秘拳の二十五 アマミキヨ

 気がつくとナズナは白砂の美しい浜辺に佇んでいた。


 視界に映るのはどこまで続く瑠璃色の海と清々しい青空。


 根森村の浜辺も星砂が混じった爽快な浜辺があったが、ここの浜辺は根森村の浜辺とは何かが違う。


(ここは一体どこなの?)


 などと考えながらナズナは踵を返すと、浜辺まで続いている鬱蒼とした森が見えた。


 霊気が漂う原生林である。迂闊に足を踏み入れれば、どんな災いが降りかかるか分からないような神の庭だ。


 にもかかわらず、ナズナは浜辺から森の中へと歩を進めた。


 なぜかは分からない。ただ、もう一人の自分が囁くのだ。


 このまま森の奥へ進んでいけ、と。


 予想していた通り、森の中は厳粛な雰囲気に包まれていた。縦横無尽に生え茂っていた多年草の枝葉が強烈な日差しを遮り、地面の土は浅く素足が沈むほどの腐葉土である。


 ナズナは樹上から垂れ下がる蔦を払い除け、木の根に足を取られないよう慎重に森の奥へと移動していく。


「もう、ハブとか出てきたらどうすればいいのよ」


 今でこそ家に篭り機織に従事しているナズナだったが、女童の頃は兄のティンダと思い人であるトーガの三人でよく森の中で遊んだものだ。


 それゆえに様々な命が息づく森の恐ろしさは痛いほど知り尽くしていた。


 多くの実りをもたらせてくれる緑豊かな森には、人間に危害を加える毒蛇や猛獣も生息している。


 強力な毒を持つハブや鋭い牙を持つ猪などは最たる例だ。


 根森村でもハブや猪によって命を奪われる人間たちの被害は後を絶たない。


 幸いにもナズナたち三人はハブにも猪にも襲われたことはなかったが、鋭利な枝葉で切り傷を負ったことや蜂に刺されて絶叫したことが何度かあった。


 だからこそ、ナズナは周囲を警戒しつつ一歩ずつ慎重に両足を進めた。


 どれほど歩いただろう。やがて自分の背丈ほどもある茂みを抜けたとき、ナズナの眼前に小さく簡素な建物が見えてきた。


 周囲を取り囲む石垣もなければ入り口の門もなく、どこをどう見ても廃屋としか思えない粗末な掘っ立て小屋である。


(もしかして、あそこがアマミキヨ様の……)


 ナズナは早まってきた動悸を抑えるために胸元に手を添えた。


 激しい緊張のために軽い頭痛と喉が渇いてくる。


 それでもナズナは前だけを向いて歩を進めた。膝下まで伸びていた下草を踏みつつ、掘っ立て小屋の入り口に到着する。


 何十本もの蔦で編まれた簾を横に退かし、「失礼致します」と声をかけて中に入った。


「我が声を聞けし者よ。マブイ(霊魂)とはいえ遠路はるばるよくぞ参った」


 屋内に足を踏み入れた途端、ナズナは全身に突風に煽られたような衝撃を受けた。


 その理由は外とは比べ物にならないほど快適な風が吹いていることでも、屋内の中心部分の地面が掘られて小さな円形の池が張られていたことでもなかった。


 円形の池を挟んだ向こう側で正座していた、二十歳そこそこと思しき女の底知れぬ美貌に根こそぎ意識を奪われたのだ。


 一本一本の髪の毛が千金に値するかの如き流麗な黒髪。


 無駄毛のない細く長い目眉。適度な高さを誇る鼻梁。顎の先端に向かうほど鋭角に引き締まっている顔の輪郭。


 内面までも見透かされるような琥珀色の瞳。憂いと色香を帯びた朱色の唇。


 贅肉など微塵もない見事なまで均整の取れた体躯など女の特徴を挙げると限りがない。


 纏っていた衣装もツカサやチッチビたちが祭祀のときに着る普通の白装束だったものの、すべての美を兼ね備えているような彼女が着ていると、王族だけが着用を許されていた明国の瑞鳥とされる鳳凰が刺繍された紅型すらも霞んで見えた。


「いつまでも入り口に立っておらずとも座れ。そのままではおちおち話もできぬ」


「は、はい! す、座らせて……いた……いただきらす!」


 根森村の統治者であるカメに対しても己の我を押し通せたナズナだったが、琉球国の創世神であるアマミキヨの前では呂律が回れないほど萎縮してしまった。


 とにかく何もかもが違う。こうして池を挟んで真正面に座るだけでも、猛烈な魅力により腰が抜けるほど精神と体力が削られてしまうようだ。


「さて、根森村のチッチビの一人であるナズナよ。そなたのマブイ(霊魂)をニルヤカナヤまで呼んだのは他でもない。現在、黒城島で起こっている異変のことを話すためだ」


「アマミキヨ様は私の名をご存知なのですか!」


 いきなり話の腰を折ったナズナに対しても、アマミキヨは嫌な顔一つせずに答えた。



「琉球国は誰でもない我が創った国ぞ」

 アマミキヨは耳が蕩けそうな甘い声で言葉を紡ぐ。


「だが近年では琉球も著しく変貌した。異国の文化が流れ込み、人間たちが作る独自の琉球国が生まれようとしている。しかし、それもまた已む無し。我らが決めた規律が守られているうちは口出しをするつもりはなかった。無論、黒城島のこともな」


 表情を曇らせたアマミキヨを見てナズナは首を捻る。


「その言い方だとアマミキヨ様が口出しをせざる負えない状況に黒城島が陥ったと聞こえるのですが」


 中々察しがいい、とアマミキヨは静かに声を漏らした。


「だが前もって言っておく。そなたたちが思っているほど黒城島の状況は軽くないぞ。このままでは一両日の猶予もなく黒城島に生きるすべての人間は死に絶えるだろう」


(黒城島に生きるすべての人間が死ぬ?)


 ナズナはアマミキヨの言っている意味が理解できなかった。


 確かに太陽が雲に隠れたことや沢から引いているカー(井戸)の水が枯れ始めたこと、頻繁に起こる地震や漁に大きな影響を与えている海の荒れなどは由々しき事態だったが、それでも黒城島に住む何百人もの島人たちが数日中に死ぬとは考えられなかったのだ。


「ど、どうしてです! なぜ、そんなことになるのですか!」


 教えてください、とナズナは血相を変えて立ち上がった。


「そなたが信じられぬのも無理からぬこと」


 アマミキヨは右手を前方に突き出し、右回りに何回か円を描くように手を回した。


 するとどうだろう。二人の間に設けられていた池の水面に波紋が生じ、ナズナとアマミキヨ以外の人間たちの姿が映り始めたではないか。


「これは根森村の島人たち?」


 池の水面には大半が海人である男衆から日々耕作や機織に従事している者たちの姿が鮮明に視認できた。


 さすがはアマミキヨと言うべき恐るべき術である。


 こんな芸当は八重山に住むツカサたちはおろか、琉球国の最高神女である聞得大君でも実現は不可能だろう。


 ナズナはひとしきり驚くと、両膝をついて池の水面に映った光景に注目した。


 不可思議な異変が生じたことで島人たちは右往左往している。


 どの島人たちも不安を隠しきれていないのだ。両手の指を絡めて曇天に祈りを捧げている年寄りや、荒れた海を悔しそうに眺めている海人の姿も何人か見受けられた。


 アマミキヨは再び円を描くように手を動かした。


 根森村の集落を映していた池の水面に波紋が広がった。


 それに応じて水面に映し出されていた光景が徐々に変化していく。


「これはトーガと……誰?」


 ナズナは瞬きを忘れて池の水面を食い入るように見つめた。


 多年草が生え茂る中にぽっかり空いた平地の中で、一本の樹木に背中を預けて仲睦ましく会話している二人の人間がいた。


 一人はトーガに間違いない。


 琉球独特の髪型であるカタカシラではなく、うなじの辺りで一本に黒髪を束ねているのは根森村広しと言えどトーガだけだ。


 しかし、もう一人の女には心当たりがなかった。


 年齢は自分と同じ十五、六歳ほどだろうか。


 微塵の汚れも見られない純白の着物を纏い、目鼻立ちが整った相貌からは男が放って置かないほどの鮮烈な魅力が滲み出ていた。


 しかも女は兄のティンダと同じ若くして白髪だったのだ。


「男のほうはそなたもよく知るトーガ。女のほうはユキという。真名でも童名でもない。トーガがつけてやった仮名だ」


 アマミキヨは吐息すると、ここからが本題だとばかりにナズナに鋭い眼光を向けた。


「ナズナ、二人の近辺をよく見てみろ。何かに気づかないか?」


「トーガと女の近辺ですか?」


 ナズナは言われるがままトーガとユキから視線を外した。


(あれ……これって)


 ナズナは不思議な池の水面に顔をずいっと近づけた。


「黒城島の異変はそなたら人間のせいではない。すべての原因はトーガがユキという仮名を与えた女にある。なぜなら、このユキという女の正体は――」


 前髪を揺らすほどの微風に煽られながら、アマミキヨはユキの正体を明かした。


 それだけではない。同時に黒城島を襲っている異変を鎮める方法もである。


 どれほどの刻が経過しただろう。


 ナズナはアマミキヨから池の水面に映るトーガとユキに顔を向き直した。


「アマミキヨ様、本当にそれで黒城島を救えるのですか?」


「うむ、ただし生半可な覚悟では務まらぬぞ。今のトーガは本来のトーガではない。事の真相を話したとしても納得はするまい」


 ナズナは理解したとばかりに大きく首肯した。


「ならば我が伝えることは何もない。後はお前の働き次第だ」


 と、アマミキヨがその場で手招きをした瞬間である。


 ナズナは誰かに襟を引かれたように前のめりに倒れ、澄み切った円形の池に顔から落ちてしまった。


「人間は……互いは引か……れ合い……そうで相反する……ゆめ忘れ……るな」


 一度だけ顔を出したときにアマミキヨの途切れ途切れの声が脳裏に響いたが、ナズナは真剣に聞き入ることもできずに池の底へと沈んでいった。


 底が見えないほど深い常しえの闇の中へと――。



 カメとチッチビたちは異様な光景を前に瞳孔を拡大させた。


 イビ(聖石)に触れた途端、ナズナの髪が突風に煽られたように逆立ち、この世の者とは思えない不気味な悲鳴を上げたからだ。


 ほどしばらくして大気を震わすほどの悲鳴が静まり、不自然に逆立っていた髪が正常に戻ったとき、ナズナは両膝から地面に崩れ落ちた。


「ナズナ!」


 最初に地面を蹴ったのはカメだ。


 続いて他のチッチビたちもナズナの元に駆け出す。


「ナズナ、しっかりしろ。ナズナ!」


 カメはナズナの上半身だけを抱き起こし、何度も何度も名前を呼んだ。


 ナズナは誰もが一目瞭然なほど完全に意識を失っていたからである。


 やがてカメの声が届いたのか、ナズナは閉ざされていた両の目蓋を半開きにさせた。


「よかった。どうやら無事だったようだね」


 ほっと安堵の息を漏らしたカメは、未だ目の焦点が合っていないナズナに問いかける。


「意識が戻ったのなら教えてくれ。お前はイビ(聖石)に触れたことでアマミキヨ様から直にお言葉を賜ったんだろう? アマミキヨ様は誰がこの島に災いを引き起こしたと仰られた?」


 カメやチッチビたちが固唾を呑んで返答を待つと、目の焦点が合わないままナズナは網上げされた魚のように口を開閉した。


「もっと大きな声で言っとくれ。よく聞こえんではないか」


「……ガ」


 ようやく聞き取れるほどの声がナズナの口から発せられたかと思うと、心配そうにナズナを見ていたチッチビたちの表情が緩んだ。


 しかし、それはほんの束の間であった。


「トーガ…………を捕まえて」


 ナズナは白濁した意識のまま呟くと、再び目蓋を閉ざして意識を喪失した。


「皆、今のナズナの言葉をしかと聞いたな? 黒城島に災いをもたらせた者の名を」


 カメの問いにチッチビたちは何度も首を縦に振る。


「ならばすぐに男衆を向かわせよ」


 カメは勢いよく右手を水平に薙ぎ払った。


「黒城島のためにトーガを速やかに捕縛するのだ!」


 大気が鳴動するほどのカメの怒声がオン(御獄)の中に響き渡ったとき、黒城島全体を揺るがすほどの地震が再び起こった。

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