秘拳の四十一 激突

 ティーチカヤー(手の使い手)。


 間違いなくティンダの口からそう聞こえた。


「お前も俺と同じティーチカヤー(手の使い手)だって? 冗談はよせ、ティンダ」


「冗談でこんなことが言えるか。だがティーチカヤー(手の使い手)が主に本島にいることは知っている。だからこそ俺がティーチカヤー(手の使い手)だと信じられないんだろ? 本島ではなく八重山に住んでいる俺が〈手〉を使えることに」


 トーガは無言だったが心中では肯定していた。


 ゲンシャでさえ〈手〉が本島の人間たちに伝わっている秘術だと知っていた。


 ならばティンダも仕事の際に他の島々へ出掛けたとき、誰かに〈手〉のことを聞いた可能性も十二分に考えられる。


 だとしてもすぐに使えるほど〈手〉は甘くない。


 〈手〉は角力(相撲)よりも術理が多分に含まれた秘術なのだ。


 また〈手〉を一人前に使えるようになるまでは最低でも三年の月日が必要だった。


 呆気に取られていたトーガにティンダは深く息を漏らす。


「トーガ、お前はクダンさんから〈手〉を学んだのか?」


「ああ、俺は父さんから〈手〉を学んだ。十二年ほど前にな」


「十二年とは長いな」


 ティンダは手刀の形から正拳の形に変化させた。


「俺が師匠から〈手〉を学んだのは八年前だ。住んでいる島が違うので毎日の鍛錬を見て貰うことは無理だったが、師匠の元を訪れた際には必ず泊り込んで鍛錬に励んだよ」


 トーガは眉間に激しく皴を寄せた。


「ティンダ、お前は一体誰から〈手〉を学んだ? 百年前にアカハチの反乱を鎮めてからは本島から王府の役人が派遣されてきた。だが、八重山に派遣された役人たちが見ず知らずの童子に〈手〉の手解きをするなど考えられない」


 トーガの言ったことは真実だった。


 八重山が琉球王府に組み込まれてから約百年。


 竹富島に蔵元と呼ばれる行政所が作られ、与人や目差などの下級役人が各村々を統治するようになった。


 しかし、本島から派遣された役人にとって宮古島や八重山は流刑地と同じだ。


 根森村にも何人かの役人たちが住む予定だったが、役人たちは早々に石垣島へ移り住んでしまった。


 王府から派遣された役人たちがゲンシャたち以上の無頼漢だったため、島人からの苦情に困ったカメは役人たちに他の島へ移り住んで貰おうと多額の金銭を与えたからだ。


 異国の文化を取り入れて著しく発展していた本島に比べれば、八重山は自然しかない辺鄙な土地と役人たちには見えたのだろう。


 童子の頃に一度だけ役人の姿を見たとき、明らかに不満な表情を浮かべていた様子は今でもよく覚えている。


 ましてや、八年前といえば自分たちが十歳のときだ。


 八重山に不平不満を募らせていた役人たちが、自分の子でもない八重山の童子に〈手〉を教えるはずがなかった。


「俺に〈手〉を教えてくれたのは本島の役人じゃない。それどころか琉球人ですらない」


(琉球人じゃないということは異国の人間か?)


 異国の人間と考えてユキエのことを真っ先に思い出したものの、トーガはすぐに胸中で頭を振った。


 八重山に大和人がいなかった以前に大和には〈手〉という秘術そのものがないはずだ。


「まだ分からないか? 数日前のモーアシビ(毛遊び)に飲ませてやっただろう?」


 次の瞬間、トーガは喉が焼けつくほど強かった〝明国の白酒〟の味を思い出した。


「お前が〈手〉を学んだ相手は石垣島に住んでいる劉老師か!」


「ダールヨー(当たりだ)」


 続いてティンダは腰を深く落とすなり、今ほど枝を切り捨てた樹木に向かって突きを繰り出した。


 拳を縦にしたまま放つ冲捶(中段突き)である。


 ティンダの拳が樹木に食い込んだ直後、強震に見舞われたように樹木が揺れた。


 樹上からは何十枚という葉が舞い落ちてくる。


「これは誰にも話すつもりはなかった。俺が石垣島に住む劉老師から明国語ではなく、明国の〈手〉を学んでいることはな」


 ティンダは訥々と語り始めた。


「俺が白髪になった理由は知っているな。八年前、親父に付き添って宮古島へ行く途中に俺たちの乗っていた船が海賊に襲われた。目の前で大勢の人間が殺されていく様は本当に地獄だったよ。特に親父が殺されたことが俺の心を抉りに抉った。お陰で俺の髪の色はこんな風になっちまった」


 苦笑しつつティンダは白色である自分の髪を掻き毟った。


「それでも俺はあんな惨劇の場にいながら命は助かった。なぜだと思う?」


 トーガは無言を貫いた。まったく答えが浮かばなかったからだ。


「劉老師だよ。石垣島から通事役として同行していた劉老師に助けられたのさ」


 ティンダの告白を聞いてトーガは八年前の記憶を蘇らせた。


 宮古島に向かった船が海賊に襲われたと聞いた数日後、ティンダを含めた四人だけが命からがら助かったと噂で聞いた。


 そして、その内の一人は明国人だとも聞いていた。


「あのときの劉老師は凄まじかった。武器を持った大勢の相手に勇敢にも素手で立ち向かったんだからな。しかし何とか海賊たちを撃退したものの、左手を剣で斬られた劉老師は二度と左手が使えない不自由な身体になった」


 ティンダは身体を震わせながら拳を樹木から引き抜いた。


「ただ助けられた後の俺は劉老師のことを気遣う余裕がなく、親父の死を受け入れず塞ぎ込む日々を送った。けれど、ある日になって思ったんだ。俺が悲しみに暮れれば暮れるほど、俺を庇って死んだ親父が安心してニライカナイに逝けないんじゃないかってな」


 ティンダは拳を固く握り締めた。


「そうして俺は強くなりたいと願った。もう一度同じ惨劇に遭ったとしても、誰一人の犠牲も出さぬぐらい強くなりたいとな」


「だからお前は恩人である劉老師に明国の〈手〉を学ぼうと決意したのか?」


「そうだ。親父の死を受け入れ、自分の歩むべき道を見出した俺は石垣島に向かった。そこで劉老師に改めて感謝の言葉を送った際に〈手〉の教えを請うたんだ。すると劉老師は二つ返事で了承してくれたよ。身体が不自由になった今だからこそ、誰かに自分の技を伝えたいと思うようになったとな」


 不意にティンダの身体から発せられていた雰囲気が一変した。


「それから八年。俺は来る日も来る日も家族に隠れて〈手〉の鍛錬に打ち込んだ。自分のためじゃない。俺の大事な家族が理不尽な暴力に巻き込まれようとしたとき、いつでもこの身体を張って守れるような強さを得たいと己に言い聞かせながらだ」


 ティンダが纏っていた緋色地の着物の裾から覗く両腕には無数の血管が浮かび、冷気を孕んだ微風により揺れていた白髪が体内から放出された闘気により揺れ始めたかのような錯覚を見せる。


「お前も例外じゃなかったぞ、トーガ。俺は親友であるお前を守るためなら〈手〉の技を振るうことも厭わないと覚悟していた。今回のこともそうだ。もしもお前がゲンシャたちに襲われたのなら、俺は問答無用でゲンシャたちに報復していただろう」


 それがどうだ、とティンダは枝で休んでいた鳥たちを一斉に羽ばたかせるほどの怒声を上げた。


「お前は未だにあんな得体の知れない女の肩を持っている。まったく持って理解できん。あの女は俺たちの生まれ育った黒城島に災いをもたらした女だぞ」


「違う。ユキがお前たちの前に姿を現して自分が災いをもたらした主だと言ったのも、きっと俺を男衆たちから助けるための方便なんだ」


「ユキ、ユキ、ユキ、と……お前はそんなにあの女が大事なのか? たった数日の付き合いしかない素性も分からぬ女のことが」


 苦虫を噛み潰したような顔を浮かべるなり、ティンダは懐から一本のミンサー(帯)を取り出した。


 老若男女が腰に巻いている無地のミンサー(帯)ではない。


 黒地に藍色と白色の二本線が入った細部まで美しく編み込まれたミンサー(帯)であった。


「これが何か分かるか? ただのミンサー(帯)じゃない。ナズナがお前のためにと織ったミンサー(帯)だ。仕事の合間にこつこつと織り上げたミンサー(帯)だ!」


 トーガは口を開かなかった。それでもティンダは声を途切れさせない。


「ナズナは今日の夜に開かれるはずだったモーアシビ(毛遊び)で、このミンサー(帯)をお前に渡すはずだった。鈍いお前でも知っているだろう。年頃の女が誰の手も借りずに文様や線などの刺繍を入れて織ったミンサー(帯)を男に渡す意味を」


 だが、とティンダは両目を鋭く吊り上げた。


「よりにもよってお前は素性も知れない女に心を奪われた。


 これではあまりにもナズナが可哀想じゃないか」


 ティンダはミンサー(帯)を懐に仕舞うと、自分が学んだ〈手〉の構えを取った。


 右足を一歩分だけ前に突き出すなり、踵を浮かして爪先だけを地面につける。開手にした右手は顔の手前に置き、同じく開手にした左手は人体の急所である鳩尾の手前で固定した。


「ナズナがそこまで俺を想っていてくれたことは心の底から嬉しい」


 そう言い終えた直後、トーガもクダンから学んだ〈手〉の構えを取った。


 両足を素早く猫足立ちにすると、開手にした左手は顔を防御するように固定。


 右手は手の甲が下を向くように握り締めて脇の位置に引く。


 それだけではない。


 トーガは鼻から吸い込んだ息をゆっくりと口から吐き出し、練り上げた精気を全身の隅々まで行き渡らせる。


「ただ、悪いが今はユキのことしか頭にない。


 ユキは数日の付き合いしかない俺のために命を張ってくれたんだ。


 ならば俺もユキを助けるために命を張るまで。


 だから俺をこのまま行かせてくれ、ティンダ。


 親友のお前にまで〈手〉の技を振るいたくはない」


「それはこちらとて同じだ。もう、あんな女に肩入れするのは止めろ。お前がカメバァたちの前であの女を助ければ、今度こそお前には本格的な追っ手がかかる」


 ティンダは摺り足のまま徐々に間合いを詰めてくる。


 二人が立っていた道は決して平らではない。


 そんな道を摺り足で移動できるなど相当な鍛錬を積み重ねてきた証だ。


「覚悟の上だ。このまま黙ってユキを見殺しにするよりはいい」


 ティンダは二間(約三・六メートル)先で摺り足を止めた。


「やはり、あの女はマジムン(魔物)だったようだな。トーガ、今のお前は気を狂わせられているんだ。さもなければ親友の俺に弓を引くような真似をするはずがない」


「誤解するな、ティンダ。お前が大人しく引いてくれれば俺は何もしない」


 いつの間にか蝉の鳴き声が鳴り止み、先ほどよりも肌寒い冷気が吹き荒ぶ。


「どうやら、これ以上の話し合いは無駄のようだな」


 互いに視線を交錯させた二人は、声を聞かずとも相手の心中を察した。


 もはや自分の意を貫き通すには闘う以外にない、と。


「トーガ、お前は一番の親友だ。たとえマジムン(魔物)に気を狂わせられていようともそれは変わらない。だから――」


 突如、ティンダは地面を滑るような歩法から腹部目掛けて疾風の如き拳を放ってきた。

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