秘拳の四十四 再生と新生

 トーガである。


「ユキ……俺と一刻も早くここから出るんだ……ここにいると君は人柱に」


 瀕死の状態だったトーガを見てナズナは気を失いそうになった。


 事の真相を知らずに早合点してしまったカメが、トーガを捕縛するために男衆を向かわせたということは目覚めてから聞いていた。


 男衆は普段から漁や角力(相撲)で肉体を鍛えている連中だ。


 そんな男衆に狙われれば絶対に無事ではすまないとは読んでいたものの、ここまで酷い状態に追い込まれたとは思わなかった。


「トーガさん!」


 不意に常在神はトーガの元へ駆け寄ろうとした。


 しかし、その前にナズナが常在神の手を掴んで動きを静止させる。


「ナズナさん、何をするんですか。早くトーガさんの怪我を治療しなくては命に」


「分かっています。けれども今は先に行うことがあります」


 ツカサ様、とナズナはカメに顔を向けた。


「ツカサ様から見てトーガのセジ(霊力)はどうなっていますか?」


「お前の言っていた通りだよ」


 カメは糸のように目を細めてトーガを注視していた。


「トーガのマブイ(霊魂)が半分だけ抜け落ちている。私はこれまで数え切れないほどマブイ(霊魂)を落とした者たちを見てきたが、マブイ(霊魂)を半分だけ落とした者は初めて見たよ」


 八重山のみならず、琉球にはマブイ(霊魂)が抜け落ちるという現象が起こる。


 心臓が飛び出るほどの驚きや家族の死など悲しい出来事に見舞われたとき、人間の命と繋がっているマブイ(霊魂)が弾みで体外に零れ落ちてしまうのだ。


 そうなれば大変であった。


 マブイ(霊魂)は臓腑に強く影響しているため、マブイ(霊魂)を落とすと腑が抜け落ちたような状態――腑抜けた人間になってしまう。


 目からは生気がなくなり、何事にも無気力になる。


 もっと酷い状態になると布団から抜け出すのはおろか、食べ物を口にすることすらも億劫になって最悪の場合は命を落とす。


 だが、マブイ(霊魂)を半分だけ落とす人間の話など聞いたことがない。


 それはカメだけではなくアマミキヨから真相を聞いたナズナも同じだった。


「トーガさんのマブイ(霊魂)が半分だけ抜け落ちている? そんな嘘です。トーガさんのマブイ(霊魂)が抜け落ちているのならば真っ先に私が気づくはず」


 明らかに心を乱した常在神にナズナは首を振って見せた。


「恐れながら申し上げますと、今の常在神様にはトーガのマブイ(霊魂)が抜け落ちているか判別することは無理なのです。なぜなら」


 ナズナは腹を据えて低い声で答える。


「なぜなら、トーガの抜け落ちた半分のマブイ(霊魂)は常在神様がお持ちだからです」


 呆気に取られた常在神に対してナズナは慎重に言葉を選んでいく。


「これは私の考えなのですが、トーガがマブイ(霊魂)を落とした原因は常在神様と出会ってしまったからではないのでしょうか? そして、そのときに抜け落ちた半分のマブイ(霊魂)を常在神様が取り込んでしまった」


 常在神は何も答えず、ただ両目を閉じて下唇を強く噛み締めた。


「どうしてトーガのマブイ(霊魂)が半分だけ体外に零れ落ちたのかも、そのマブイ(霊魂)をあなたが取り込んでしまったのかも私には分かりません。ですがこれだけは言えます。此度の黒城島に起こった異変を鎮めるためには〝常在神様の中に取り込まれたトーガのマブイ(霊魂)を持ち主に返すこと〟が必要なのです」 


「マブイグミ(霊魂込め)」


「そうです。私はニライカナイでアマミキヨ様から聞きました。黒城島の異変を鎮めるためにはトーガのマブイグミ(霊魂込め)を行わなければならないと」


 事実であった。


 ナズナがアマミキヨから聞いた黒城島の異変を静める方法とは、人間のマブイ(霊魂)を取り込んだ常在神からマブイ(霊魂)を取り戻すことであった。


 すなわちトーガのマブイ(霊魂)を常在神から取り戻せば、黒城島を襲っている数々の異変はすべて治まるという。


 しかし――。


「トーガのマブイグミ(霊魂込め)を行えば常在神はこの世から消えてしまいます。それが規律を破った常在神の代償だとアマミキヨ様が……」


「そうでしょうね。私は来訪神たちと違って人間の前に姿を見せてはならない常在神。その常在神が人間の前に姿を現したばかりか、人間のマブイ(霊魂)まで取り込んでしまったのでは責任を負わないわけにはいかないでしょう」


 常在神は自分の手を掴んでいたナズナの手をそっと離した。


「私がこの世から消えるのは一向に構いません。覚悟もできているつもりです。ですが、最後に私の我がままを聞いてはいただけませんか?」


 ナズナとカメは互いに視線を交錯させる。


「最後にトーガさんと抱擁させてください。そうさせて頂ければ、私はこの世に思い残すことは何一つなくなります」


 ナズナはどう答えていいか分からずカメに視線で尋ねた。


 カメは小さく顎を引いた。常在神の最後の頼みを了承したのだ。


「分かりました。常在神様のお望み通りになさってください」


「ありがとうございます」


 常在神は深く頭を下げると、颯爽と振り向いてトーガの元へ向かった。


「ユキ……さあ、俺とここから……一緒に……」


 トーガの瀕死振りは目を瞠るものがあった。


 すでに歩く元気も事切れたのだろう。


 白く染まった地面に両膝をつけるや否や、うなされたように何度も同じ言葉を言い始める。


 ナズナはトーガの元へ駆け寄りたい思いを必死に堪え、自分よりも先にトーガの元へ近寄った常在神の行動を見据えていた。


 常在神は着物が汚れるのも構わず両膝を地面につけると、真正面からトーガを抱き締めた。まるで心から愛し合った異性同士が互いの心情を確かめるように。


 不意にナズナの目元から熱い雫が流れ落ちる。


 なぜ涙が溢れてきたのかナズナ自身も分からなかった。


 ただ、トーガを抱き締める常在神の背中を見ていたら胸が張り裂けそうになったのだ。


「ナズナ、そろそろ始めておくれ。でないとチッチビや島人に死人が出てしまう」


 二人の抱擁に目を奪われていると、カメに背中を軽く叩かれた。


 それだけではない。ナズナはカメから先端が結ばれたススキの葉を受け取った。


 魔除けの効果が強いサンである。


 サンを受け取ったナズナは、重苦しい足取りでトーガと常在神の元へ歩を進めていく。


「常在神様」


 声をかけると、常在神は顔だけを振り返らせた。満足そうな笑みを浮かべている。


「本当にありがとうございました。これでもう思い残すことはありません」


 常在神はトーガとの抱擁を緩慢な所作で解いた。


「トーガさんのマブイグミ(霊魂込め)を始めてください」


 言われずともナズナはトーガのマブイグミ(霊魂込め)を始めなければならなかった。


 先ほどよりも一層に寒さが増してきている。


 このままではカメが言ったように死人が出てしまう。


 常在神は名残惜しそうにトーガを見つめた後、真っ二つに割れているイビ(聖石)に向かって歩き始めた。


 それでもナズナは常在神の動向を目で追わず、見るも無残な姿で荒く呼吸を繰り返しているトーガを見下ろした。


「トーガ、私が誰だか分かる? ナズナよ、ティンダの妹のナズナ」


「ナ……ズナ……」


「そう、ナズナよ。だからお願い。返事をしてちょうだい。あなたはトーガよね?」


「俺は……トーガ……トーガだ……」


 ナズナは安堵の息を漏らした。


 本人の口から返事を貰うのはマブイ(霊魂)を呼び寄せるために必要だからだ。


「トーガのマブヤー(霊魂よ)、マブヤー(霊魂よ)、ウーティクーヨー(追いかけて来て)」


 ナズナは次にトーガの頭上でサンを右回りに三度回した。


 もちろん回す度に「トーガのマブヤー(霊魂よ)、マブヤー(霊魂よ)、ウーティクーヨー(追いかけて来て)」と唱えることも忘れない。


 続いてトーガの真横に移動したナズナは、背中、胸、腹、足の順番にサンを叩き始めた。


 三回ずつ、一連の動作を終えるまで呪を唱えながらだ。


 正式な手順を踏んで呪を唱えたナズナは、サンを地面に置くと左手に握っていた小瓶から一つまみの塩を取り出す。


「マブヤー(霊魂よ)、マブヤー(霊魂よ)、ウーティクーヨー(追いかけて来て)」


 ナズナはトーガの頭頂部に塩をすりつけると、今度は二つ目の小瓶に入れていた水を右手の中指の腹につけた。


 わずかに濡れた中指の腹でトーガの眉間を優しく三回叩く。


 これはウビナディと言われる儀式であり、年の明け始めにカー(井戸)から水を汲み取る若水と同様の効果が得られるとされていた。


 若水を汲み取ることには子孫繁栄、健康成就、若返りの意味がある。


 だが、ウビナディには他の意味も隠されていた。


 再生と新生である。


 ウビナディを終えたナズナはトーガを抱き締め、最後の仕上げとばかりにカメから教わった本当のマブイグミ(霊魂込め)の呪を言い放った。


「トーガのマブイグミ(霊魂込め)は無事に行い終えました。これからトーガの肉体は心身ともに頑強になり、もう二度とマブイ(霊魂)を落としませんよう――」


 ナズナは心の底から願いつつ唇を動かす。


「トーガのマブヤー(霊魂よ)、マブヤー(霊魂よ)、ウーティクーヨー(追いかけて来て)」


 最後の呪を唱えた瞬間である。


 突如、真っ二つに割れたイビ(聖石)から眩い光が放れた。


 早朝の海から顔を覗かせる太陽の如き光がである。


 やがてその光の一部が吸い込まれるようにトーガの肉体へ入り込んでいく。


 そして膨大な光に耐えられなかったカメやチッチビたちが両目を閉じたとき、ナズナだけは目蓋を閉じずにイビ(聖石)で起こった出来事をすべて脳裏に焼きつけた。


 黄金色に輝く一筋の光はイビ(聖石)の手前にいた人物から放れていた。


 常在神である。けれども常在神は徐々に人間の姿から別の生物へと変化していく。


(あれは白蛇……ううん、違う。あれは蛇なんかじゃない)


 目を凝らせば凝らすほど蛇とは一線を隠す生物だと分かった。


 樹木すらも噛み砕けそうな顎からは鋭い牙が覗き、両鼻の近くからは二本の髭が伸びている。


 また背中の部位から尾の部位まで白毛がうねり、頭と尾の近くに人間のような五本の指が生えていた。


「常在神様!」


 ナズナの叫びは大気を震わすほどの轟きに掻き消された。


 異様な生物に姿を変えた常在神は、暗色の空に向かって旋回しながら昇っていく。


 そうして黄金色の光を纏った常在神が雲に触れたときである。


 波紋一つない水面に大岩を投げつけたときのように、常在神が触れた場所から光の奔流が黒城島全体を覆っていた暗色の雲を晴らしていったのだ。


 ナズナは呼吸をすることも忘れて呆然と空を眺め続けた。


 目が眩むほどの光を放ちながら異様な生物へと姿を変え、暗色の雲を根こそぎ晴らした黒城島の常在神。


 それはまさしく神のみが行える業だとナズナは思った。


 なぜなら、常在神はあれほど島人たちの不安を掻き立てていた曇天も寒さも白い粉も一つ残らず追い払ってしまったからだ。


 自然とカメやチッチビたちから怒涛の如き嬌声が湧き上がる。


 天からは夕刻を告げる茜色の空と暖かい日差しを放つ太陽が顔を覗かせていた。


 しかし太陽は次第に海の彼方へ沈み、代わりに青白い燐光を放つ満月が姿を現すだろう。


 今日は一年で最も満月が美しく見えるジュウグヤー(十五夜)の日。


 ヤナムン(悪霊)やマジムン(魔物)の力を弱め、心を込めて織ったミンサー(帯)を密かに想っている男に贈ると恋が実るというジュウグヤー(十五夜)の日。


「トーガ、終わったよ。これで全部終わったんだよ」


 ナズナは茜色の空からトーガへと視線を転じる。


 いつの間にかトーガは意識を失っていた。どうやらオン(御獄)までやってきた時点で心身ともに力を使い果たしていたのだろう。


 カメやチッチビたちが小踊りして喜びを享受していた中、ナズナは弱々しく呼吸を繰り返していたトーガを強く抱き締めた。


 いつまでもいつまでもずっと――。

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