秘拳の八  〈手〉の鍛錬

 親友であるティンダが石垣島から帰ってきた翌日も、トーガは相変わらず大木がそびえ立つ平地に足を運んだ。


 朝靄がけむる早朝。


 空には淀んだ暗雲が垂れ込めている。


 トーガは気息を整えると、大木から数十歩分離れた場所で基本の立ち方を取った。


 両足を肩幅ほど前後に開き、後ろ足に七分ほどの力を入れて膝を軽く曲げる。


 一方、前足は踵を浮かして爪先だけを地面につけた。


 猫足立ちである。


 だが本来は猫足立ちとは言わず、虚歩というのが正式な名前だという。


 正拳突きや手刀打ちなどもそうである。


 これらは明国で冲捶(中段突き)や劈掌(手刀打ち)と呼ばれていた技名を琉球に馴染んだ名称に変えたものらしい。


 変えたのは父親だったクダンである。


 クダンは琉球古来の武術である〈手〉と、明国の武術を組み合わせて新しい〈手〉を生み出そうと考えた。


 武術とは生死を懸けた戦で生き残るために発達したもの。


 だからこそクダンは咄嗟に技が出るほど同じ動作を繰り返す明国の武術に、己の五体を強靭に鍛え抜く琉球の〈手〉を合わせた新たな〈手〉を生み出したのだ。


 しかし、琉球が戦に明け暮れていたのは昔の話だ。


 今では各地の城を統治していた首長たちは本島に集結させられ、代わりに王府から任命された役人たちが地方の島々を統治するようになった。


 そうして琉球は念願の平和を手に入れたのだが、大勢の人間が住まう場所で争いが起こらないことなどない。


 また首長たちが本島に集められた際に日本刀などの武器を所持することが琉球全土で禁止されたこともあり、そこでクダンは武器に頼らない徒手による〈手〉の技を創意工夫したという。


 トーガは開手にした左手で顔を防御するように構えると、固く握り締めた右拳を甲の部分を下にして腰だめに引いた。


 本来は拳を縦にして放つ冲捶(中段突き)に、手首の捻りを加えた正拳突きの構えだ。


 鋭い呼気を発したトーガは、腰の捻転を利用して疾風の如き正拳突きを放った。前方に放たれた右拳が空気を切り裂く。


 単純で高度な技法は一朝一夕では身につかない。


 十二年前、クダンから〈手〉を習ったときには一つの技につき毎日最低でも百回は繰り返せと命じられた。

 もちろん猫足立ちの構えを維持したままである。


 習い始めのときは正拳突きですら五十回も満足にできなかった。


 無理もない。


 強靭な足腰を要求される猫足立ちのまま、何百回と単調な動作を繰り出すのは想像以上に過酷を極める。


(あのときは本当に辛かったな)


 正拳突きを五百回ほどこなしたとき、トーガの脳裏にはクダンから〈手〉を学び始めたときの記憶がありありと浮かんできた。


 人目を避けた早朝。


 基本である猫足立ちと正拳突きを教えられたときのことだ。


 突きを放つ際の姿勢が悪ければ「なっとらん」と頭を殴られ、手打ちにならないよう肩を落として腰を入れなければ「真面目にやらんか」と怒声を浴びせられた。


 医術は強制的に仕込まれたものの、〈手〉は自分から教えて欲しいと頼んだのである。


 なのでトーガは〈手〉の鍛錬時には殴られようが怒声を浴びせられようが我慢していたが、それでも怒られてばかりでは童子とはいえ腹が立つ。


 いつしかトーガは本来の目的を忘れ、クダンに一矢報いることを考えるようになった。


 そうして半月ほどが経ったときだろうか。


 ようやく猫足立ちの構えを維持しつつ、正拳突きが様になってきたときだ。


 そろそろ頃合だな、とトーガはクダンへの報復を決意した。


 報復といっても殺そうと思ったわけではない。


 毎日毎日、眉間に皴を寄せているクダンの顔を思いっきり殴れればそれで満足だった。


 人間とは思えないほど強いクダンでも寝ているときは無防備に違いない。


 童子心にそう確信したトーガは、報復を本格的に決意した日の深夜に両親の寝所に忍び込んだ。


 前もって暗闇に目を慣らせていたトーガは、寝所に忍び込むなり母親の隣で安らかな寝息を立てていたクダンを発見。


 笑みを堪えつつ慎重に歩み寄った。


 クダンの顔を見下ろしたトーガは、右拳を腰まで引いて正拳突きの構えを取った。


 すかさず顔を殴られて痛みに苦しむクダンを想像しながら右拳を振り下ろす。


 だがトーガの正拳突きがクダンの顔にめり込むことはなかった。


 なぜなら、トーガの正拳突きは顔に当たる直前にクダンの掌でしっかりと受け止められたからだ。


 トーガは目の前の光景が信じられないとばかりに瞠目させていると、静かに目蓋を開いたクダンは唇の端を吊り上げて囁いた。


「トーガ、お前に闇討ちする度胸があったことは褒めてやろう。だが闇討ちするときは最後の最後まで音と殺気を消しておけ。それにお前の正拳突きは未熟すぎる。ただ力任せに拳を振り下ろすだけでは俺を倒せんぞ」


 クダンは拳を掴んだまま悠然と立ち上がると、トーガの顎先に右手の掌を近づけた。


「日々の鍛錬を怠らず、地道な努力こそ深奥に達する最短の近道と心得よ。それと――」


 クダンは一寸(約三センチ)の距離からトーガの顎に目掛けて掌底突きを放った。


「俺を闇討ちするのは十年早い」


 その後の記憶はまったくない。


 顎先を掌底突きで軽く叩かれたと思ったら、暗闇に包まれていた視界がさらに漆黒になった。


 やがて母親の声で目覚めたとき、トーガは恐怖で全身を小刻みに震わせた。


 当然である。


 〈手〉の師匠であるクダンに闇討ちを仕掛け、あまつさえ仕損じたのだ。


 いかに息子だろうと無事にすむはずがない。


 死の恐怖を抱いたトーガは、クダンの報復から逃れるためにティンダの家へ避難した。


 ムガイたちの世話になったのはこの頃からだ。


 家長であるムガイは自分の家に非難してくるトーガを何の詮索もせずに保護してくれたものの、ティンダやナズナたちは好奇心も手伝ってかトーガに家出する事情を話せと詰め寄ってきた。


 もちろんトーガはひたすらに真実を隠し通した。


 言わずもが〈手〉を習っていることをである。


 万が一、ティンダたちに自分が〈手〉を習っていると話していたら、クダンにどのような仕打ちを受けていたか分からない。


 それほどクダンは頑なに〈手〉の存在を周囲に秘匿する男だった。


 そんなクダンは多少のことでは物怖じしない男だったが、それでも息子に闇討ちされた恨みは残ったのだろう。


 闇討ちを仕掛けた次の日から明らかに〈手〉の鍛錬が厳しくなった。


 肩を落とせ、脇を締めろ、腰を入れろ、姿勢は美しく、手の握りは固く、と指摘が色々と多くなったのである。


(日々の鍛錬を怠らず、地道な努力こそ深奥に達する最短の近道と心得よ……か)


 鍛錬を開始してから二刻(約四時間)。正拳突き、裏拳打ち、手刀打ち、掌底突き、前蹴り、足刀蹴りなどを左右五百回、何度かのナカユクイ(一休み)を挟みつつ合計六千回もの空打ちを終えたトーガは盛大に地面に倒れ込んだ。


 全身から滲み出た大量の汗で着物は雨を浴びたように濡れそぼち、荒ぐ呼吸は一向に治まる気配がなかった。


 一方で周囲に生い茂っている多年草の葉が擦れ合う音に混じり、体外に開放してくれと言わんばかりに心臓が暴れている。


「俺としたことが少し無理をしすぎたかな」


 トーガは今にも雨が降ってきそうな曇り空を見上げながら呟いた。


 クダンから〈手〉と医術を学んで約十二年。一年を通して夏日が続く黒城島の中で懸命に研鑽を積み重ねてきた。


 雨と嵐が吹き荒れる日以外は毎日である。


 朝早くに起きて〈手〉の鍛錬を始め、昼間から夕方の間には村中を歩き回って患者たちに医術を施す。


 それは両親が亡くなってからも変わらなかった。


 否、頼るべき相手がいなくなったからこそ、トーガは昔よりも武術と医術の力量を上げることに念頭を置いた。


 一人でも強く逞しく生きるためだ。


 その点について医術は非常に役に立った。


 老若男女問わず礼を述べられ、治療の正当な報酬として金銭や食料をくれる。


 お陰で今は飢えることがない。


 昨日もそうだ。


 童子の頃から世話になったムガイの腰痛を治療したとしてティンダから塩を貰った。


 何と幸福な日々だろう。


 医術により他人の病気や怪我を治し、報酬として貰った金銭で米や魚を買う。


 そして家に帰り飯を食べ、蝋燭の灯りを消して床につく。


「これも父さんが俺に医術を仕込んでくれたからだな」


 でも、とトーガは右手を固く握り締めた。


 〈手〉の鍛錬を始めた動機は両親のことで苛めに遭っていた自分を守るためと、自分を庇ってくれたティンダを守るためだった。


 けれども苛めに遭っていたのは童子のときだけ。


 今では自分も苛められなくなり、一人前の大人として島人からそれなりの支持を得ている。


 ならば〈手〉を鍛錬する必要はなくなったのではないか。


 トーガは固く握っていた右拳を緩めると、上半身を起こして首を横に振った。


「いや、不毛な考えは止めよう。〈手〉は鍛錬すればするほど肉体が強くなっていく。これは単に闘いのためでなく健身の役に立っているとも言える」


 トーガは身を持って知っていた。


 〈手〉の鍛錬は心身ともに過酷を極めるため、長く続けていれば肉体が強健になり病気や怪我に悩まされることが少なくなることを。


 実際に〈手〉の鍛錬をするようになって風邪などは引かなくなり、他にも周囲に気を配る癖が勝手についてしまったので些細な怪我も負わなくなった。


 すべては〈手〉の鍛錬のお陰だと思っている。


「そうさ。父さんが工夫した〈手〉は断じて命を奪うための術ではない」


 自分にそう言い聞かせたトーガだったが、心の片隅では別のことも考えていた。


 〈手〉が踊りではなく武術である以上、奇麗事だけではすまされない事態に遭遇した場合にはどのような対処を取ればいいのか。


 たとえば自分の身が危険に晒されたとき、身近な大切な人が今まさに危険な目に遭わされそうになったときなどだ。


 トーガは鼻から吸い込んだ新鮮な空気を肺に循環させた。


「俺としたことが何をフラー(馬鹿)なことを考えている。この根森村に住んでいる限り、〈手〉を使う機会など今後もないことは知っているくせに」


 近年、八重山では大きな戦など起こっていない。


 あったとすれば約百年前に琉球王府に反乱を起こしたというオヤケ・アカハチの乱ぐらいだろうか。


 それほど八重山の島々は平穏を極めていた。


 もちろん島人同士の些細な諍いは日常茶飯事だったが、大勢の人間が死ぬ戦に比べたら屁のようなものだ。


「さて、雲行きも怪しくなってきたしそろそろ帰る」


 かな、と言葉を続けようとしたときだ。


 両目を大きく見開いたトーガは颯爽と立ち上がった。


 休息を取ったからだろう。


 荒いでいた呼吸は正常に戻り、体内から聞こえていた激しい動悸もすっかり静まっている。


 トーガは顔を縦横無尽に動かして全身を緊張させた。


 いつの間にか平地に異様な気配が立ち込めていた。


 木の枝で羽を休めていた無数の鳥の鳴き声が消え去り、早朝独特の澄んだ空気に混じり鼻腔の奥を刺激する匂いが漂ってくる。


 森を住処とする禽獣が放つ獣臭だ。


 やがて鬱蒼とした多年草の茂みから聞き慣れない奇声の主が現れた。


 トーガはぎりりと奥歯を軋ませる。


 森全体を揺らすような奇声の主は一匹の猪だった。


 

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