秘拳の二十六 〈手〉の使い方
浅い眠りから目覚めたとき、最初に感じたのはふっくらとした膝の感触だった。
「よく眠れましたか?」
トーガは真上から降ってくる声に「ああ、随分と身体が軽くなった」と告げると、ユキの膝上から頭を離して上半身だけをむくりと起こした。
首を回して凝りを解しつつ、未だに空一面に広がっていた暗色の雲を見上げる。
「なあ、ユキ。俺はどのくらい眠っていた?」
「正確には分かりませんが一刻(約二時間)ほどでしょうか。お疲れだったようですね。何度か声をかけたのですが全然起きませんでしたよ」
「一刻(約二時間)近くも俺の頭を膝に乗せていたのか?」
満面の笑みをこぼしたユキにトーガは驚きを含ませた声で問うた。
「はい、とても気持ちよく眠っていましたので」
「だが一度くらいは頭を離しただろう?」
「いいえ、一度も離しませんでしたよ」
何気なく答えたユキにトーガは神妙な面持ちを浮かべた。
トーガはこれまで百人を超える人間に施術した経験を持つ医者だ。
主に施術は接骨と指圧に限られたが、この二つを行う場合には必要以上に患者の気持ちを理解しなくてはならない。
その際、重要視すべき場所は顔と身体である。
接骨のときは仕方ないものの、指圧のときは患者の痛みが敏感に浮かぶ表情や仕草に気を配るのだ。
時間をかけて患者の経絡を指の腹で押して血行を改善させる指圧は恐ろしく繊細で根気の要る治療だったが、お陰で今では表情を見るだけで相手の心が幾分かは読めるような観察眼が養われたのはトーガのみが知る事実であった。
だからこそ、トーガは今の短い会話とユキの表情から二つの事柄が分かってしまった。
一つ目はユキが自分に対して嘘を付いていないということ。
そして二つ目は、とトーガが無意識のうちに左手の掌で口元を覆ったときだ。
「トーガさん、そろそろ戻りませんか? このままでは風邪を引いてしまいますよ」
「うん……ああ……そうだな」
純粋な瞳で射抜かれたことで、トーガは無粋なことを一時的に考えることを止めた。
次にトーガは自分の身体に視線を彷徨わせる。
ユキが心配するのも無理はなかった。
曇天とはいえ八重山の気温は高く、また一眠りしたことで寝汗を掻いていたのだ。
ナズナに織って貰った茶地の着物は汗を十分に含み、確かにこのまま長時間放置しておけば身体を冷やすことなり風邪を引いてしまうことも考えられる。
ならばトーガが取るべき処置は決まっていた。
すぐに家へと戻り、沐浴をすませてから新しい着物に着替える。
身体を扱う熟達者の医者が病気に罹るなどあってはならない。
「君の言う通りだ。風邪を引かないうちに早めに帰ろう」
トーガが尻に付着した土を払い落としながら立ち上がると、ユキも一呼吸分ほど間を空けた後に立ち上がった。
両膝の部分に付着していた土を丁寧に払い落とす。
「ユキ、ずっと正座していたままで両脚に痺れはないのか?」
「特にはありませんが」
軽く小首を傾げたユキにトーガは唇を緩く歪めて見せたが、二つ目の事柄が的中していた事実を目の当たりにしたことで心中において暗澹たる溜息を漏らした。
「何でもない。ただ訊いてみただけさ」
あくまでも平然を装ってトーガは歩き出した。
すると数歩分の距離を置いてユキが後方からついてくる。
「あまり俺から離れるなよ。逸れると厄介だからな」
「はい」
ユキの返事を聞いてトーガは小さく顎を引いた。
そうして下草が短い平地を抜け、二人は縦横無尽に生え茂る多年草の中に足を踏み入れていく。
四半刻(約三十分)が過ぎた頃だろうか。
トーガは顔だけを後方へ振り返らせた。
「ユキ、大丈夫か? 歩き疲れたら遠慮なく言ってくれよ」
「私は平気です。それにしてもトーガさんはよく家までの道が分かりますね。何か特別な力でも持っているのですか?」
「セジ(霊力)とやらを持つツカサ様やチッチビじゃないんだ。俺にはそんな力はないよ。そうだな……強いて言えば森の特徴を掴んでいるからかな」
「森の特徴ですか?」
「そうだ。人間の手が行き届いていない森は足を踏み入れたら二度と戻ってこられないような雰囲気があるだろ? だが、怖がらずに周囲の風景に目を凝らせば森の特徴が見えてくる。それを俺は長い年月をかけて見極めているだけだ。たとえばこれ」
トーガは少し歩いて片膝をつくと、鳥の羽のような形をした黄色の花を無造作に摘み取った。
「これはアガインフサと言う名前の花でな。見た目には綺麗に見えるが……こうやって茎を折ると」
トーガはアガインフサの茎を半分に千切った。
すると千切った本人であるトーガのみならずユキも咄嗟に鼻を掌で覆った。
半分に折ったアガインフサの茎から鼻が曲がるような悪臭が漂ってきたからだ。
「な? 凄まじい臭いだろう? しかもこのアガインフサは毒もあるんだ。腹が減ったからといって食べると恐ろしい目に遭うから気をつけろ」
「間違っても食べません」
「そうしたほうがいい。だが森には何も毒草ばかり生えているわけじゃないんだ」
トーガはアガインフサを遠くに投げ捨てると、今度は近くの樹木の枝から垂れ下がっていた何本もの蔦に歩み寄った。
「これはクービだ。黄色の花を咲かせているアガインフサとは違って白い花を咲かせる」
「それは毒がないのですか?」
「クービに毒はない。そればかりか赤く熟せば実は食べられ、茎は細かくすり潰して飲めば熱冷ましや腹痛を治せる。何かと重宝されている薬草の一つさ」
「本当にトーガさんは物知りなんですね」
「いやいや、こんなことは医者が持つ知識としては当たり前だよ。それにこういった草花が生えている場所を覚えておけば家に帰るときの道標となる」
トーガが口にした言葉は嘘偽りのない本音だった。
森の中には素人でも見極められるほどの特徴的な草花が多く残されている。
他にも珍しい形をした枝葉や変色した樹皮、猪などの獰猛な獣が牙で引っ掻いた跡や自分が以前に踏み鳴らした足跡を発見することができれば尚更よかった。
自分の足跡を見つけた場合には、その足跡を辿っていくだけで何の苦労もなく家に帰られたからだ。
しかし、そこは十年以上も家から平地へと往復し続けたトーガである。
今のトーガにはそれらの痕跡を幾つか見逃しても家に戻れるくらいの方向感覚と土地勘は十分に養われていた。
なのでトーガは女であるユキの足の疲れを労わりつつ、また木の根などに足が取られないよう意識の半分以上を地面に配りながら歩き続けた。
やがて樹上から何十本も垂れていた蔦を払い除け、トーガとユキの二人は緩やかな傾斜地から小道に躍り出た。
人間の手で適度に均された横幅が狭い道である。
「ここまで来れば家までもうすぐだ」
と、トーガが身体ごと振り向いたときだ。
「すいません。この蔦を取っていただけませんか? どうやっても動けないんです」
口を半開きにさせたトーガの視界には、数本の蔦に絡まって激しく狼狽していたユキの珍妙な姿が飛び込んできた。
「蔦に絡まる人間なんて初めて見た。今どき女童でもいないぞ」
苦笑しつつもトーガはユキに近づくと、手刀の形に変化させた右手を宙に疾らせた。
そのままユキの身体の自由を奪っていた蔦を問答無用で断ち切っていく。
もちろん蔦を断ち切った後のこともトーガは考えずみだ。
前のめりに倒れてきたユキの身体をしっかりと受け止める。
「す、凄いです」
優しくユキを地面に立たせるなり、開口一番そんな言葉が返ってきた。
「トーガさんの手には刃物でも仕込んであるのですか? あんなにたくさんの蔦を素手で断ち切るなんて信じられません」
「素手に刃物を仕込む? フラー(馬鹿)なことを言うな。これは父さんから学んだ〈手〉の基本技の一つで手刀打ちという。手を日本刀などの刀に見立てた形に変化させ、主に相手の頭部に向かって切るように攻撃する技だ。まあ、鍛錬次第で今のような芸当も可能になる」
「あのう、トーガさん」
「何だ?」
「日本刀とは何ですか?」
トーガは「そうか」と一度だけ拍手を打った。
「八重山では日本刀なんて見ることはできないからな。俺も日本刀に関しては直に見たことはないから詳しい説明はできないが、簡単に言うと日本刀とは一昔前の琉球人が腰帯に差していた大和から輸入した強力な接近戦用の武器を指す。ただ大和人たちは自分の国のことを大和とは言わず日本と呼んでいた。それで琉球人たちも大和で作られた刀を日本刀と言ったんだ」
トーガは右手を再び手刀の形に変化させる。
「今、君が言ったように刃物とは言い得て妙だ。どうだ? この手の形は何となく人体でも切れそうな気にならないか?」
親指を除いた四本の指を重なるように突き立てた右手を見せたトーガに、ユキは真っ直ぐな瞳のまま「はい、本当に人間の身体でも切れそうな迫力を感じます」と答えた。
「うん、素人目にはそう見えるだろうな」
だが、とトーガは手刀の形をさらに変化させた。
「これならどう見える?」
トーガは親指と小指を完全に折り曲げ、人差し指、中指、薬指の三本の指だけは少しだけ曲げて見せた。
「あ……何だか手の形が刃物というよりは獣の爪に変わりました」
「だろう? 先刻の手刀の形はいかにも相手を切りつけるような印象を与えるが、この手刀の形に込められた意味は違う。これは相手の攻撃を受け流した後、その攻撃してきた腕をすぐに掴むという裏の意味が込められているんだ」
「相手の腕を掴む?」
「想像してみろ。君が誰かに腕を掴まれたらどうする?」
「掴まれた腕から逃れようとすると思います」
「当然だな。しかし、その掴まれた腕から逃れようとすればするほど隙が生じる。そこを俺たちティーチカヤー(手の使い手)は見逃さない」
トーガは前方に実体のない仮想敵手を思い浮かべるなり、その仮想敵手が繰り出してきた突きを手刀で受け流して掴む一連の動作を行った。
そして仮想敵手の腕を右手で掴むや否や、間髪を入れずに左拳を仮想敵手の顔に向かって突き返した。
事前に腰まで引き、固く握り締めていた正拳突きである。
「構えたときに前方に突き出した手は受けと掴みに念頭を置き、相手の意思から外れている逆の手を攻撃として使用する。父さんはこれを隠し手と言っていた」
「相手の目から隠されている手を使用するので隠し手と呼ぶのでしょうか?」
「多分な。父さんは基本技こそ念入りに教えてくれたが、隠し手のような様々な応用に利く技は最後の最後まで教えてくれなかった。何度となく教えを請うたのだけれど、そこから先は自分で考えろの一点張りだったよ」
トーガは両手を脱力させると、「これも内緒だからな」とユキに念を押した。
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