秘拳の三十八 島の異変

 目的地など決めてない。


 今ほど口にした通り、集落に近いここら一帯の森を中心にトーガたちを探してみようと考えていた。

「待てよ、ティンダ」


 十歩ほど歩いたときだろうか。無言だったアクルが諦念を含んだ声をかけてきた。


「分かったよ。俺たちも最後まで付き合う。ツカサ様からの命もあるし、お前に助力してくれと師匠にも頼まれたからな」


 ティンダは顔だけを振り向かせた。


「マジムン(魔物)が怖いんじゃなかったのか?」


 アクルはこめかみを人差し指で掻きながら苦笑した。


「よくよく考えたらマジムン(魔物)よりも師匠のほうが怖い。お前一人だけを森に置いて釜場に帰ったら師匠に釜の中へ放り込まれるような気がする」


 これには他の四人も同意見だったようだ。


 口々に「ツカサ様よりもムガイの師匠の怒りに触れることのほうが怖いよ」とぼやき始める。


 ただし、とアクルはこめかみを掻いていた人差し指をティンダに差し向けた。


「森の中を探すのは日が暮れるまでだからな」


「ああ、それで十分だ。日が暮れた後は俺に任せろ。浜辺に飛んでいって船がなくなっていないか一隻ずつ確認を」


 する、とティンダが言葉を続けようとした直後だ。


 ティンダとアクルの会話を黙って聞いていた四人のうちの一人が悲鳴を上げた。


「どうした? 急に女のような声を出して」


 悲鳴を上げた男は網上げされた魚のように口を開閉させて森の一点を見据えていた。


 そんな悲鳴を上げた男の異変に逸早く気づいたのはティンダである。


 素早く身体を振り返らせると、悲鳴を上げた男が見つめていた視線の先を注視した。


「白髪の……女だ」


 一瞬、ティンダは我が目を疑った。


 森の奥から一人の女が歩調を乱さずに歩いてくる。


 自分と同じ白髪の女だ。


 だが白いのは髪の毛ばかりではなく、肌の色や着物まで晴れた空に浮かぶ雲のように白かったのである。


「マジムン(魔物)の女だ! マジムン(魔物)の女が現れた!」


 ティンダは閃光の如き速さで恐怖が伝播したことを直感するや否や、この場から一目散に逃げ去ろうとした男たちを一喝する。


「狼狽るな!」


 腹の底から轟かせたティンダの声は、咄嗟に逃げ出そうとした男たちの足を止めさせた。


「相手はマジムン(魔物)だろうが一人だ。それに比べて俺たちは六人もいるじゃないか。何を恐れることがある」


 アクルたちは骨が折れそうなほど首を左右に振った。


「人数なんて関係ねえ。やっぱり怖いものは怖いんだ」


 両膝を面白いように振るわせた五人にティンダは落胆の溜息を吐いた。


「もういい。じゃあ、俺が一人で話をつけてくる」


 そう言い残すと、ティンダは落ち着き払った足取りで白髪の女に向かっていく。


 白髪の女との距離は瞬く間に縮まった。


 さりとて相手はマジムン(魔物)の類だ。


 あまり近づき過ぎてもよくないとティンダは三間(約五・四メートル)ほど手前で立ち止まる。


 ティンダの意図を本能で察したのだろうか。白髪の女も同じく歩みを止めた。


「まず確認しておきたい。お前がトーガと逃げた白髪の女で間違いないな?」


「私と同じ年若くして白髪……そうですか、あなたがティンダさんですね。トーガさんから話は聞いています。何でも童子の頃から無二の親友だとか」


 白髪の女は流暢な琉球語で返事をした。


 ならば意思の疎通は問題ないだろう。


 ティンダは続けて白髪の女に尋ねる。


「そんなことよりも俺の問いに答えろ。トーガはどこだ?」


 前方に佇む女がトーガと逃げた女であることは分かったが、肝心のトーガの姿が見えないことにティンダは目眉を細めた。


 息を呑んで返答を待っていると、白髪の女は艶かしい朱色の唇を動かす。


「トーガさんは私が歩いてきた方向の先で眠っています。半刻(約一時間)以上前に河原で手酷い痛手を負いましたので」


「河原で手酷い痛手を負った?」


 ティンダは森の地形を頭の中に蘇らせる。


 白髪の女が言うように、この先には大きな沢と河原があったはずだ。


「もっとはっきりと答えろ。どうしてトーガが河原で痛手を負ったのかをな」


 白髪の女は間を置かずに答えた。


「ゲンシャという人と闘ったからです。他にも取り巻きと呼ばれていた四人の男たちともトーガさんは闘いました。そのときに痛手を負ったのです」


「ゲンシャたちと一戦交えたのか?」


 ティンダにしてみれば驚愕の答えであった。


 ゲンシャのみならず取り巻きたちとも闘ったのならば手酷い痛手を受けるのは当然だ。


「それでトーガはゲンシャたちに捕まったのか?」


 思わず口にしてしまったが、言うまでもなく分かっていた。


 おそらく逃げる途中に河原でゲンシャたちに追いつかれてしまい、身を守るために仕方なく手を出してしまったのだろう。


 だが、それは勇気と言うよりも無謀と言うものだ。


 あのゲンシャと取り巻き連中をたった一人で相手にして敵うはずがない。


 などと思ったティンダの耳に信じられない事実が入ってきた。


「いいえ、トーガさんは捕まってなどおりません。トーガさんは河原で取り巻きと呼ばれていた四人の男たちを倒した後、次にゲンシャという角力(相撲)取りとも闘って勝ちました。けれどもゲンシャという人が思いの外に強かったので最後には気絶してしまい、そこで私は気を失ったトーガさんを担いでこの近くまでやってきたのです」


「トーガがゲンシャを倒しただと!」


 最初は何の冗談かと鼻で笑い飛ばしそうになったものの、白髪の女の真剣な眼差しを見てティンダは嘘ではないと看破した。


「はい、それは紛うことなき事実です。そして私がなぜトーガさんを一人だけ森に置いてきたかというと、現在この黒城島に起こっている異変を早く鎮めるために他ありません」


「異変を鎮めるだと? やはり島の異変を引き起こしたのは、トーガではなくお前だったんだな!」


「はい、此度の騒動を招いた原因はすべて私にあります」


 ですから、と白髪の女は苦々しい表情で天を仰いだ。


「どうか道を譲ってください。私は一刻も早くオン(御獄)に行き、現在この黒城島で起こっている異変を鎮めなくてはなりません」


「お前が異変を鎮められると言い張る根拠は何だ?」


「祭祀に関わらない人間に説明したところで刻の無駄に終わります。ですが今も言ったように早く事に臨まなければ黒城島の存亡に関わることも事実。それでもまだ私が信じられないというのならばオン(御獄)まで動向してください。さすれば私の言ったことが真実だとその目で確かめられるでしょう」


 周囲が微妙な沈黙に包まれたとき、ティンダは顔だけを後方に振り返らせた。


「アクル、今の俺たちの話を聞いていたな?」


「何だよ、俺が聞き耳を立てていたことに気づいていたのか」


 後方の樹木の裏から罰の悪そうな顔をしたアクルが姿を現した。


 ティンダのことが心配で足音と呼吸に気をつけながら事の成り行きを見守っていたのだろう。


「どうなんだ? 俺たちの話を聞いていたのか?」


「ああ……まあ、聞いていたと言われれば聞いていた」


「だったらお前たちはこいつと一緒にカメバァの家に向かえ」


「はあ? どうしてそうなるんだ?」


「今の話の真実を確かめるためだ。俺にはどうもこの女が嘘を言っているとは思えん。だが、この女がマジムン(魔物)の類か判断することも今の俺たちにはできない。ならばここはカメバァに会わせてマジムン(魔物)かどうか見分けて貰うのが得策だと思う」


 ティンダは再び白髪の女に顔を向き直す。


「言っておくがオン(御獄)は強力な結界が張られた聖域だ。もしも今の話が嘘だったのならお前の命はないぞ」


「問題ありません。私はマジムン(魔物)でもヤナムン(悪霊)でもないのですから」


「いいだろう。お前がマジムン(魔物)の類でないことは身を持って証明して見せろ」


 ティンダは地面を蹴るなり、白髪の女に向かって走り始めた。


 ただティンダの俊足は白髪の女の横を通り過ぎても遅まることはなかった。


「おい、ティンダ! そういうお前はどこへ行くつもりだ!」


「決まっているだろう」


 不意に立ち止まったティンダは、白髪の女とアクルに毅然と言い放った。


「俺はトーガを迎えに行く!」

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