秘拳の九  落ちてきた少女

 しかも普通の大きさではない。


 以前、田畑を荒らしていた一匹の猪が屈強な男衆たちの手により捕縛された光景を見たことがある。


 そのときの猪は全体で五尺(約百五十センチ)ほどの大きさだったが、目の前に現れた猪の大きさは優に七尺(約二百十センチ)はあった。


(ムガイのオジィが言っていた猪はこいつか!)


 確かにムガイの言うとおり生半可な体格ではない。


 四つん這いの姿勢で小ぶりな丸目を血走らせている様は尋常ではない迫力に満ち溢れ、また頑強そうな下顎から突出している鋭い牙は人間の肉など簡単に食い千切るほどの殺傷能力を秘めているだろう。


(あんな牙を食らったら命はないな)


 一瞬で彼我との力量を看破したトーガは、突如として平地に出現した猪を刺激しないよう細心の注意を払うことに決めた。


 ここで恐怖に負けて走り出せば、それが結果的に猪を刺激することになって追われる危険があったからだ。


(ゆっくり……ゆっくりと逃げるんだ)


 トーガは一歩ずつ地面を噛み締めるように後退る。


 その直後だった。


 猪は全身の毛を逆立て、トーガ目掛けて突進してきた。


 五間(約九メートル)以上離れていた間合いが驚くほど速く縮まる。


 トーガは猪の猛進を横に跳んで何とか回避した。


 長年の鍛錬により培われた反射神経と脚力の賜物である。


(どういうことだ? 俺は敵意なんて向けてないぞ)


 何度か地面を転がったトーガは、一直線に走り抜けた猪を見て歯噛みした。


 森を住処とする猪の生態は少なからず知っている。


 猪は植物だけでなく猿なども一匹丸ごと食ってしまうほど食欲が旺盛であり、愚鈍そうな顔からは想像もできないほど嗅覚が発達しているという。


 また自分の縄張りを荒らす相手や敵意を向けてくる相手には容赦せず襲ってくると聞き及んでいた。


 だからこそ理由が分からない。


 開けた場所で遭遇したとはいえ、トーガは猪に対して何も怒らせるような真似をしていなかった。


(だったら猪はどうして俺を襲ってきた?)


 人間が石を投げるよりも早く走る猪を注意深く見据えたトーガは、自分の凶暴さを公言するように奇声を発していた猪が負傷していることに気がついた。


(そう言えばオジィが言っていたな。弟子たちは猪を撃退したと)


 猪は痛手を負いながら山中を逃げ回った挙句、平地で一人黙々と鍛錬に励んでいた人間を鋭敏な嗅覚で察知したのだろう。


 ならば猪が自分を襲ってきたことも分かる。


 猪に限らず手負いの獣は手に負えないと聞く。


 おそらく怒りと痛みで我を忘れた猪は、自分を負傷させた相手と同じ人間から報復しようと考えたのだろう。


 そう考えていると、より凶暴さを増した猪が恐るべき速さで直進してきた。


(どうする? ここは一旦引くか)


 猪との力量の差は十二分に承知している。


 十中八九、素手で勝てる相手ではない。


 さりとて、いきり立っている猪から無事に逃げ遂せられるかも不安だった。


 猪の走る速さはたとえるなら疾風である。


 トーガは二度目の猛進も間一髪のところで躱したが、あまりにも引きつけ過ぎたために着物の一部を鋭利な牙で切り裂かれていた。


 引きつけて躱すのにも確固たる理由がある。


 猪も決してフラー(馬鹿)ではない。


 あまりにも早く回避行動を取ると、それに合わせて猪も角度を変えて突進してくるからだ。


(くそっ、このままじゃらちがあかん)


 引くも無理なら留まるのも無理。


 しかも、このまま膠着状態が続けば最後には巨大な牙の餌食になることは明白だった。


 トーガは瞬きを一、二回する間に打開策を必死に思考する。


(成功するかは賭けだな)


 極限の状態にまで追い込まれたからだろうか。


 トーガは自分の置かれた状況から一つの突破口を見出した。


 成功する度合は不明だ。


 上手く事が運べば状況は一転するが、もしも失敗すれば死は免れないだろう。


(それでもやるしかない!)


 興奮している猪を睥睨する否や、トーガは平地の中心に立っていた大木に疾駆した。


 それだけではない。


 トーガは身体を反転させて大木の樹皮に背中を預けたのだ。


 次の瞬間、猪は脇目も振らずにトーガ目掛けて突進してきた。


 地鳴りのような足音と岩のような巨体が徐々に迫ってくる。


 好機は一度きり。


 失敗は絶対に許されない。


 猪と真っ向から対峙したトーガは、相手との間合いが二間(約三・六メートル)ほど詰まった時点で颯爽と横に跳躍した。


 するとどうだろう。猪は方向転換もできずに大木に顔面から突っ込んだではないか。


(ここだ!)


 トーガは大木が大きく揺れるのを確認すると、顔面を強打したことで身動きを止めた猪に向かって突っ込み、無防備だった横顔へ中足による前蹴りを繰り出した。


 体重が乗った前蹴りが吸い込まれるように猪の頬に食い込む。


 これには猪も参ったのだろう。


 ただ頬を蹴っただけではない。


 頬の部分に負っていた傷に目掛けて渾身の前蹴りを見舞ったのだ。


 だがトーガの前蹴りをまともに食らった猪は、それでも平然と首だけを動かしてトーガを見据えた。


 怒気と狂気と殺気を入り混じらせた凄まじい瞳で。


(まさか、効いてないのか)


 素早く蹴り足を引いて後方に跳んだトーガは、引き潮のように引いていく血の気を感じながら猪の動向を窺った。


 すると――。


 今ほどまで平然としていた猪が雷に撃たれたように全身を激しく震わせ、予想よりも甲高い鳴き声を発しながら森の奥へ遁走していったのだ。


 猪の姿が完全に見えなくなった頃、トーガは腹の底から安堵の息を漏らした。


 トーガが取った行動は単純なようで難解。


 直進することを好む猪の習性を逆手に取り、背にした大木に顔面から突っ込ませる。


 そして怯んだ隙を見逃さず、怪我を負っていた場所に蹴りを放って撃退するという大胆不敵な戦法だった。


 咄嗟に思いついた苦肉の策だったが、喉元過ぎれば何とやらだ。


 結果的に猪は森へ逃げていったので重畳である。


 おそらく猪は人間よりも痛みが鈍いのだろう。


 トーガは自分の前蹴りが実は効いていたことを改めて実感した。


「とにかく早くここから立ち去るか……いや、その前に」


 軽く眩暈に見舞われたトーガだったが、自分が助かるために利用してしまった大木に礼を述べるために歩み寄った。


 猪の突撃を受けて大きく凹んでいた場所に手を当てる。


「悪かったな。だが俺自身も必死だったんだ。それだけは分かってくれよな」


 と、不意に大木の樹上を見上げたときだ。


 視界に奇妙な光景が飛び込んできた。新緑色の葉の間から落ちてくる白い物体をである。


「な、何だ!」


 トーガは驚く暇もなく反射的に白い物体を軽やかな身のこなしで避けた。


 数瞬後、白い物体と地面と激しく接触した音が周囲に轟く。


「おい、待ってくれ」


 トーガは地面に倒れている白い物体を見て目を丸くさせた。


 どれほど思考が停止していただろう。


 ようやく事態を飲み込めたときには、暗色の雲からぽつぽつと雨が降ってきた。


「どうして木の上から女が落ちてくるんだよ」


 白い物体の正体は十五、六歳と思しき女だった。


 しかも一目で普通の女ではないと分かる。なぜなら、女は髪の毛から身に纏っていた着物まで真っ白だったからだ。


 最初は穏やかだった雨の勢いが次第に増してくる。


 それでもトーガは両目を閉じて身動き一つしない白髪の女をいつまでも見下ろしていた。


 自分の体内から〝何か〟が零れ落ちたことを自覚できなかった後もずっと。

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