秘拳の四十五 案ずるより産むが易し

 見上げれば紺青の空が果てしなく広がっている。


 雲一つない清々しいほどの快晴であった。


 浅瀬の底が覗けるほどの透明な海は小さな波を引いており、潮の香りを含んだ海風が鼻腔の奥を心地よく刺激する。


 刻限は昼を少し過ぎた辺り。


 季節はまだ夏の盛りを終えていないため、天上の太陽からは照りつくような日差しが容赦なく降り注いでくる。


「ここから見る海も今日で見納めか……」


 トーガは視線を空から正面の浜辺に戻した。


 星砂が混じった砂浜には自然が作り上げた風紋が幾つも浮かび、前方の海からは三線の音とは一味違った優しい音色を奏でる波音が聞こえてくる。


 そして浅瀬には数十隻の小船が横一列に停船していた。


 石垣島に交易品を運ぶ男衆ないしは海人たちが所有している小船である。


「それにしても遅いな」


 と、呟いたトーガは浜辺から離れた樹木の根元に座っていた。


 当然である。


 八重山に住む島人たちの中で、太陽が最高の力を発揮する真昼に浜辺へ向かう人間はいない。


 そんな愚行を起こせば足裏が火傷してしまうからだ。


 なので島人たちが動くのは早朝か夕刻と決まっていた。


 一日中家に篭って機織に励む女たちや釜場で働く男たちは例外だったが、それこそ海人たちや農耕を営む人間たちは厳粛に早朝か夕刻からしか働かない。


 これは怠惰とは言わなかった。


 どちらかと言えば、八重山の風土に合わせた島人たちの知恵に他ならない。


 島人たちは骨の髄まで知っているのだ。


 生まれ育った故郷の気候に合わせて働くことが生き易いということを。


 ほどしばらく根森村の戸口とも呼ぶべき浜辺を眺めていると、トーガは後方から徐々に近づいてくる気配を察した。


 顔だけを振り向かせて言い放つ。


「自分から刻と場所を告げておきながら遅れるな、フラー(馬鹿)」


 視界には左手に白布を幾重にも巻いていたティンダの姿が目に飛び込んできた。


「フラー(馬鹿)とは何だ。それがわざわざ見送りに来た親友に言う言葉か」


 ティンダは無数の樹木から生えている鋭利な枝や、太い木の根などに足を取られないよう注意しながら近づいてくる。


「あれから怪我の具合はどうだ? 熱や痛みはないか?」


 日除け代わりにしていた樹木にティンダが到着したとき、トーガは尻の部分に付着していた土を払い落としつつ立ち上がった。


 だが、傍目からは特に汚れていたようには見えない。


 なぜなら緋色地の着物を着ていたティンダとは違い、トーガは土と似たような色をした茶地の着物を身に纏っていたからだ。


「まだ十日しか経ってないんだぜ。さすがにお前の突きを食らった腕はまだ痛えよ。だが、俺よりもお前はどうなんだよ?」


「もう大丈夫……と言いたいところだが、本調子まではもう少しかかるかな」


「何だったら出立を遅らせても構わないんだぞ」


「いや、いつまでも島に残っているわけにはいかないだろう。黒城島に住む島人たち全員に被害が及ぼすほどの騒動を起こしてしまった罪人がな」


 トーガが痛悔を含ませた低い声で呟くと、ティンダは顔を真下に落として首を振った。


「あれは誰のせいでもない。言わば嵐よりも性質の悪い天災だったんだ。それなのに、どうしてお前一人が責任を取らされる!」


 突如、ティンダは激しく地団駄を踏んだ。それこそ地面を抉るほど荒々しく。


「落ち着け、ティンダ」


 トーガはティンダの肩に両手を置いて怒りを宥めさせた。


「これが落ち着いていられるか。連中は今回の騒動の原因をすべてお前に被せたんだぞ」


 ティンダがそこまで言葉を紡いだとき、トーガは途端に険しい表情を崩して苦笑する。


「仕方ないさ。今回の騒動に俺は誰よりも関わっていたんだ。しかし、まさか親子二代に渡って島流しの刑に遭うとは呆れを通り越して笑えてしまうな」


 事の発端は十日前。ジューグヤー(十五夜)の日に起こった異変が原因であった。


 八重山の一離島に過ぎない黒城島のみが、琉球全土を見渡しても前例がない〝雪〟に見舞われたのだ。


 一年を通して温暖な気候と農耕に適した土壌に恵まれ、海が凪いでいるときに漁を行えば新鮮な魚介類が豊富に獲れる黒城島において、死を彷彿させる寒さとともに降ってきた白い粉――雪は恐怖以外の何物でもなかった。


 現に雪が降ってきたジューグヤー(十五夜)の当日、あまりの寒さと恐ろしさのあまり気を失う者や半狂乱になった者が後を絶たなかった。


 その際に慌てて逃げ惑って怪我をした人間が続出したことは言うまでもない。


 しかし、ジューグヤー(十五夜)の日から十日が過ぎた今は状況が一変している。


 怪我を負った者たちの治療も終わり、太陽を隠していた暗色の雲も綺麗になくなった。


 地震もあれから一度も起こっていない。


 船が出せないほど荒れ狂っていた海も本来の静けさを取り戻し、陽光を受け止めていた水面が爛々と輝いて見える。


 気分が晴れ渡る空と海を交互に見つめると、ティンダが苦々しく舌打ちした。


「俺は最後の最後まで反対したんだ。騒動の責任をトーガ一人に押しつけるような真似は止めろってな。けれどゲンシャの父親の抗議が決定打になった」


「聞いているよ。俺の責任は密かに鍛錬していた〈手〉を使ってゲンシャたちやティンダに怪我を負わせたことに対してだろ?」


 奥歯を噛み締めながら首肯するティンダを見たトーガは、微風で乱れた前髪を手櫛で整えつつジューグヤー(十五夜)の日のことを脳裏に思い浮かべた。


 あの日のことは永遠に忘れることはないだろう。


 ゲンシャやゲンシャの取り巻きたちを〈手〉の技で撃退し、あろうことか親友であるティンダとも拳を交えたことを。


 ただ予めゲンシャの取り巻きたちに痛手を負わされていたからだろうか。


 その後のゲンシャやティンダとの死闘は夢幻の中で起こった出来事のように今でも思える。


 なぜ、トーガはゲンシャやティンダと闘うことになったのか? すべては大木が一本だけ生えていた平地で女と出会ったからだ。


 女は白髪で底知れない魅力を醸し出していた美人であった。


 けれども本人から記憶を失っていることを聞いたトーガは、以前から聞き知っていた雪を連想させるユキという仮名をつけて家に住まわせた。


 やましい魂胆からではない。純粋に記憶がないというユキの身を案じたからだ。


(まさかユキが黒城島の繁栄を司っていた神だったとはな)


 トーガは二度目となる溜息を漏らす。


 ユキという仮名を与えた女の正体は、人間に決して姿を見られてはいけないという神の一人だった。正確には常在神と言って固有の名前を持たない由緒正しい神だという。


 神と言えば八重山ではアカマタとクルマタが有名であり、この神々は海の彼方にあると信じられているニライカナイの地から豊年を運んでくる来訪神の呼び名だ。


 他にもアカマタとクルマタはニイルピィトゥまたはニロー神とも呼ばれ、八重山の各集落でも六月にはアカマタとクルマタの形を模して豊作を祈る稲穂祭りが行われている。


 そんな来訪神よりも格上とされていた常在神を匿ったため、ジューグヤー(十五夜)の日に起こった黒城島の異変が頂点を迎えてしまった。


 大和では死者も出るという雪が降ってきたことである。


 トーガは暗澹の表情を浮かべたティンダの心を和ませようと破顔した。 


「ゲンシャの父親が最後まで抗議した理由は分かるよ。親ならば大事な一人息子を傷つけられたら怒るに決まっている。それに息子の睾丸が潰されて子孫が残せなかったかもしれなかったのなら腹の虫も治まらないだろう」


 トーガは矢継ぎ早に二の句を繋いだ。


「ましてや俺がアカハチと同じティーチカヤー(手の使い手)だったと分かったのなら尚更さ。ただでさえ根森村はアカハチの反乱から逃れた島人たちが作った集落なんだ。ゲンシャの父親以外に俺を追い出したい人間が現れるのも無理はない」


 根森村の最高権力者がツカサであるカメということは動かぬ事実だ。


 実際、根森村の祭祀はすべてカメとツカサを補佐するチッチビたちが取り計らっている。


 だが、今回の騒動はカメ一人で静められるほど甘いものではなかった。


 ジューグヤー(十五夜)の日から三日後、根森村の顔役だった者たちによる話し合いがカメの家で開かれたと聞いた。


 海人たちを仕切るゲンシャの父親や、根森村で工芸品を作っているムガイやその他の人間たち十数人が集まったというが、ムガイはまだ腰痛から回復していなかったので代わりとしてティンダが出席したという。


 話し合いの内容は以下の通り。


 黒城島の繁栄を司っていた常在神を匿い、将来ある男衆たちに重大な怪我を負わせ、また男子禁制であるオン(御獄)に許可なく侵入したトーガを黒城島から追放すること。


 すなわち、トーガをクダンのように島流しにすることであった。


 天災の責任は人間が負うものではないが、人災の責任は人間が償わなければならない。


 誰かが今回の騒動に関する責任を負わなければ島人の働きに悪影響が起こる。


 そう懸念したティンダ以外の顔役たちはトーガ一人に責任をすべて押し付けたのだ。


 両親はすでに他界し、村にはこれと言った門中もいない。


 加えてトーガが騒動の中心的人物だったことも相まり、これほど責任が取れ易い人物はいないと顔役たちは考えたのだろう。


「ティンダ、こんなことを言うのも何だが俺は微塵も後悔をしていないんだ。それどころか不思議と心は落ち着いている。島流しの命を受けてよかったとな」


「島流しの刑に処されてよかっただと?」


「ああ、どのみちゲンシャやお前を傷つけた責任を負わされることは覚悟していた。そこで一番思ったことは島に残っていいのかということだった」


「もったいぶらずに簡単に話せ。俺にも分かるように簡単にな」


「そうだな……たとえばお前が仕事で他の島へ行ったとしよう。その島の村には人を治すことで生計を立てていた医者の男がいた。しかし、その男の正体が実は人を殺しかねない技を磨いていた男だったのならどうする?」


「ティーチカヤー(手の使い手)である俺にそれを訊くのかよ」


「意地の悪い問いだが的を射ていただろう?」


 トーガは緩く両腕を組んだ。


「つまり、そういうことだ。ティーチカヤー(手の使い手)は何も知らない人間から見れば凶器と大差ないんだよ。大和の武器である刀に置き換えればもっと分かる。普段は鞘に納まっていて触れても傷つくことはないが、何らかの拍子で鞘から刃が抜かれたら最後。自分ばかりか周囲の人間たちに危険が及ぶかもしれない。ゲンシャの父親たちもそれを慮ったから俺を島から追放する案を話し合いで出したんじゃないのか」


 一瞬、ティンダはトーガから視線を逸らした。


 それだけでトーガには手に取るように分かってしまった。


 今のたとえ話に似たような話が本当に話し合いで出されたのだろう。


「だから俺は島に残らないほうがいいと思ったんだよ。それにあれだけの騒ぎになったんだ。どういう事情であれ俺を避ける人間が出てくることは明らか。下手をすれば俺と親しい間柄であったお前の悪い評判が立つかもしれない。そんなことになるぐらいなら俺は自ら島を出る。まあ、十八年も俺を育ててくれた黒城島を出ることに不安がないと言えば嘘になるがな」


 乾いた笑みを零したトーガにティンダは言った。


「じゃあ、せめて八重山に残るつもりはないのか? 俺が口を利けば石垣島の仲間村か嘉平村に住むこともできるんだぞ」


「そこまで甘えることはできない。それに八重山に残っていては本当の意味で島流しにはならないだろう。石垣島など小船で二刻(約四時間)も漕ぎ続ければ辿り着くからな」


 だから、とトーガは一拍の間を置いて断言する。


「どうせなら本島へ行くことに決めた。噂では八重山と本島の言葉は違うというが、俺は幸いにも大和人だった母さんから大和語を教えて貰っている。もう何年も話していないが彼の地へ行けば何とか通じるだろう」


「だろうって……お前にしては楽に考え過ぎじゃないのか?」


「案ずるより産むが易し」


 呆れ返ったティンダにトーガは片言の大和語を口にした。


「な、何だって?」


「大和の格言を大和語で言ったのさ。案ずるより産むが易し。物事は実際に行動してみないとどうなるか分からない。案外、思ったよりも簡単に物事を行えるかもしれないという意味だったかな? 要するにやれば何とかなるということだ」


「本島に行ったところですぐに生活できるとも限らないぞ」


「そんなに心配するな。本島に行っても食い扶持には困らないさ。俺には父さんから学んだ医術がある」

「他にもあるだろ?」


 次の瞬間、ティンダは鋭い踏み込みから蹴りを一閃させた。


 トーガの腹部に目掛けて爪先蹴りが飛んでいく。


 それでもトーガは冷静を欠かさなかった。


 ティンダが繰り出した爪先蹴りを半身になって躱したと同時に、トーガも腰の捻転と手首の捻りを加えた拳を放ったのだ。


 顔を狙った左正拳突きである。


 小波の音が絶え間なく聞こえてくる中、拍手を打ったような甲高い音が響いた。


 ティンダが右手の掌でトーガの正拳突きを受け止めたのだ。


「これだよ。医術の他にもお前には何より〈手〉がある。いいか、本島に行っても気をつけろ。何せ向こうには首里加那志が住まう首里城があるんだ。きっと俺たちのようなティーチカヤー(手の使い手)やゲンシャなど足元にも及ばない悪漢が多くいるだろう。せめて八重山とは比較にならないほど危険な土地だということは肝に銘じておけ」


「忠言、ありがたく頂いておく」


 トーガは静かに左手を引いた。


「さて、親友からの餞別の言葉も貰ったし厄介者はそろそろ消えるとしようか。ティンダ、くれぐれも家族や他人に自分がティーチカヤー(手の使い手)だと悟られるなよ」


「言われずとも分かっているが、それよりも覚えているよな。お前が乗る船はあの白布を被せているやつだぞ」


「もちろん覚えているさ」


 身体ごと振り向いたトーガは、数十隻の小船の中で極めて目立っていた船に目をやる。


 一番左端に停まっていた船には無地の布が被せてあり、色々な荷物が乗せられていることは遠目からでも見て取れた。


「お前に必要な荷物は事前に俺が全部積み込んで置いた。数日分の水と食料を入れた陶器、代えの着物が入った木箱が幾つかと他にも色々と。これで本島までは十分持つだろうよ」


「何から何まですまないな。ムガイのオジィに至っては路銀まで貰ってしまった」


「おう、貰っとけ。路銀は多いに越したことはないからな」


 快活に笑ったティンダにトーガは深々と頭を垂れた。


 十八年間という短い人生の中で、昨日ほど人の情けが心に染みたことはなかった。


 本来ならば島流しの刑に処された者を哀れむ者などいない。


 だが、ティンダやムガイを初めとした親しい人間たちは涙を流して別れと励ましの言葉をくれたのだ。


 また親友であるティンダは石垣島に渡るための船ばかりか、石垣島の仲間村から本島まで行く貿易船に乗れるよう手筈を整えてくれたのである。


「ティンダ」


 トーガは布が被された小船を見つめながら親友に尋ねた。


「その、ナズナは来ないのか? 世話になったナズナにも礼の言葉を言いたかったんだが」


「う~ん、ナズナはお前が考えているよりも忙しくてな」


「そうだよな。俺の見送りなどしたら機織の仕事に支障が出る。最後の最後に顔を見たいと思った俺が浅はかだった。すまん、今の言葉は忘れてくれ。ただ、その代わり怪我をした俺を三日三晩看病してくれたことは本当に感謝していると伝えて欲しい」


 背中越しに願いを告げたトーガは小船に向かって歩き出す。


「トーガ」


 浜辺に降り立つ寸前、後方からティンダの声が聞こえてきた。


「チバリヨー(頑張れよ)」


 トーガは頑として振り向かなかった。


 ここで振り向いてしまえば目元を潤せた情けない姿を見られること以上に、生まれ育った黒城島から旅立つ決意が薄れてしまうと思ったからだ。


 なのでトーガは振り向かず、樹林から浜辺に降り立つや否や足裏が火傷しないように全力で浜辺を駆けて行った。


 自分の将来に役立つ荷物が積み込まれていた小船へと。

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