秘拳の十六 モーアシビ
深紫色の空には目を洗われるような群れ星の瞬きがあった。
真昼には大量の汗を促す日差しが容赦なく降り注ぐ。
水平線の彼方に沈んだ太陽の代わりに浮かんだ月が顔を覗かせると、仕事を終えた青年男女たちは心を弾ませながら根森村の片隅にあった原野へと足を運ぶ。
言わずもがなモーアシビ(毛遊び)に参加するためだ。
モーアシビ(毛遊び)とは原野に年若い男女が集まり、好きなように歌って踊る遊びのことである。けれども、決して日頃の鬱憤を晴らすためだけに開かれるのではない。
村落結婚が常套だった八重山において、男女の交流に多大な貢献をもたらしていたモーアシビ(毛遊び)は大袈裟にたとえるなら戦に酷似していた。
なぜなら男女が歌や踊りを一生懸命に人前で披露するのは、自分が心から楽しむというよりも意中の異性の気を惹きたいという情念があるからだ。
そして二日振りに雨が止んだ日の夜、広々とした原野には五十人近い男女が集っていた。
歌を歌う者、三線を弾く者、踊りを踊る者、すでに原野を離れて情事に耽っている男女など自由にモーアシビ(毛遊び)を満喫している男女の中、焚き火から離れた場所に胡坐を掻いている二人組みがいた。
トーガとティンダである。
「二日前は悪かった。無理やりモーアシビ(毛遊び)に誘うような真似をして」
突然、隣に座っていたティンダが頭を下げてきた。
「気にするな。お前とこうしてモーアシビ(毛遊び)に参加するのも久しぶりなんだ。あまり遅くまでは付き合えないが心ゆくまで楽しもう」
「そう言ってくれると助かる。じゃあ、まずは乾杯だな」
ティンダは持参してきた布包みを開けると、口が広く底が狭まった酒飲み用の陶器を取り出してトーガに差し出す。
トーガは「ありがたく」と陶器を受け取った。
次にティンダは素焼きしただけの抱瓶を取り出し、トーガに手渡した陶器へ抱瓶の中に満たされていた中身を注いでいく。
直後、トーガは大きく目を瞠った。
「これは口噛み酒じゃない。もしかしてシャムの南蛮酒か?」
トーガが驚くのも無理はなかった。琉球で酒と言えば一般的に口噛み酒のことを指す。
口噛み酒とは清水で沐浴した若い女が炊いた米を丹念に咀嚼し、泥状になった米に水を加えて石臼で引き、それを壷に入れて発酵させた酒のことだ。
本来は祭祀に用意する神酒として伝わったとされているが、現在では琉球全土で自由に幅広く作られている。
しかし、トーガの陶器に注がれた酒は口噛み酒ではなかった。
米を噛んで発酵させた口噛み酒はどろどろとした液体なのだが、ティンダが用意した抱瓶から注がれた液体は水のように透明でさらりとしていたからだ。
適度に酒を注いだ後、ティンダは口の端を緩く吊り上げた。
「惜しい。これはシャムの南蛮酒じゃなくて明国の白酒さ。それと他の奴に見つかると厄介だから口噛み酒を飲むような振りをして飲めよ」
「無茶なことを言うな……にしても明国の酒を飲むのは初めてだ」
確かに口噛み酒とは違う独特の香りが漂ってくる。人によっては顔をしかめるほどの香りかもしれないが、トーガは特に気にすることなく白酒を呷った。
「うおっ、さすがに強いな」
トーガは片目を閉じると、自分の胸を強く押さえた。
人伝に強い酒とは聞いていたが、胸が焼けそうになるほど強い酒だとは思わなかった。
まるで逆流してきた胃液を再び飲み込んだような熱さを感じる。
「はははっ、無理して一気に飲むからだ。こういう強い酒はちびちび飲むものさ」
ティンダは自分の陶器に白酒を注ぐと、一口ずつ噛み締めるように飲んでいく。
それでも強い酒には違いない。
トーガの二の舞にならないよう少しずつ白酒を口に含んだティンダも、実際のところ半分も飲まないうちに激しくむせ返った。
そんなティンダを見てトーガは大笑いした。
「何がこういう強い酒はちびちび飲むものさ、だ。お前も普段から飲み慣れていないのなら変に格好つけるな」
「げほっ、げほっ……いやはや、まったくだ」
やがてティンダが落ち着いた頃を見計らい、トーガは無言で空の陶器を差し出した。
「もう二杯目を飲むのか……ったく、貴重な酒なんだから少しは味わって飲んでくれよ」
トーガの要求を理解したティンダは、溢れない程度にトーガの陶器に白酒を注いだ。
自分の顔が映るほど透明な白酒にトーガは視線を落とす。
「それで、今日のモーアシビ(毛遊び)に俺を誘った理由は何だ? まさか、お前に明国語を教えている老師から貰った白酒を自慢するためじゃないよな?」
「いや、本音を言うと最初はそうだった。珍しく劉老師から白酒を分けて貰ったんでな。こうして華やかな場所でお前と一緒に飲みたいと思ったんだ」
トーガは二口ほど白酒を胃に流し込んだ。
「最初はそうだった、ということは他に俺と飲みたい理由ができたわけだ」
ティンダは「鋭いな」と首を引いた。
「本当なら俺かお前の家でじっくり話そうと思ったんだが」
「ちょっと待て、俺の家は勘弁してくれ!」
不意にトーガは右手を突き出して強引にティンダの言葉を中断させた。
「どうした? 何をそんなに慌てているんだ」
「いや、その……ほら、俺の家は集落から離れた場所にあるだろ。そんなところにお前を呼ぶのはすまないと思ってな」
「はあ? 妙なことを言い出す奴だな。つい二日前にも訪ねたばかりだぞ。それに童子の頃はお前の家の周辺でよく遊んだだろうが」
ティンダが訝しむのも当然だった。
互いに仕事を抱えた今は頻繁に会うことも少なくなったが、幼少の折にはナズナも加えた三人でよく遊んだものだ。
それなのに今さらになって家に来ないでくれと言ったところで素直に承諾するとは思えなかった。
むしろ逆効果だったのではないか、とトーガは思った。
ティンダを家に呼びたくない理由は一つ。
現在、トーガの家には留守を任せているユキがいたからだ。
とはいえ誰が訪ねてきても居留守を使うよう厳重に忠告してある。
自分の名前も思い出せないほど記憶を失い、マジムン(魔物)の類と思えるほど美しい白髪の女など村の人間からすれば不気味な存在に他ならない。
ならば絶対にユキと名づけた女の存在を漏らすわけにはいかなかった。
仮にユキが根森村を統括しているカメの耳にでも入れば、間違いなく男衆が身元を改めるために動くだろう。
目の前にいるティンダも男衆の一人である。心の底から信用しているが、さすがにユキを匿っていることは知られたくなかった。
「とにかく、しばらく俺の家に来るのは止めてくれ。この通りだ」
トーガは額が地面に触れるほど深く頭を垂れた。
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