秘拳の十  ジューグヤーに向けて

 大壷に満たされていた水を一気にひっくり返したような豪雨は二日間も降り続けた。


 やがて暗色の雲が晴れ、眩しい太陽の光が根森村全体に降り注いだとき、ナズナは斜向かいに住んでいた一組の夫婦を連れてカメの家を訪れた。


 カメの家は立派な石垣で囲まれた貫木屋式の一軒家である。


 屋根を破壊するかと危惧された雨もカメの家は絶対に壊せない。


 カメの家の屋根は石垣島から取り寄せた黒瓦が敷かれていたからだ。


 夫婦を連れたナズナが戸口を潜り抜けて家屋の中へ入ると、台所で忙しなく朝餉の用意を整えていた今年で四十歳を迎える女と視線が合った。


 カメの身の回りの世話をしているサンダだ。


「おや、誰かと思ったらナズナじゃないか。こんな朝早くにどうしたんだい?」


「カメバァはいる? ちょっと用があるんだけど」


「あ、ツカサ様なら」


 と、サンダが顔だけを振り返らせたときだ。


「私のことはカメバァじゃなくツカサ様と言えと何度教えたら覚えるんだい」


 戸口の近くにあった部屋の戸が開き、黄色地の着物を纏ったカメがのそりと現れた。


「これは失礼しました。以後、気をつけます。サリ アートートー ウートートー」


「ふん、口だけじゃなく心から言いな」


 カメはナズナの後方に控えていた夫婦を見やった。


「そっちの男……マブイ(霊魂)でも落としたのか?」


 さすがはカメである。一目で夫の異常に気づいたらしい。


「やっぱり。私もそう思ったから連れてきたんです」


「とりあえず足を洗ってから中へ上がりな」


 ナズナと夫婦はカメの命令に従った。


 予め戸口に用意されていた桶の水で泥だらけだった素足を洗い、根森村ではカメの家にしかない畳張りの床の間へと移動する。


「それじゃあ、まずはマブイ(霊魂)を落とした経緯を話して貰おうか」


 きちんと正座したカメに倣い、ナズナと夫婦も正座した。


 けれども夫のほうだけは上手く正座ができていない。


 寝起きのようにふらふらと頭を左右に揺らしている。

 実は、と切り出したのは三十代前半の妻だ。


「二日前に夫は友人の家に泊まりに行くと言って家を出たのですが、知っての通り二日も激しい雨が降ったことで帰って来られませんでした。そして」


「二日振りに帰ってきたと思ったらこの状態だったと?」


「は、はい……うううう」


 妻はカメの質問に深く頷くと、堪えていた涙を一気に体外へ放出させた。


 泣きじゃくる妻の背中を見据えながら、ナズナは視線を夫へと移行させる。


 マブイ(霊魂)を落としたと思われる夫は、半眼のまま虚空を見つめていた。


 マブイ(霊魂)が落ちる。


 これは宮古や八重山のみならず、奄美や本島でも見られるという不可思議な現象の一つだ。


 想像以上の衝撃や驚愕を不意に味わったとき、人間は体内からマブイ(霊魂)を落としてしまう。


 だがマブイ(霊魂)と言っても色や形、匂いや重さなどはなく、実際にマブイ(霊魂)を落とした人間の話によれば体内から〝何かが落ちた〟という感覚だけが分かるらしい。


 それだけではない。


 マブイ(霊魂)を落とした人間は例外なく腑抜けてしまう。


 何をするにも無気力になり、もっと深刻な状況になると布団から一歩も出られなくなる。


 だからこそ、家族の中でマブイ(霊魂)を落とした人間が現れるとカメの元へ急がなければならない。


 なぜなら、体内から零れ落ちたマブイ(霊魂)を再び体内に戻すマブイグミ(霊魂込め)を確実に成功させられる人物はカメだけだったからだ。


「その友人の家で何かマブイ(霊魂)を落とすような目に遭ったのかね?」


 カメの問いに妻は頭を振った。


「分かりません。訊こうにも夫は帰るなりこの状態でしたから」


「泊まりに行った友人には尋ねたのかい?」


「それが彼はただ酒を飲んでいたと言うだけで何とも……」


「ふん、おかしなこともあるもんだね」


 カメは颯爽と立ち上がると、小声で「あ~、う~」と唸り続けている夫のほうへ歩を進めた。


 間近から夫の全身へ目線を彷徨わせる。


 にもかかわらず、夫は何かに取り憑かれたように呻き声を発するのみ。


「友人と酒を飲んでいただけでマブイ(霊魂)を落としたのか」


 一通り夫の様子を観察したカメは「ま、別にいいか」と吐息した。


「ナズナ、戸口にいるサンダからサンを貰っておいで。あれがないとマブイグミ(霊魂込め)ができないからね」


「は~い」


 間延びした声で返事をするなり、ナズナは戸口で掃除に専念していたミグミからサンを受け取ってきた。


 夫と向かい座りしているカメにそっと手渡す。


 サンとはススキの葉の先端を結んだ呪具のことだ。


 昔からススキの葉は剣の形に似ているので魔除けの力があるとされ、各島の村々を統括しているツカサの必需品でもあった。


 ナズナからサンを受け取ったカメは、「さっそく始めるかね」と低い声で祈りを始めた。


「サリ アートートー ウートートー。床の間に居られます神よ、今からマブイ(霊魂)を落とした男のマブイグミ(霊魂込め)を行いますので力をお貸しください」


 カメは夫の頭上でサンを右回りに回し始める。


「そう言えば夫の名前を聞いてなかったね。何て言うんだい?」


「タラマです。あ、私の名前はイグスと申します」


「タラマだね」


 イグスから名前を聞くや否や、カメはサンでタラマの腹を優しく叩き始めた。


「タラマのマブヤー(霊魂よ)、マブヤー(霊魂よ)、ウーティクーヨー(追いかけて来い)」


 カメは祈りに合わせてタラマの腹をサンで正確に三回叩くと、次に殴打する場所を腹から頭頂部に移す。


「タラマのマブヤー(霊魂よ)、マブヤー(霊魂よ)――」


 頭頂部を優しく二回叩いたカメだったが、最後の一回だけはまるで違った。


「ウーティクーヨー(追いかけて来い)!」


 両手でしっかりとサンを握ると、大きく振り被ってタラマの顔面を強く殴打したのだ。


「ひい」


 と、小さな悲鳴がイグスの口から漏れ出る。


 傍から見ていたナズナは悲鳴こそ上げなかったものの、カメが放った最後の一打に瞠目してしまった。


「終わったよ。これでマブイグミ(霊魂込め)は無事終了さ」


 持っていたサンで自分の肩を軽く叩くと、カメはイグスでもナズナでもなくマブイグミ(霊魂込め)を行ったタラマに向かって強く言い放った。


 するとタラマの全身が一瞬だけ強張り、しばらくして「俺は今まで何をしていたんだ?」と周囲を見回し始めたではないか。


 イグスは涙ぐんだままタラマの胸に飛び込む。


「よかった。まるで覚えてないだろうけど、あんたはジンさんの家からマブイ(霊魂)を落として帰ってきたんだよ。それでナズナに付き添って貰って、ツカサ様にマブイグミ(霊魂込め)をしてくださるよう頼みに来たのさ」


「俺がマブイ(霊魂)を……」


 本当にマブイグミ(霊魂込め)には成功したらしい。


 今ほどまで胡乱でいた瞳に見る見ると生気が蘇り、イグスの声に応える態度や口調も正常そのものになった。


「ツカサ様、本当にありがとうございます。ツカサ様のマブイグミ(霊魂込め)のお陰でこうして夫は正気を取り戻しました」


 イグスはカメに平身低頭して礼の言葉を述べた。


「これもツカサとしての仕事の内さ。それに礼なら言葉よりも物のほうがいいね」


「分かっています。ですが今日は生憎と持ち合わせがありません。なので謝礼のほうは後日改めてということで」


「それでいいさ。楽しみに待っているよ」


 イグスは何度も頭を下げて部屋を出て戸口へ向かった。

 

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