秘拳の四十  ティンダの正体

「なるほど、それなら本当にマジムン(魔物)じゃないのかもな」


 しかし、とティンダは険しい表情を浮かべた。


「それだと違う疑問が湧いてくる。あの白髪の女はどこで生まれ育った? お前も重々承知しているだろうが、黒城島は四方を海で囲まれた孤島だ。仮に他の島々から白髪の女が混じった移住者が来れば嫌でも分かる」


 次の瞬間、ティンダはトーガの襟首を掴んで引き寄せた。


 互いの吐息がかかるほど二人の顔が接近する。


「今度は俺が問う番だ。トーガ、あの白髪の女とはいつどこでどのような経緯で出会った? 正直に答えろ」


「それは……」


「親友の俺にも言えないのか? それとも言わないよう口止めでもされているのか?」


 トーガは沈痛な面持ちで口ごもった。


 ユキに口止めされていたからではない。


 数日前に凶暴な猪と平地で闘った後、大木の樹上から白髪の女が落ちてきたなど誰が信じてくれる。


 万一、自分がティンダにそのような話を聞いたとしたら夢でも見たのかと笑い飛ばしただろう。


「口止めなどとんでもないことだ。出会った経緯は話せないが、ユキはそのような真似をする女じゃない。ましてやユキは自分の生い立ちすら分からぬほど記憶を失っているんだ」


「記憶を失っている?」


「そうだ。生い立ちだけじゃない。ユキは自分の名前も分からないと言ったんだ。だから俺は家に連れ帰り、ユキという仮名を与えて様子を見た。なぜだか分かるか?」


 眉間に激しく皴を寄せたティンダにトーガは言葉を紡いだ。


「生い立ちも分からない。名前も思い出せない。それに年若くして白髪の持ち主だ。そんな女がのこのこと集落に顔を出してみろ。マジムン(魔物)の類と思われるのは必至」


 トーガは自分の襟首を掴んでいるティンダの右手を強く離した。


「お前なら分かってくれるだろ? 根森村では余所者や変わり者は罵りの対象になる。だから俺はユキが記憶を取り戻すまで匿おうと決めたんだ。俺は余所者がどのような羽目に遭うか身を持って知っていたから特にな」


 話を聞き終えたティンダは深々と溜息を吐いた。


「それで? いつから匿っていた?」


「四、五日前ぐらいからだ」


「つまりはモーアシビ(毛遊び)の時点ですでに匿っていたということか」


「すまん。今さらながらに後悔している。あのとき、お前に相談していればよかったと」


「本当にそうだ。あのとき相談してくれれば今回のような騒動にはならなかっただろう。少なくともお前が罪人となることは避けられたはずだ」


(俺が罪人になることは避けられた?)


 トーガはティンダが何を言っているのか理解できなかった。


 まるで事前にユキのことを知っていたらさっさと捕まえていたと聞こえたからだ。


 なのでトーガは事情を詳しく追求した。


「待ってくれ、ティンダ。俺だけが罪人にならなかったとはどういうことだ?」


「そのままの言葉通りさ。モーアシビ(毛遊び)のときにお前が白髪の女を匿っていると教えてくれていたら事が大袈裟になることは事前に防げた。さっさとお前の家に行って白髪の女だけを捕まえればよかったんだからな」


 トーガは頭部を木槌で殴られたような衝撃を受けた。


 一方、ティンダは険しい表情から一変してはにかんだ微笑を浮かべる。


「けれど結果が上手く運べば最初の愚行など帳消しにできる。あの白髪の女が自ら自分の罪を認めている以上、もうお前に追っ手がかかることはない。それだけは安心していいぞ」


 ティンダは唖然としたトーガの肩に手を置いた。


「さあ、分かったら早く怪我の手当てを行おう。まったく、お前がゲンシャたちと闘ったと聞いたときは驚いたぞ。よほど上手く奇襲をかけたんだな。でなければお前一人でゲンシャたちに敵うはずがない」


 ティンダは「取り敢えず俺の家に来るか?」と誘ったが、心中に強大な嵐が吹き荒れていたトーガは「行けるわけないだろ!」と空気を鳴動させるほどの怒声を上げた。


「ユキが危ういときに怪我の手当てなどしてられるか。ティンダ、お前は俺の話を聞いても何とも思わないのか? 罪もない一人の女が殺されるかもしれないんだぞ」


「何をそんなに焦っているんだ? 白髪の女は自分から罪を認めて姿を現したんだ。ならば後は祭祀を司るカメバァやチッチビたちに任せるしかない」


「だからツカサ様にユキの処遇を任されれば一大事だと言っているんだ。最悪の場合、ユキは異変を鎮めるための人柱にされてしまうかもしれん」


「おそらくそうなるだろうな。あの白髪の女のせいで黒城島が被害を被っているんだとしたら責任は取って貰わなくてはならん」


 駄目だ、とトーガは胸中で苦々しく呟いた。


 ティンダはユキが黒城島に異変を起こした人物だと本気で信じきっている。


 先ほど言った「マジムン(魔物)じゃないかもな」という言葉も本心ではなかったのだろう。


(これではとても助けに応じてくれる見込みはないな)


 当初の予定であったティンダに助力を請うということが不可能だと悟ったトーガは、それならばと肩に置かれていたティンダの手を払い除けて歩き始めた。


「おい、どこへ行くつもりだ?」


 ティンダの隣を通り過ぎたとき、後方から肩に指の先が肉に浅く食い込むほど強く掴まれた。


「俺は今からオン(御獄)へ向かう。ユキを人柱になどさせん!」


「フラー(馬鹿)、オン(御獄)は男子禁制の聖域だぞ!」


 肩を掴まれていた指先の力が俄然強くなった。


 さすがは常日頃から角力(相撲)の鍛錬を積み重ねている男衆の一人だ。


 明らかに握力が常人の域を超えている。


「オン(御獄)が男子禁制の聖域だということは知っているさ」


 それでも、とトーガは瞬時に身体を反転させた。


「俺はユキを助けに行きたいんだ!」


 トーガは右拳を腰だめに引くと、ティンダの腹部目掛けて突きを放った。


 腰の捻転と手首に捻りを加えた正拳突きがティンダの腹部に命中する。


 ティンダの身体は後ろから縄で引かれたように吹っ飛び、腐葉土の地面に背中から倒れ落ちた。


「悪いな、ティンダ。俺の最初で最後の我がままを通させてくれ」


 仰向けに倒れているティンダにトーガは深々と頭を下げたときである。


「トーガ、今の突きは誰に習った?」


 むくりとティンダが上半身を起こしたのだ。


 トーガは瞬きを忘れて瞠目した。


 手加減したとはいえ、大木を叩いて鍛えた正拳突きを食らって無傷ですむなどあり得ない。


 それこそ、しばらくは悶絶するほどの負傷を与えたはずだ。


「解せないという顔だな」


 ティンダは片膝に手を添えて立ち上がった。


 言葉遣いも正常。苦悶の表情も見られない。


 まさか、ティンダは正拳突きが効かない特異な肉体の持ち主とでも言うのだろうか。


「簡単なことだ。突きを食らう寸前、地面を蹴って後方に飛んだんだよ。その分、突きの威力を軽減することができたというわけさ」


 さらっと答えたティンダだったが、突きを放ったトーガは背筋に冷たいものを感じた。


 手を伸ばせば相手の身体に触れる間でありながら、なおかつ不意打ちで放ったティーチカヤー(手の使い手)の突きをそのような奇特な技で避けるなど常人には絶対に不可能だ。


「まあ、それでも本気で打たれていたら危うかったけどな。それにしても冲捶(中段突き)に手首の捻りを加えるとは珍しい。手首の捻りを加えた分だけ衝撃を通せられるというわけか」


 ティンダは正拳突きを受けた腹を摩りながら二の句を繋げた。


「なるほど、ならばお前がゲンシャたちを倒したという話にも得心がいく。お前は奇襲を仕掛けてゲンシャたちを倒したんじゃない。この〈手〉の技で堂々と倒して退けたのか」


 そのとき、ティンダに抱いた疑念が確信に変わった。


「ティンダ、まさかお前は……」


 小さく頷いたティンダは、近くに生えていた樹木の枝を一薙ぎで切り捨てて見せた。


 親指だけを折り曲げ、残りの四本の指を重なるように突き立てた手刀打ちで。


「俺はティーチカヤー(手の使い手)だ」

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