秘拳の四十三 島の終わり

 数日の間で様々な異変に見舞われた島人たちも、さすがに暗色の空から降ってきた白い粉を見るなり断末魔の悲鳴を上げた。


 八重山に住んでいる限り、地震に襲われたことは一度や二度ではなかった。


 嵐が訪れた日などは家が吹き飛ばないか不安で、眠れぬ夜を過ごした者も十人や二十人ではないだろう。


 だが、震えが止まらないほどの寒さを運んできた白い粉は別だ。


 大地を大きく揺るがす地震や海を荒れ狂わせる嵐、同じ家屋に住んでいる者の声さえも掻き消してしまうほどの豪雨などは放って置いても形を残さず過ぎ去ってしまう。


 なのに天から降ってきた無数の白い粉は依然として残り続けている。


 家屋の屋根はもちろん、樹木の枝や大地が少しずつ白い粉によって白色に染まっていく。


「島の終わりだ」


 阿鼻叫喚の巷と化した集落で誰かがそう呟いたとき、オン(御獄)に集まっていたチッチビたちは誰もが逃げ出したい衝動を抑えながら地面に正座していた。


 沐浴で清めた身の上に汚れ一つない白装束を纏い、首には水晶や珊瑚を糸で紡いだ首飾りがかけられている。


「ナズナ、確かに間違いないのだな?」


 真っ二つに割れたイビ(聖石)の手前で正座していたカメは、小刻みに全身を震わせながら隣に座っていたナズナに問うた。


「間違いありません。ニライカナイの地でアマミキヨ様から聞きました。此度の黒城島を襲った異変はすべて神と人の間に定められた規律が破られたからだと。そして、このオン(御獄)で待っていれば黒城島の繁栄を司ってくれていた常在神様がやってくると」


「まったく、何と私は愚かだったのだ」


 カメは未だかつて味わったことのない寒さに耐えつつ、イビ(聖石)の奥に一本だけ生えていたクバの木を見据えた。


「先代からツカサの役目を受け継いで数十年。よもや常在神様が別の場所に生えていたクバの木に住んでいらしていたとは露知らず、得意気になって村の祭祀を取り計らってきたとは愚の骨頂。このまま村を滅ぼさせてしまっては死んでも死に切れぬ」


 普段から弱気一つ見せなかったカメが涙を流した。


 悔恨を含んだ熱い涙は多くの皴が刻み込まれていた頬を滴り落ちる。


「ツカサ様、そのように気を落ち込ませないでください。あなたが心を挫いてしまっては他のチッチビたちが動揺してしまいますよ」


 そう言うとナズナは懐から二つの小瓶を取り出した。


「安心してください。この異変は私が必ず鎮めます。そのために私のマブイ(霊魂)はニライカナイに住まわれていたアマミキヨ様の元へ導かれたのですから」


 意識を失っていたナズナが目覚めたのは、今から一刻(約二時間)以上も前のことだ。


 最初、ナズナは自分がどこにいるのか分からなかった。


 無理もない。


 アマミキヨの不思議な力で小池に落とされた後、気づいたときには幾つもの黒染みが見られた天井が視界に飛び込んできたのである。


 それだけではなかった。次に視界に映ったものを見てナズナは布団から跳ね起きた。


 カメである。半ば虚ろだった視界に大きく目を見開いたカメの顔がぬうと現れたのだ。


 盛大に跳ね起きたせいで互いの額を強く打ちつけてしまったカメとナズナは、しばらく自分の額を押さえながら苦痛が過ぎ去るのをじっと待った。


 どのぐらい刻が流れただろうか。


 ようやく額の痛みが和らいだとき、ナズナはカメに彼の地で起こった出来事をすべて話した。


 その後、事情を知ったカメはチッチビたち全員をオン(御獄)に集めた。


 身に纏う着物は新品同然の物を選び、普段は身につけさせない首飾りの持参も強要。


 他にも入念な沐浴を行うことも伝達した。


 そうして今に至っているのだが、チッチビたちの中にはオン(御獄)から逃げ出そうと考えている者が何人かいるらしい。


 ナズナは後ろを振り向かずに暗澹たる溜息をついた。


 マブイ(霊魂)の状態だったとはいえ、琉球国の創世神であるアマミキヨから面と向かって重大な役目を直に仰せつかったのだ。


 そのためだったのだろう。今のナズナには背中越しでもチッチビたちの心境を感じ取れるほどの不思議な力を得ていた。


 針のように鋭く研ぎ澄まされた緊張感が大気を伝って背中に突き刺さってくる。


(そうよね。チッチビでも怖いものは怖いわよね)


 以前、カメはセジ(霊力)を霧のようなものだと言っていた。


 気を緩ませているときは透明なのに、目を凝らせば凝らすほど霧が濃く見えるようになってくると。


 けれどもナズナが感じるようになったセジ(霊力)の心象は違った。


 オン(御獄)はおろか広大な敷地を誇っていたカメの家全体が、自分の体内であるかのように感じるのだ。


 両目を閉じていても隣にいるカメは無論のこと、後方にいた年上のチッチビたち一人一人がどういう気持ちで正座しているのか手に取るように分かった。


 それだけではない。


 遠くの音を聞き取るような感じで意識を集中させれば、オン(御獄)の中で密かに生きていた虫の数すらも正確に把握できた。


「ナズナ、本当に任せて大丈夫なのかい? 何だったら私が代わりにやるよ」


 クバの樹皮を移動している何匹かの虫のセジ(霊力)を感じ取ったとき、カメは歯をかち鳴らしながら顔を向けてきた。


 ナズナは小さく首を左右に振った。


「いえ、それには及びません。手順もすべて覚えましたし用具の準備も万全です。大丈夫、絶対に成功してみせますから」


 ナズナが左手で握っていた二つの小瓶をさらに強く握り締めたときだ。


 右のこめかみから左のこめかみへぴりっとした何かが通り過ぎた。


 チッチビたちの中から感じ取れた緊張や不安、畏怖や焦燥などの心情とは異種な感覚。


「ツカサ様、お迎えの用意を……門のほうから常在神様が来られました」


 直感よりも確かなものを感じ取ったナズナは、頭や肩に積もり始めていた白い粉を振るい落とす勢いで門のほうへ身体を向けた。


 一拍の間を空けた後、カメも門のほうへ身体の向きを変えた。


「常在神様がお成りになられたぞ! 全員、速やかに門の方角へ向くのだ!」


 カメが寒さを紛らわせるほどの声量で命を下すと、チッチビたちは正座したまま速やかに身体の向きを門のほうへ変えた。


 そして誰もが息を飲み込んだ瞬間、母屋の影から一人の女がオン(御獄)に現れた。


 根森村には美人と評判な女は何人もいたが、カメとナズナの元へ近寄っていく女は男たちの注目の的となっていた女たちを遥かに凌駕する美貌の持ち主だった。


 端正な顔立ちに決め細やかな肌。


 一片の無駄もない体躯なのは純白の着物の上からも十二分に見て取れ、歩く姿だけで同性さえも魅了するほどの荘厳な雰囲気を醸し出している。


 ただしチッチビたちの意識は自然と女の髪に吸い寄せられた。


 黒い部分が一切ない白髪なのだ。


 齢を重ねた末に銀色のようにも見えた年寄りの白髪とは少し違う。


 どちらかと言えば悲運な目に遭ったことで色が抜け落ちてしまったティンダの白髪を髣髴させた。

「お前たち、常在神様に対して頭が高いであろう!」


 カメに一喝されたチッチビたちは、すぐさま地面に額が触れるほど頭を下げる。


 やがて白髪の女こと常在神がカメとナズナの手前で立ち止まった。


「お初にお目にかかります、常在神様」


 チッチビたちと同様にカメは深く頭を垂れる。


「私は根森村のツカサを務めております、カメと申す者。そして、私の隣に座っている者の名はチッチビの一人であるナズナ。数刻前にニライカナイの住まわれているアマミキヨ様の元へ導かれた女でございます……これ、ナズナ。お前も頭を下げぬか」


 カメに背中を叩かれたナズナが慌てて頭を下げようとしたときだ。


「ナズナ……あなたがティンダさんの妹であるナズナさんですか?」


「どうして私の名前を?」


「トーガさんからあなたのことも聞いていました」


 常在神の声は耳が蕩けそうなほどの甘い声だった。


 こんな声を耳元で囁かれたら並みの男など一発で虜にできるだろう。


「そんなあなたがアマミキヨ様の元へ導かれたとは驚きです。何やら不思議な縁を感じてしまいますね」


 表情を曇らせた常在神は寒さを感じていないのだろう。


 ナズナやカメ、他のチッチビたちは呼吸をする度に白い息が漏れたのだが、常在神の口からは白い息が出ていない。


「ナズナさん、あなたがアマミキヨ様の元へ導かれたのならば此度の異変を鎮める方法を聞いたのですね?」


「はい、しっかりと聞きました」


「ならば私が言うことは何もありません。どうぞ始めてください」


 さすがは黒城島の繁栄を司っていた常在神であった。


 これから自分の身に起こることを知りながらも些細な動揺や焦燥が一分も見られない。


「その前に恐れながら常在神様にお尋ねしたいことがございます」


 カメや他のチッチビたちが見守る中、ナズナはかすかに震えていた口を開く。


「常在神様とトーガはどういった仲だったのですか?」


「どういった仲とは?」


 常在神が訊き返した直後、怒声を放ったのはカメであった。


「ナズナ、お前は何を言っているんだ。常在神様の仰られた通り、今は島の異変を静める儀式を行うのが先決だろう」


「すみません、ツカサ様。ですが、これは常在神様と対話できる状態のうちにどうしても訊いておきたかったのです。それに島の異変を鎮めるためには彼の到着も待たねばなりません」


 何かを言いかけたカメを無視してナズナは身を乗り出す。


「どうなのでしょう。私はアマミキヨ様の元で常在神様とトーガが仲睦ましく話している光景を見てしまいました。そこでは私は思ってしまったのです。常在神様とトーガはきっと……」


「安心してください」


 言葉を濁そうとしたとき、常在神は背筋を伸ばしたまま微笑を浮かべた。


「私とトーガさんの間に人間の男女が行うような肉体を使った交流は皆無でした。だから安心してトーガさんに結婚を申し出てください、ナズナさん」


「え……いや……あの……」


「あなたは好きなのでしょう、結婚を考えているほどトーガさんのことが」


 ナズナは返答に窮した。ここで頷いてしまっていいのだろうか。


「堅く口を閉ざしても心までは閉ざせません。あなたがトーガさんを誰よりも好いていることは分かります。いいえ、私には自然と分かってしまうのです。なぜなら、カンズミヤン(神に染まった病気)を発症させた人間がセジ(霊力)を得るように、人間の姿を保っている今の私にも本来あるべき力の幾つかが備わっているからです」


 常在神は微笑を崩さずに言葉を続けた。


「私は人間のみならず、黒城島に生きる動植物や自然石などから発する強いセジ(霊力)を肌で感じ取ることができます。たとえば暗闇に焚かれた一本の松明を頭に思い浮かべてください。その一本の松明が一人の人間から滲み出るセジ(霊力)とするならば、松明が密集している場所が人間たちの住む集落だと分かります。これが自然の場合だともっと分かりやすい。意識すれば遠くからでも沢の在り処などを探し当てることもできます」


 ナズナは思わず絶句した。


 話を聞く限りでは常在神とナズナが得た力は同質らしい。


 だが、ナズナと常在神とではセジ(霊力)を感じ取れる範囲が桁違いだった。


 カメの家の敷地内にいる動植物のセジ(霊力)を感じ取ることが限度だったナズナに対して、常在神がセジ(霊力)を感じ取れる規模は黒城島全体に及ぶというのだ。


「それだけではありません。私は意志を持つ動物のセジ(霊力)を狂わすこともできます。ただし、それを行えるのは私から短い距離にいる相手のみ」


「セジ(霊力)を狂わす?」


 聞き慣れない言葉にナズナは首を傾げた。


「そうです。どんな生物でもセジ(霊力)は持っているもの。ですが、常人にはセジ(霊力)を見ることは適いません。それでも唯一、セジ(霊力)を見て感じ取ることができるのはカンズミヤン(神に染まった病気)により現世の理から半歩外に踏み出した者たち。ナズナさんやツカサであるカメさん、私の後方に控えている人たちのことです」


 常在神はナズナとカメの顔を交互に見る。


「話が微妙に逸れてしまいましたね。つまり、私がその気になれば人間や動物などのセジ(霊力)を狂わし、しばらくの間だけ身体の不自由な状態にできるということです。あなたは寝ているときに身体が動かなくなったことはありませんか? まるで見えない縄で身体を巻かれたような錯覚に陥ったことは」


「あります。そんなに多くはありませんが」


「それと似たような状態を私は意図的に行うことができる。他にもセジ(霊力)の度合いにより相手の心情を理解することもできます。あなたがトーガさんの名前を出したとき、心に点っていた松明が突風に煽られたように揺らいだことも分かりました」


 寒さで青白くなっていたナズナの顔が薄っすらと紅潮した。


「トーガさんは幸せ者ですね。あなたのような人に心から想われている」


 ですが、と途端に常在神は真剣な面持ちを浮かべた。


「その想いも言葉に乗せて伝えないことには叶いませんよ。トーガさんの鈍さはよく分かっているでしょう。あのような人には言葉よりも行動で示さなくては女のほうが振り回される一方です」


「常在神様……もしかして、あなたはトーガのことを」


 そこまで言いかけたときだ。


 ナズナと常在神は同じ方向に顔を向けた。


 すでにオン(御獄)の地面は白色の畳が敷かれたようになっている。


 クバの樹上や香炉の上にも白い粉が重なり、あまりの寒さに気を失うチッチビたちが出始めた。


 それでもナズナの視線と意識は門のほうへ向けられていた。


 当然である。


 門のほうから一人の男が現れたからだ。


 顔や両腕は痣だらけという燦々たる有様であり、遠くからでも口元に血や吐瀉物のようなものが見受けられた。


 まるで急斜面から転げ落ちた後のようだ。


 いや、急斜面から転げ落ちてもあのような酷い怪我は負わないだろう。


「よかった……まだ無事だった……ようだな」


 男子禁制であったオン(御獄)に堂々と現れた男は、荒く呼吸を繰り返しながらも口の端を吊り上げて見せた。

 

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