秘拳の三十九 真実
トーガを浅い眠りから目覚めさせたのは、身を震わすほどの冷気であった。
思わず自分を抱き締めるような仕草を取ったものの、それは一瞬のことでトーガは何度も瞬きを繰り返して虚ろだった意識を覚醒させる。
すると河原でゲンシャたちと死闘を演じたときの記憶がまざまざと蘇ってきた。
しかし、ここが河原でないことは一目瞭然。軽く周囲を見渡してみたが、河原はおろか清水が流れていた沢すらも見つけることはできなかった。
(一体ここはどこなんだ?)
前方に広がっている鬱蒼とした樹林を見据えながら、トーガは自問自答する。
だが、答えを見つけるよりも早くトーガの意識は口内に集中した。
トーガは右手の掌に口内に溜まっていた〝何か〟を吐き出す。
〝何か〟の正体は泥状になった植物の茎らしきものであり、続いてトーガは腹部に一本だけ置かれていた植物の蔓を見つけた。
(これはクービの茎か?)
間違いなくクービである。
若葉には褐色の毛が生えており、広がるように咲いていた四枚の白い花はクービの特徴であった。
「どうしてクービの茎が俺の口の中に――」
と、首を傾げながら言いかけたときだ。
(ユキが俺のためにクービの茎を飲ませてくれたのか?)
そうとしか他に考えられなかった。
河原でゲンシャや取り巻き連中を倒した後の記憶がないにもかかわらず、こんなどこか分からない場所にいるのが何よりの証拠だ。
女の身でありながらユキがここまで自分を運んでくれたに違いない。
ならば泥状になったクービの茎が口内に残されていたことにも納得できた。
トーガはユキにクービの茎には解熱の効果があると教えていた。
それをはっきりと覚えていたユキは、熱を出した自分のためにクービの茎を泥状にして飲ませてくれたのだろう。
だとすればユキには感謝してもしきれない。
ゲンシャたちから遠ざけてくれたばかりか、闘いの疲労と負傷により生じた熱を下げる努力をしてくれたのだから。
(俺は何てフラー(馬鹿)なんだ!)
トーガは自分自身に対して激しい怒りを覚えた。
少しでもユキをマジムン(魔物)と疑った自分が恥ずかしくなったからだ。
口内に残っていたわずかなクービの茎を飲み込むなり、トーガは頭痛と打撲傷により生じた痛みを堪えつつ立ち上がった。
そしてユキに感謝と謝罪の言葉を述べようと視線をあちこちに彷徨わせる。
「ユキ?」
けれどもユキの姿が視界に入ってくることはなかった。
トーガは喉が張り裂けそうなほどの大声でユキの名前を呼ぶ。
「ユキ、どこにいる! いたら返事をしてくれ!」
緊張は焦燥を生み、焦燥は動揺を招く。
男衆の中でも最大の危険人物であったゲンシャと対峙した際にも何とか平然を保っていられたトーガだったが、さすがにユキが目の前から消えていたことには動揺を抑えられなかった。
ただでさえ今の自分たちはあらぬ疑いを向けられているというのに、ここで単独で行動すれば危険の度合いが著しく跳ね上がってしまう。
しかもユキは外見からマジムン(魔物)と誤解されているのだ。
もしも一人でいたところを男衆たちに見つかってしまえば一大事である。
だからこそ、トーガは無我夢中でユキを探し始めた。
何度も何度も大声で呼びかけ、浅く素足が沈む腐葉土の地面を突き進む。
「いや、待て。こんな森の中を闇雲に探しても拉致が明かない。ここは冷静に頭を働かしてユキの考えを追うんだ」
十間(約十八メートル)ほど進んだときだろうか。
不意にトーガは歩みを止めて、口元を左手の掌で覆い隠した。
長考する際に行ってしまうトーガの癖である。
口にした通りにトーガは必死に考えを巡らせた。
まずユキだけが男衆に捕まった可能性はないだろう。
仮に自分たちの居場所が男衆に発見されたのなら、今頃はユキだけでなく自分も捕まっているはずだ。
ならば考えられることは一つ。
ユキは意識を失っていた自分に泥状にしたクービの茎を飲ませてくれた後、自らの足でここから立ち去ったのではないか。
疑問を抱いたトーガに強烈な眩暈と頭痛が襲いかかった。
前方の光景が二重三重に揺れ初め、酒に酔ったようなおぼつかない足取りになる。
「まさか……」
トーガは身近な樹木に身体を預けると、樹皮に額を押しつけて身体を小刻みに震わせる。
「まさかユキは俺のために自ら姿を現しに行ったのか?」
考えるに最悪の結論だ。
けれども現状を鑑みる限り、ユキだけがいなくなった他の理由に見当がつかない。
自分の名前も覚えてなかったユキが、一人で水や食料を探せるほど森の知識があったとも考えられなかった。
トーガは数日間の付き合いの中でユキの性格を十分に掴んでいた。
物腰は柔らかく言葉使いも巧み。
清楚で洗練された気品を保ち、それでいて他人を蔑むような下卑た心など寸毫も持ち得ていない素晴らしい女だ。
それに自分よりも他人を気遣う性根の持ち主であり、今日も平地で鍛錬を続けていたときにわざわざ握り飯と水を持ってきてくれたほどである。
そのような女が最後の最後まで追い詰められた際、どのような行動に移るかは今のトーガには奥歯を噛み砕きたい衝動に駆られるほど分かってしまった。
ユキは気を失っていた自分を見て思ったに違いない。
自分が犠牲になることでトーガが助かるかもしれない、と。
「くそっ!」
トーガは瞬時に右拳を眼前の樹木に突き放った。
硬い大木の樹皮で拳を鍛え抜いていたトーガの右拳が樹皮にめり込む。
「何がティーチカヤー(手の使い手)だ! トーガ、お前の〈手〉は肝心なときに女一人守れないではないか!」
樹皮から拳を引き抜いたトーガは、ユキが向かったとされる場所へ目掛けて走り出した。
もちろん痛手を負っていた今の状態では軽快な走りはできない。
せいぜい小走りの速さが限度であった。それでもトーガは歯を食い縛りながら両足を動かしていく。
目指す先は根森村だ。ユキが自分から姿を現すつもりならば、森の中で男衆を探すよりも大勢の人間が暮らす集落へ行けばいい。
そうすれば瞬く間にユキの所在はツカサであるカメの元へ告げられ、四半刻(約三十分)も経たずにユキは男衆に捕まるだろう。
それだけは何としても阻止しなければならなかった。
ユキ一人だけが捕まれば、マジムン(魔物)の類と勘違いされて異変を鎮めるための人柱にされてしまうかもしれない。
などと思いながら樹木の間を縫うように突き進んだとき、トーガは近辺に生えていた樹木や岩に妙な目印があることに気づいた。
樹木の枝には朱色に染められた布が巻かれており、自然に割れたと見える岩の切れ目には三本の小枝が突き刺さっていたのである。
「ここは陶土の採掘場に向かう途中の道か?」
トーガは以前にティンダから聞いた事柄を思い出した。
陶器を作る際に必要な陶土の採掘場は入り組んだ森の奥にあるため、陶土を採取する人間たちが迷わないよう樹木の枝に布を巻いて目印をつけておくのだと。
「渡りに船とはまさにこのことだな」
大和に伝わる格言を安堵の息とともに漏らすと、トーガは自分の方向感覚を頼りに根森村へ続くと思われる方角へ歩を進めた。
ほどしばらくして、トーガは樹木の間を移動する一つの人影を目の端に捉えた。
遠目からでも目視できるほどの白髪の持ち主である。
「ユキ、無事だったのか!」
移動していた人間の頭髪が鮮やかな白色だと分かった途端、トーガは全身に走る痛みを忘れて目的の人物に向かって走り寄った。
どんどん二人の距離が縮まり、互いの顔がはっきりと分かるほど近づいたときだ。
「お、やっと見つけたぜ」
年若くして白髪の人間――ティンダは呆然とするトーガに満面の笑みを向ける。
「ティンダ、どうしてお前がこんなところに?」
「それは俺が聞く立場だ。今や集落はお前の噂で持ちきりだぞ。何せカメバァが男衆を総動員させたことなど過去に一度もなかったからな」
トーガは気まずそうに顎を引いた。
「分かっている。ゲンシャたちも同じようなことを言っていたからな。だが信じてくれ。俺は島の異変に関わってなどいないんだ」
「信じるさ。島に異変を起こしたのはお前じゃなくて白髪の女のほうなんだろ?」
呆気に取られたトーガにティンダは言葉を続けた。
「つい今しがた本人が俺たちの前に姿を現して言ったんだ。島に起こった異変の原因は自分にあるってな。だからお前が咎めを受けるようなことはない」
「ちょっと待て。本当にユキが言ったのか? 島に異変をもたらせた原因は自分にあると」
「俺だけじゃなくてアクルも聞いたんだ。嘘だと思うならほとぼりが冷めたときにでもアクルに訊いてみろよ。きっと同じ答えが返ってくるぞ」
まったく笑みを崩さなかったティンダとは打って変わり、話を聞くうちにトーガの全身からはみるみる血の気が引いていく。
「ティンダ、もう一つだけ訊きたいことがある」
「何だ?」
「それで白髪の女を……ユキをそれからどうした?」
「あの女ならアクルたちがオン(御獄)に連れて行った。本人が異変を鎮めるためにオン(御獄)へ行きたいと願ったからな」
「オン(御獄)へ連れて行っただと!」
トーガは痛みを忘れて走り出すと、数間先にいたティンダに詰め寄った。無意識にティンダの襟首を強く掴む。
「気は確かなのか。オン(御獄)に行けば否応にもツカサ様に見つかってしまう。そうなったらユキはどんな目に遭わされるか分かったもんじゃない」
「なぜカメバァがあの白髪の女に危害を加えると思うんだ?」
そのとき、トーガはふと我に返った。ティンダの表情から笑みが消えていたからだ。
「やはり、あの白髪の女はマジムン(魔物)の類なのか?」
「違う。ユキはマジムン(魔物)じゃない。それは確かなんだ」
トーガはティンダの襟首からそっと手を離すと、真剣な面持ちでユキがマジムン(魔物)ではない根拠を話した。
魔除けの効果があると言われる、ススキの葉――サンを当てても何の反応も示さなかったことを。
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