秘拳の二十四 ティンダへの憧れ

「なぜって……」


 トーガは眉間に皴を寄せるなり、左手の掌で口元を覆い隠した。


 改めて問われると非常に答えにくい。


 そもそもユキを連れて帰ったのは、邪しまな考えではなく純粋な義気から取った行動だ。


 家に泊めたことも同様である。


 記憶をなくした上に容貌が普通の人間とは異なっているユキを放って置けないという思いから決めたことだった。


(それは間違いない……間違いないが)


 うむ、とトーガは渋面のまま唸った。


「どうしました?」


 急に考え込んだトーガにユキは無垢な瞳を向ける。


「いや、色々と考えてみたんだ。俺が見ず知らずの他人である君を家に泊めた理由をな」


 口元から手を離したトーガは、次に両手の指を絡ませて後頭部を支えた。


「だが上手く言葉が出てこない。人として当たり前なことをしたと言えば聞こえはいいが、やはり理由は両親と親友の影響かな?」


「トーガさんのご両親?」


「ああ、俺自身は根森村で生まれ育ったが両親は違う。父さんは八重山から遠く離れた本島で生まれ育った琉球人なんだ。母さんに至っては本島からさらに遠く離れた異国である大和で生まれ育った大和人だった」


 照れ臭そうにトーガは鼻先を親指で掻いた。


「父さんは本島でもそれなりの身分があった家に生まれ、〈手〉の技も父親――つまり俺の祖父に当たる人から学んだそうだ。ただ父さんは那覇の中央に位置していた久米村で明国人から明国の医術と武術を学んだことで人生の転機を迎えたらしい」


「那覇? 久米村?」


「那覇とは地名のことで久米村は明国人が住んでいる村のことだ。俺も父さんから聞いたことだから本当かどうかは知らん。ただ、那覇は本島の貿易港として石垣島の仲間村にも船を出しているから強ち間違いではないだろう。とにかく、父さんが明国人から医術と武術を学び琉球に古くから伝わっていた〈手〉を工夫したことは事実。俺自身がその証拠さ」


「ですが、トーガさんのお母様は明国人ではなく大和人だと」


「ああ、それは」とトーガは苦笑した。


「那覇には明国人のために作られた久米村とは別に大和人が住んでいた若狭町という村もあったらしい。


 若狭とは大和の地名で母さんの故郷の名前だという。


 ここまで聞けば何となく分かるだろう。


 明国の医術を習得した父さんは若狭町に治療に出掛けた際に大和人だった母さんを見初め、家族や門中の反対を押し切って結婚したというわけさ」


 これはクダンではなくユキエから聞いたことだ。


 諸外国の影響が激しかった那覇は琉球、明国、大和の三文化が渾然一体となった不思議な地域であり、特に大和の貿易港であった堺から様々な大和の文化が琉球に入っていたという。


 トーガは神妙な面持ちで暗色の空を仰ぐ。


「それが原因で父さんは八重山に島流しにされた。笑い種だろう? 何の罪も犯していないにもかかわらず、大和人と結婚したことで島流しにされたんだ。しかも島流しをするよう役人に頼んだのは、他でもない父さんの家族や門中たちだったから報われない」


「家族や門中たちがトーガさんのお父様を島流しにするよう役人に頼んだのですか?」


「ああ、王府が決めた刑罰の中には親族の訴えで当人を島流しにできるような刑が存在しているんだと」


「それでトーガさんのご両親は八重山に渡ってきたのですね」


「まあな。お陰で童子の頃から随分と苛められたよ。お前は本島から島流しにされた琉球人の父親と、そんな男と結婚した大和人の母親を持つ半端者だって」


 だからかな、とトーガは顔を空からユキに向けた。


「自分たちとは違う境遇の人間が根森村でどんな目に遭わされるかは誰よりもよく分かっている。十中八九、非難の対象になるのさ。俺や父さん、母さんだって数年の歳月をかけて島人たちの信用を得てきたんだ。俺や父さんは医術で病人や怪我人の治療、母さんは大和の機織の技術を教えるといった具合にな」


「でしたら私は……」


「記憶が戻るまで大人しくしていたほうがいい。


 記憶がなく根森村の住民でもない。


 ましてや若くして〝白髪〟ときている。そうなると村の人間からどんな非難を浴びせられるか俺には想像もできないからな」


 ユキは小首を傾げると、自分の白い髪の毛を数本だけ摘む。


「白髪だとそんなに変なのでしょうか? 私は別に気にしないのですが」


「俺もそうだ。髪の色で相手を非難するほど落ちぶれてはいない。それに俺の親友も君と同じく若くして白髪なんだ」


「その方が先ほど言われたご親友の?」


 トーガは力強く頷いた。


「ティンダ。俺の唯一無二の親友だ」


 はにかんだ表情を浮かべると、トーガはティンダのことを訥々と語り始めた。


「童子の頃から義侠心に溢れた男でな。あいつと知り合ったのも他の連中から受けていた苛めから庇ってくれたことがきっかけだった。あのときの嬉しさは今でも思い出せる。当時、俺はまだ父さんから〈手〉を学んでいなかったからな。それだけに余計に勇敢なティンダに一入の憧れを抱いたもんさ」


 だけど、とトーガは途端に声量を低く落とす。


「あれは俺たちが十歳になった年だ。ある日、ティンダはティンダの父親の仕事を手伝うために船で宮古島へ向かった。ティンダの父親は根森村の工芸品を八重山のみならず、宮古島や本島まで届ける仕事をしていたからな。いずれ自分の仕事を手伝うティンダに早いうちから仕事を見せて覚えさせようとティンダの父親は考えたんだろう。しかし結果的にそれが仇となった」


 真摯に耳を傾けるユキにトーガは溜息混じりに言った。


「宮古島へ向かう途中、ティンダたちを乗せた船が明国の海賊に襲われたんだ。ここから先は俺も噂で聞いただけだから詳しくは分からない。本人にはとても訊けないしな。だが、皆と同じ黒髪が白髪に変わるほどの恐怖をティンダが味わったのは間違いないだろう。そういった例を俺は父さんから幾つか聞いていたからな」


 ふとトーガは八年前の出来事を脳裏に蘇らせた。


 石垣島経由で宮古島へ向かった船が海賊に襲われた報告が飛び込んできたのは、青年男女たちの楽しみの一つであるモーアシビ(毛遊び)が開かれる刻限だった。


 あのときほど根森村に激震が走ったことはなかっただろう。


 石垣島から飛び込んできた訃報に大勢の海人たちが松明を片手に船を出し、また懇意にしていた石垣島の島人にも助けを借りて宮古島を中心に多良間島近辺を隈なく捜索した。


 数刻後、海人たちが目的の船を探し出したとき、すでに多くの金品や工芸品は盗まれた後であったという。


 しかし、被害は当然の如く金品や工芸品だけに留まってはいなかった。


 二十一人中、生存者は四名。通事のために石垣島から同行していた明国人と童子だったティンダ、護衛のために乗っていた海人二人を除いた全員が帰らぬ人となった。


 そして死者の中にはティンダの父親も含まれており、ティンダ自身があまり語りたがらないことから察するによほど酷い惨状だったのだろう。


「本当によく生き延びてくれたと思う。今でこそ昔の活気を取り戻したティンダだが、船が襲われてしばらくは一日中部屋に篭る日が続いてな。俺が何度となく通って話しかけてもまったく取り合ってくれなかった」


「それが今では元気になられたのですよね?」


「こっちの元気が吸い取られそうなほどにな。そうそう、三日前のモーアシビ(毛遊び)でも村一番の角力(相撲)自慢と引き分けたんだ。あれは君にも見せた――」


 かったと、言葉を続けようとしたときだ。


 トーガは急な眩暈に襲われ、眼前のユキの顔が酔ったときのようにぼやけて見えた。


「やっぱり半刻(約一時間)程度の眠りでは疲れは取れなかったか」


 医者として自分自身を診たトーガは、眩暈の正体を寝不足からきたものだと判断した。


 昼餉を取って胃に満足感を与えたことも起因しているだろう。


 トーガは目元を擦ると、喉仏が見えるほど大きく欠伸をする。


「すまない、ユキ。少しの間だけ眠っていいか?」


「ええ、私は構いませんよ」


「悪いな。雨でも降ってきたら起こしてくれ」


 トーガはごろりと仰向けになり、家で眠るときのように両腕を緩く組んだときだった。


「そのままだと髪を汚しますよ」


 ユキはトーガの頭を両手で持ち上げて自分の膝の上に乗せたのだ。


 これにはトーガも狼狽した。


 女の膝に頭を乗せることなど十八年の人生の中で一度もしたことない奇異な体験だったからである。


「ちょっと待ってくれ。ユキ、それはあまりにも気恥ずかしい」


「いいではないですか。どうせ誰も見ていませんもの。それとも私の膝は居心地が悪いですか?」


 とんでもない、とトーガは心中で激しく言い放った。


 硬すぎず柔らかすぎないユキの膝の感触は、想像以上にトーガの気持ちを落ち着かせた。


 それこそ、あっという間に心地よい眠りへ誘われるほどに。


「どうぞ、疲れが取れるまでご存分にお眠りください」


 ユキの優しい声が最上の子守唄となって周囲に響くと、やがてトーガは必死の抵抗も空しく両の目蓋をゆっくり閉ざした。


 しばらくしてトーガの口から安らかな寝息が聞こえてくるなり、ユキは艶やかな光沢を放つトーガの黒髪を右手で梳かし、微笑を浮かべながらトーガを見下ろす。


 まるで童子を寝かしつけた母親のような澄んだ目でいつまでも。

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