秘拳の四十二 決着
「俺の〈手〉で目を覚まさせてやる!」
腰の捻転と自重を乗せた冲捶(中段突き)だ。
(まともに食らうな。強力な突きは止めずに受け流せ!)
トーガはティンダの冲捶(中段突き)を左手の掌底で外側に受け流し、逆にティンダの顔へ十分な余力を持たせていた右手の正拳突きを繰り出した。
腰の捻転に手首の捻りを加えた正拳突きが吸い込まれるように飛んでいく。
しかし、ティンダも〈手〉を鍛錬してきたティーチカヤー(手の使い手)である。
正拳突きが鼻先に触れるか否かの刹那、ティンダは首を捻って直撃を難なく回避した。
(ならば、これならどうだ!)
渾身の正拳突きを避けられたトーガは、悔しがるどころか正拳突きに使用した拳を瞬時に刀の形に変化させて追撃を放つ。
手刀打ちである。
狙った場所は同じく顔。ただし今度は鼻先ではなくこめかみに手刀を走らせた。
意見の不一致を招いたものの、ティンダが親友であるという事実は変わらない。
そこでトーガは一撃で勝敗が決まる頭部を集中的に狙ったのだ。
だが、トーガの放った手刀打ちは虚しく空を切った。
正拳突きを回避されたときと同じだ。
ティンダは攻撃を受け流すのではなく、完全に見切った末に腰を深く落としたことで手刀打ちをやり過ごしたのだ。
それでもトーガは心に点した闘志という名の炎を消さなかった。
トーガは体勢を崩さずに数歩分だけ後退すると、流れるような動きでティンダの腹へ蹴りを繰り出す。中足での前蹴りだ。
「遅い」
ティンダはトーガの前蹴りを真横に跳んだことで直撃を躱した。
「相手の攻撃は素手だろうと等しく武器と思え。それが劉老師の口癖だ」
前蹴りを回避されたことでトーガは体勢を大きく崩し、一方のティンダはその一瞬の隙を見逃さなかった。
瞬きする間もなくトーガの懐に踏み込んでくる。
またしても冲捶(中段突き)か? などと思ったトーガの予感は呆気なく外れた。
蹴りである。ティンダは無防備だったトーガの腹へ前蹴りを放ったのだ。
ティンダの前蹴りがトーガの腹にめり込む。
「ぐうっ!」
一拍の間を置いた後、トーガは両膝から地面に崩れ落ちた。
前蹴りを受けた場所を両手で押さえながら悶絶する。
まるで鋭利な枝で突き刺されたような痛みが込み上げてきた。
トーガは堪えらきれずに胃袋の中に収まっていたものをすべて吐き出す。
「痛むか? トーガ。これでも手加減したんだぞ」
腹を蹴られたのに背中も痛むという不思議な感覚に襲われている最中、落ち着き払ったティンダの声だけがはっきりと聞こえた。
「それにしてもお前の突きは相当なものだな」
歯を食い縛りながら何とか顔を上げると、トーガの視界にはわずかに血が滲んでいた自分の右頬を摩っているティンダが見えた。
「完全に避けられると思った俺が間違いだった。さすがに十二年も鍛錬を積み重ねてきただけのことはある……が、それでもお前は俺に勝てない」
見ろとばかりにティンダは右足をトーガの眼前にちらつかせた。
「この足指がその証だ。お前が拳を鍛えに鍛え抜いたように、俺もこの足指を作り上げるために爪先を鍛えに鍛え抜いた。腕よりも足のほうが長くて力も強い。使いこなせれば武器と同等な威力を身につけられるという劉老師の教えを信じてな」
トーガは瞬きすることを忘れるほど瞠目した。
ティンダの足先が〝拳〟を作っていたのだ。
人差し指は重要な役目を担う親指を支え、他の指は隙間を作らないようにしっかりと固められている。
爪先蹴り。
父親であり〈手〉の師でもあったクダンから聞いてはいたが、実際に爪先を鍛錬する者が八重山にいようとは夢にも思わなかった。
素手素足で敵と闘うと想定した場合、より速く相手に触れる部位を鍛えようと考えるのは必然である。
拳よりも指先、中足よりも爪先のほうが相手に速く届く。
では、トーガがそのような鍛錬をクダンから受けたかと言えば否であった。
なぜなら、あまりにも危険すぎるからだ。
相手ではない。鍛錬する自分自身がである。
指先や爪先には人体に重要な血管や経絡が集中しており、そこに刺激を与えると部位そのものだけでなく臓腑も痛めてしまう。
それでもさらに刺激を与え続けると、最悪の場合には目から涙とは違う水が出てきて失明する危険もあると聞いた。
それゆえにクダンは指先や爪先の鍛錬を行うのは是としなかったのだ。
また指先や爪先を鍛えるためには何種類と薬草を合わせた特別な膏薬が必要であり、その薬草の調合法を久米村で医術を教わっていた明国人から教わる前に島流しにされてしまったため、クダンは仕方なく指先や爪先の鍛錬を行うことを断念したらしい。
だがティンダは違う。
爪先を八年間も休まずに鍛えられたということは、ティンダに明国の〈手〉を教えた劉老師は特別な膏薬を作る知識を持ったティーチカヤー(手の使い手)だったのだろう。
ティンダは静かに右足を大地に下ろした。
「俺との力量の差が分かったのなら、そのまま動かずに身体を休めていろ。俺はお前の代わりにあの女がどういう顛末を辿るのか見定めてやる。本当はお前の無事を確認できただけで十分なんだが、親友のお前に一蹴りでも与えた償いがしたいからな」
トーガは白酒とは違って旨みが微塵も含まれていない胃液を地面に吐き捨てた。
「償いなどいらん。いや、少しでも償いの気持ちがあるのなら俺の頼みを聞いてくれ」
「頼みとはお前を見過ごせと言うことか?」
トーガは身体を揺らしながら立ち上がると、血と吐瀉物が付着していた口元を拭った。
「なぜだ、トーガ。なぜ、そこまでお前はあんな女のために身体を張れる? しょせんは家族でもなければ惚れた女でもない赤の他人だろうが!」
「そうさ。しょせんユキは血の繋がりも肉体の繋がりもない赤の他人だ」
不意にトーガは空を見上げた。気が滅入るほど空は暗く濁り、先ほどよりも一層に空気は冷たさを増している。
「それでも俺はユキを助けに行く。血縁だろうと他人だろうと関係ない。俺自身が助けると心に決めたからだ。ティンダ、お前もそうだと言ってくれたじゃないか。俺がゲンシャたちに襲われたのなら報復していたと。なぜだ? 俺とお前は血の繋がりもない他人なのに」
「決まっている。お前は俺の親友だからだ」
「親友とはいえ他人には違いないだろう?」
「それとこれとは」
違う、と続けようとしたティンダの言葉をトーガは遮った。
「何も違わないさ。誰かを助けるという行為は、理屈でもなければ損得でするようなことじゃない。他ならぬ自分自身が決めることだ」
ティンダは溜息混じりに口を開いた。
「トーガ、お前はどうしてあの女にユキという仮名を与えた? ユキなんて八重山でも聞かない珍しい名だ。何か特別な意味でもあるのか?」
「ユキ?」
陽光と青空を遮っている暗色の雲を見上げていたトーガは、根森村に生れ落ちて一度も味わったことのなかった肌寒さに身体を震わせた。
「ああ、特別な名だ……ほら、その〝ユキ〟が降ってきた」
ティンダが空を仰いだと同時に、陰鬱な曇り空からひらりと白い粉が落ちてきた。
一つではない。雨よりも遅く乾いた風に運ばれる花びらのように無数と落ちてくる。
雪である。
八重山はおろか琉球全土にも降らないはずの雪が天から降ってきたのだ。
「まさに母さんから聞いていた通りの美しさだ」
トーガが年端も行かぬ童子だった頃、ユキエは幾度も故郷の話をしてくれた。
山にも海にも恵まれた自然豊かな越前国のことをである。中でもトーガの心を虜にしたのは冬の時期になると天から降ってくる雪の話だった。
緑一色だった周囲の光景を一夜にして白色に染めてしまい、薄着や火を絶やせば簡単に寒さで死んでしまうという恐ろしくも美しい雪。
これだけ聞けば雪とは嵐や津波にも勝るとも劣らない天災だと思ってしまう。
ただ話によれば雪は雨とは違って形に残り、晴れた日に残っている雪で遊ぶことは本当に楽しかったという。
ティンダやナズナなど後に気を許せる者たちと知り合う前に聞いた話だ。
それゆえになおさらトーガは雪という存在に憧れた。美しさとは別に雪の恐ろしさも骨の髄まで知っていたユキエは、そんなにいいものではないと苦笑していたが童子だったトーガには寝耳に水だったのは言うまでもない。
やがて琉球に雪は降らないという事実を知ったとき、トーガは夜を徹して泣き明かした。
雨とは違って翌日にも残るという雪で色々な遊びを考えていたからだ。
「お前は何を暢気に構えているんだ!」
童子の頃の懐かしい記憶を掻き消したのは、ティンダの叫声である。
「天から冷たい白い粉が降ってきたんだぞ。こんなことは今までに一度もなかった」
ティンダは雪に対して明らかに狼狽していた。とめどなく降ってくる雪をまるで羽虫でも追い払うかのように両手を動かす。
一方、トーガは初めて見た雪にも心を乱さなかった。
むしろ母親と過ごした懐かしい日々を思い出させてくれたことと、怪我で高まっていた熱を徐々に冷やしてくれた雪に感謝の念を送ったほどだ。
それだけではない。
ゲンシャ以上の強敵であるティンダの気をわずかでも空に逸らしてくれたことがトーガへの追い風となった。
最後の気力を振り絞り、トーガは勢いよく地面を蹴った。
偏頭痛もあった。眩暈もあった。
腹に鈍痛も残っていた。
にもかかわらず、このときばかりのトーガは自分の肉体を気遣う余裕をすべて捨て去って間合いを詰めたのだ。
ふと我に返ったティンダは即座に爪先蹴りの体勢を取ったが、すでに二人の距離は互いの手が届くまで詰まっていた。
この間合いでは初動が遅い蹴りを放つには近すぎる。
爪先蹴りを繰り出す前に懐に飛び込んだトーガは、ティンダの顔に正拳突きを放った。
しかし、そこは明国の〈手〉を身につけていたティンダである。
咄嗟に両腕を眼前で交差させてトーガの正拳突きをがっちりと受け止めたのだ。
(くそっ、最後の勝機だったのに)
拳頭の部位を通じて左腕の骨にヒビを入れた感触は伝わってきたものの、負傷の度合いを比べてもトーガが圧倒的に不利なのは火を見るよりも明らかだった。
現にティンダは痛みを堪え、無傷だった右手で躊躇なく反撃してきた。
顔に狙いを定めた冲捶(中段突き)である。
(この拳を食らったら終わりだな)
そんなことを考えたときだ。
トーガの脳裏に数刻前に交わしたユキとの会話が浮かんできた。
――何だか手の形が刃物というよりは獣の爪に変わりました
――だろう? 先刻の手刀の形はいかにも相手を切りつけるような印象を与えるが、この手刀の形に込められた意味は違う。
これは相手の攻撃を受け流した後、その攻撃してきた腕をすぐに掴むという裏の意味が込められているんだ
――相手の腕を掴む?
――想像してみろ。君が誰かに腕を掴まれたらどうする?
――掴まれた腕から逃れようとすると思います
――当然だな。しかし、その掴まれた腕から逃れようとすればするほど隙が生じる。そこを俺たちティーチカヤー(手の使い手)は見逃さない
ユキとの会話を思い出している中、ティンダの冲捶(中段突き)が徐々に迫ってくる。
だが、どうも様子がおかしい。
トーガにはティンダの冲捶(中段突き)が遅く見えた。欠伸が出るほど限りなく遅く。
――構えたときに前方に突き出した手は受けと掴みに念頭を置き、相手の意思から外れている逆の手を攻撃として使用する。
父さんはこれを〈隠し手〉と言っていた。
――相手の目から隠されている手を使用するので〈隠し手〉と呼ぶのでしょうか?
――多分な。父さんは基本技や〈手〉に必要な身体の使い方は念入りに教えてくれたが、〈隠し手〉のような様々な応用に利く技は最後の最後まで教えてくれなかった。何度となく教えを請うたのだけれど、そこから先は自分で考えろの一点張りだったよ
〈隠し手〉。
前方に突き出した手で攻撃を捌き、腰に引いていた逆の手で反撃する必殺の一手。
(今の今まで忘れていた。そうだ、俺にはまだ隠し手が……)
トーガはティンダが放った冲捶(中段突き)を〝獣の爪を想起させる手刀〟で受け流し、続いてティンダが着用していた着物の袖を掴んで一気に引き寄せた。
すると当然の如くティンダは抵抗した。力任せにトーガの手を振り解こうとしたのだ。
トーガは目を輝かせ、ティンダに生じた一瞬の隙をついた。
腰に引いていたトーガの左手が宙を疾る。
半円の軌道を描いた掌底打ちが真横からティンダの顎を正確に打ち抜いた。
かつてトーガはクダンに掌底打ちにより顎を叩かれて昏倒したことがある。
そのとき、トーガは身を持って知ったのだ。
ティーチカヤー(手の使い手)の掌底打ちで真横から顎を打ち抜かれると意識が絶たれてしまうということを。
直後、顎を殴打されたティンダは白目を剥いて崩れ落ちた。
「ティンダ」
トーガは前のめりに倒れたティンダの身体を受け止める。
「許してくれとは言わない。俺を見限ってくれても構わん。それでも俺はユキを助けに行く。行かなければならない。そう俺の心が告げているんだ」
トーガはティンダの懐に仕舞われていたミンサー(帯)を取り出した。
ナズナが織ったという藍色と白色の二本線が刺繍されていた見事な出来栄えのミンサー(帯)だ。
そんな貴重なミンサー(帯)をトーガは受け取らず、ティンダの左腕にしっかりと巻きつけた。
本当ならばきちんと接骨治療を施したかったが、残念ながら今のトーガにはティンダの治療を行う猶予は残されていない。
「悪いな、ティンダ。今の俺にこのミンサー(帯)を受け取ることはできない」
そう呟いた直後、トーガは強い眩暈に意識を失いそうになった。
(ユキ……俺が行くまで無事にいろよ)
意識を失いそうになった原因は眩暈だけではなかった。
いつの間にか吐く息が白くなっている。
身を震わせるほどの寒さは一段と厳しくなり、風に乗って揺れ落ちてくる雪が少しずつ周囲の光景を白色に染めていく。
トーガはたどたどしい足取りで目的の場所へ向かった。
カメの家の裏手に設けられていたオン(御獄)の場所へと。
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