卒以上だったよ」


「そうねえ。中学校卒業してすぐ相撲部屋に就職したんだしね。そうだ、食堂を開くとかどう? 料理上手だし」


「調理師免許なんて持ってないぞ」


 時也が会話に戻る。


「でも虎狼の料理は本当に美味しいから、食堂は良いと思うよ」


「接客業なんて、俺には似合わないだろう。それに大体、今どき和食しか出さない店もないんじゃないか」


「カレーもハンバーグも作れるんでしょ」


「まあ、それくらいは」


「じゅうぶんだよ。世の中にはおむすびカフェとかシジミ汁バーとか、そんなお店もあるんだし」


「今の世の中にはそんなものもあるのか」


 時也がくすくすと笑う。


「今の世の中だって。虎狼って、時々お爺さんっぽいよね」


 つられて頬に微笑が浮かぶ。


「おじさんを通り越したか」


「うん」


 鳥ねえがお茶のお代わりを注いでくれた。


「虎狼はいつの間にそんなに料理上手になったの」


「部屋住みの時にだ。ちゃんこ作りで鍛えられたからな」


「相撲部屋って、毎日鍋なの?」


「相撲取りが作る料理はなんでもちゃんこって言うんだ。焼き鳥でも、ステーキでも、寿司でも」


 鳥ねえの目がきらりと輝く。


「寿司? 握れるの?」


「いや、ちらし寿司」


 どうやら握り寿司が食べたかったようで、鳥ねえは肩を落とした。


「そっか。そういうものもあったね」


 時也は逆に乗り気だ。


「ちらし寿司いいね。虎狼のお母さんが作ってくれた筍と鰆のちらし寿司、好きだったな」


「よし。じゃあ、近いうちに作ろう」


 鳥ねえがうっとりと目を細める。


「いいわねえ、春満喫ちらし寿司。ほんわかする響き」


「作る時は連絡する」


「え? うちはいいわよ。二人で食べな」


「ちらし寿司っていうのは、たくさん作らないと美味くない。来てくれたら助かる」


「そう? なら、その時はごちそうになります」


 鳥ねえがおかっぱ髪を揺らして、元気よくぺこりと頭を下げた。





 起きる気配のない島彦を背負って、鳥ねえを送って行く。夜になって生気が戻って来た時也が玄関先まで見送りに出てきた。少し症状が軽くなっていると言っても、それでも顔色は悪い。


「無理しないで早く寝ろよ」


「大丈夫だよ」


 鳥ねえが軽く手を上げる。


「時也、島彦と遊んでくれてありがとう」


「俺の方こそ。くすりびんありがとうって、島彦に言っといて」


「ラジャー」


 手を振って夜道を歩きだした。


 この辺りは店も少なく道も狭い。街灯まで少なく薄暗い。通りの家から漏れる灯りが、かすかな頼りだ。

 島彦を起こさないように、ゆっくりゆっくり歩く。


「虎狼」


 鳥ねえが呼ぶ。


「なに」


「辛くなったら、なんでも話していいんだからね」


「突然、なに」


「虎狼はなんでも抱え込んじゃうから。もっと自分を外に出してあげていいんだからね」


「……そうか」


「そうだよ」


 ほちほち。誰かが言ってたな。歩く音だ。ほちほち。

 鳥ねえと並んで、ほちほち歩いていると昔のことを思い出す。まだ俺が本格的に相撲に縛られていなかった子ども時代。俺と時也を、鳥ねえが本当の姉さんみたいに面倒見てくれた。ずっと、俺たちを見ていてくれた。


「鳥ねえ、ありがとう」


「ん」


「でも、今は話せない」


「ん」


 ほちほち。

 ほちほちと。

 歩く。

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