秘拳の十一 トーガの出生
もちろんタラマもイグスの後を追うように部屋を出て行こうとしたが、その寸前にカメがタラマの前に悠然と立ちはだかる。
「あのう……何か?」
「あんたは知っているかい?
要領を得ないという顔をしたタラマに、カメは目を糸のように細めながら言葉を紡ぐ。
「仏ってのは琉球でいうところのアマミキヨ様みたいなもんさ。そして、その大和で崇められている仏は三度だけ悪事を見逃してやるという」
でもね、とカメは口調を強めた。
「私は仏なんかじゃない。だから言っておく。私には三度どころか二度もないよ」
直後、タラマの態度が急変した。
全身が小刻みに震え始め、外よりも涼しい屋内にいながらも額から細かな汗を滲ませる。
「きちんと理解したなら帰りな。それと、あまり羽目を外し過ぎないようにね」
「し、失礼します!」
一度だけ深く頭を垂れると、タラマは逃げるように部屋から出て行った。
二人の気配が完全に消え去った後、ナズナは小首を傾げながらカメに顔を向ける。
「ツカサ様、今のは一体どういうことですか?」
「何がだい?」
「仏の顔がうんぬんって」
カメは「そんなことも分からないのか」と嘆息した。
「あの男はマブイ(霊魂)なんて落としていないよ。落とした振りをしていただけさ」
「えっ、冗談でしょう?」
「冗談じゃないよ。お前もチッチビの一人なら、本当にマブイ(霊魂)を落としているかどうかはセジ(霊力)で見分けな」
「セジ(霊力)セジ(霊力)と言いますけど、実際にツカサ様は他の人間がどう見えているのですか?」
裏表のない素朴な問いだった。
チッチビに入ってからは特にセジ(霊力)という言葉は身近なものになった。
だが、ナズナにはセジ(霊力)など見えたことがない。
「私の場合は相手の身体に薄っすらとした霧がかかっているように見えるね。意識しないときは霧が晴れているように見えるが、じっと目を凝らすとどんどん霧が濃くなっていくのさ」
ナズナは「へえ」と感嘆の声を上げると、今度はふと疑問に思ったことを口にした。
「ですが何でタラマさんはマブイ(霊魂)を落とした振りなんてしたのでしょう?」
「これは六十余年を女として生きてきた私の勘だけど、あのタラマという男は女房の他にいい女ができたんだろうさ」
「それって密通?」
カメは小さく首肯した。
「手順が違うマブイグミ(霊魂込め)で正気を取り戻したんだ。まず間違いないね」
「あのマブイグミ(霊魂込め)って手順が違っていたんですか?」
「ああ、本来のマブイグミ(霊魂込め)はサンだけじゃ戻せないんだよ。清めの塩と少量の水もいるし、何よりサンで叩く場所の順番だって違う。本来のマブイグミ(霊魂込め)では背中から胸、腹から足の順番に叩くのが正式な作法なのさ……まあ、他にも色々あるけどね」
ナズナは先ほどのマブイグミ(霊魂込め)の儀式を思い出す。
確かにカメがタラマに施したマブイグミ(霊魂込め)は、清めの塩も少量の水も使わずにサンだけで行った。
何より叩いた場所も腹と頭部だけだ。
「ふん、これだから男って生き物はフラー(馬鹿)なのさ。これがモーアシビ(毛遊び)の際の情事だったら一向に構わないよ。しかし神様の前で結婚をすませたなら話は別」
カメは吐き捨てるように言った。
「結婚ってのは子孫を残すための神聖な儀式なんだ。それをあの男はマブイ(霊魂)を落とした振りまでして密通を隠そうとした。ツカサも舐められたものだよ。あんな下手な振りで私の目を誤魔化せると本当に思ったのかね」
なるほど、とナズナが得心したときだ。
「ナズナ、お前も生涯の伴侶を決めるときは十分に味見をして選ぶんだよ」
途端にナズナの顔が真っ赤に染まる。
「な、何ですか味見って!」
「そのままの意味さ。男なんて生き物は外からじゃ内までは分からないからね。本当はどういう男なのか見極めるには一度肌を合わせてみないと。そのために八重山の各村々にはモーアシビ(毛遊び)なんてものがあるんだ」
「でも……やっぱり初めては好きな相手としたいです」
「何だって! お前はまだ生娘なのかい!」
「しっ、声が大きいじゃないですか!」
ナズナは慌ててカメの口を両手で塞いだが、カメは瞬時に自分の口を塞いだナズナの両手を払い除けた。
「お前はツカサを殺す気か!」
床の間に怒声が轟いた直後、カメは何度もサンでナズナの頭を叩いた。
カメが持つとススキという植物は人体を損傷させる凶悪な武器へと変貌するのだ。
「痛っ、痛い痛い! ごめんなさい、ツカサ様! もう二度と無礼な真似は致しませんからどうかお慈悲を! お慈悲を!」
ナズナの懇願が届いたのだろう。
カメは手を止めると「お前にも言っておくよ。二度はないからね」と両鼻から盛大に息を吐いた。
「まったく、誰でもいいから早く一人前の女にして貰いな。そうすれば今より幾分かはマシになるだろうさ」
頭を摩りながらナズナは「それだけは嫌です!」と否定的な態度を取った。
「私は複数の男と肌を合わせるつもりはありません」
それに、とナズナは口ごもらせる。
「私には好きな人がいるんです。女童の頃からずっと好きな人が」
「女童の頃から?」
急に表情を固めたカメは、互いの吐息が当たるほどナズナに顔を近づける。
「まさか、お前の好きな相手というのはトーガのことじゃないだろうね?」
瞬間、ナズナは口から心臓が飛び出るほど驚愕した。
当然である。少ない会話の中から一発で意中の相手を見抜かれたからだ。
「あいつだけは……トーガだけは止めときな」
カメの口から出た意外な言葉にナズナは我に返った。
「待ってください。ツカサ様とはいえ他人の恋慕に口を挟む筋合いはないはずです」
「そうさ。ツカサの私でもそこまでの筋合いはない。でもトーガだけは止めときな」
「どうしてです!」
「トーガの父親は本島から八重山に島流しに遭った罪人だったんだよ。それに」
一呼吸の間を置いた後、カメはナズナを諭すように言った。
「トーガの母親は
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