秘拳の四  ゲンシャとティンダ

 ナズナに別れを告げたトーガは、夕暮れまで村の方々を回り医術を施した。


 昼夜問わず機織や農耕、漁業で日々の生活を営んでいる人間は身体を壊しやすい。


 特に肌を焦がすほどの日差しが降り注ぐ夏の時期は要注意だ。


 暑さにより気持ちが沈んで食欲不振になり、頭痛や倦怠感を伴いうっかりと怪我をする人間が後を絶たない。


 だからこそトーガは島人たちに何かと重宝されていた。


 トーガは指圧などで身体の調子を整えるだけでなく、打撲や骨折なども治療できる接骨術に長けた医者だったからだ。


 燦々と輝いていた太陽が西空の彼方に落ち、茅葺の家々から夕餉の煙が上がり始めた頃、一日の仕事を終えたトーガは自分の家へと向かっていた。


 根森村に住む人間たちの大半は開拓した平地に密集して居を構えていたが、十代の若さで医者の仕事により日銭を稼いでいるトーガは違う。


 トーガの家は集落から離れた場所に建てられていた。


 なので帰路につく際はいつも決まった道を通る。


 白穂の綿毛が特徴的な薬草として名高いマカヤ、葉の周辺に長い毛が生えているメヒシバなどの野草が生い茂っている簡単に均された道だ。


 そして本来ならばさっさと道を通り抜け、その先にある自分の家へと急ぐはずだった。


「さあ、どうするかな」


 トーガは道の真ん中で歩みを止めるなり深々と吐息した。


 視線の先に五人の男たちの姿が見えたからだ。


 全員が髪を短く切り、藍色の着物の上からでも見て取れるほど屈強な体躯の男たち。赤褐色の肌と着物の袖や裾から覗く発達した筋肉は荒波で鍛えられた賜物だろう。


 日々の糧を漁業で得ている海人たちである。


「よう、トーガ。こんな刻限まで仕事だったのか?」


 五人の海人たちの中でも特に身体の大きな男が野太い声で尋ねてきた。


 ゲンシャという名前の若者だ。


 年齢は今年で二十二、三歳だったとトーガは記憶している。


 根森村を統括しているツカサお抱えの男衆の一人であり、角力(相撲)と喧嘩では無類の強さを誇る乱暴者だった。


「だったらどうした。仕事の手伝いでもしてくれるのか?」


「てめえ、ゲンシャさんに向かって何だその言い草は!」


「半端者は口の聞き方も知らねえのか!」


 ゲンシャの取り巻きの一人が荒々しく怒声を発すると、他の三人も堰を切ったように怒鳴り始める。


 内容は一人一人違ったが、要するに「舐めるな」と言いたいらしい。


 一通り取り巻きたちの暴言を聞いたトーガは、一人だけ下卑た笑みを浮かべていた頭目格のゲンシャに素直な気持ちを述べた。


「悪いが俺は一刻も早く家に帰りたいんだ。いい加減に道を譲ってくれないか?」


 トーガの家に続く道は左右の幅が狭く、五人の男たちに道を塞がれていては無視して素通りすることもできない。


 ならば道ではなく茂みを通り抜ければいいと思うだろうが、下手に茂みへ足を踏み入れればハブの毒牙を受ける危険があった。


 医者として命の重みを痛いほど知り尽くしているトーガだ。


 不用意に茂みに足を突っ込んで命を危機に晒したくはなかった。


 それゆえにここは穏便に事を運びたかったのだが、ゲンシャたちはトーガを素通りさせるつもりはないらしい。


 誰一人としてまったく動く気配を見せなかったからだ。


 トーガは困惑した表情で前髪を捲し上げた。


「ここで俺を待ち構えていた理由は何だ? 単に悪口を言うだけじゃないだろ?」


「まあな、さすがに俺もそこまで暇じゃねえ」


 答えたのは鼻先を親指で掻いたゲンシャだ。


「ここで待ち伏せていたのはお前に忠告することがあったからだ」


「忠告?」


「ああ、今後はナズナと必要以上に親しくすんじゃねえぞ。あれは俺の女だ……まあ、これからそうなる予定なんだがな」


 ゲンシャの口から出てきた言葉にトーガは唖然とした。


 今まで人並み以上に頭が悪い男だとは思っていたが、ここまで頭が悪すぎる男とは思わなかった。


 またゲンシャという男が迷惑千万な乱暴者だということは周知の事実だ。


 それこそ気に食わない相手を喧嘩や角力(相撲)で怪我を負わせた例は枚挙に暇がない。


 何せゲンシャが怪我を負わせた相手を治療してきたのは誰でもないトーガなのだ。


 その度にトーガは患者からゲンシャの乱暴振りを延々と愚痴られ、用があっても絶対に近づくなと忠言を受けていた。


 それにトーガは知っている。


 ナズナはゲンシャのことが死ぬほど嫌いなことを。


「残念だったな、ゲンシャ。ナズナはあんたには振り向かんよ。あいつはあんたのような暴れるだけが能の男には興味がないんだ。素直に諦めたほうがいい」


「何だと!」


 次の瞬間、ゲンシャの下卑た笑みが見る見るうちに消え去り、六尺(約百八十センチ)の肉体からは禍々しい殺気が放出された。


 力を込めた両腕の筋肉に無数の血管が浮かび、糸のような細目が怒りで大きく見開かれる。


「そうかそうか、ようやく分かったぜ。お前は家々を回りながらそうやって俺の評判を貶めていたのか。ナズナが俺に振り向かないのもお前のせいだったんだな」


 どんな考えをすればそんな結論に至るのだろう。


 さすがのトーガもゲンシャの単純な思考に呆れたものの、それ以上に相手を焚きつけてしまった己の愚考を恥じた。


 だが、そんなことを差し引いてもゲンシャは人間としての器が小さすぎる。


 ここ最近はモーアシビ(毛遊び)に参加していなかったトーガは、久しぶりに見たゲンシャの今後に一抹の不安を感じた。


 短絡的思考の持ち主であるゲンシャを野放しにしていれば、いつか取り返しのつかない騒ぎが起きるような気になったのだ。


 喧嘩ですむうちはまだいい。


 しかし、それが殺し沙汰になった場合はどうか。


 などという考えが脳裏に過ぎった直後であった。


「お前ら、そこで何をしている!」


 ゲンシャたちは一瞬だけ身体を硬直させると、すぐに我に返って振り向いた。


 腹の底まで響くような男の声はゲンシャたちの後方から聞こえてきたからだ。


 つまり、ゲンシャと対峙していたトーガには真っ先に男の姿が見えたことになる。


 トーガは左手に布包みを持った男を見て安堵の息を漏らした。


 全員の視線を一点に集めた男は緋色地の着物を着こなし、ほどよく赤褐色に焼けた肌は健康そのもの。


 すっきりと通った鼻筋に意思の強そうな黒瞳が炯々と輝き、醜くない顔立ちからは異性同性関係なく引き付けられる不思議な魅力を醸し出している。


 だが男の一番の特徴を挙げろと言われれば、誰もが意見を重ねるだろう。


「ゲンシャ、あんたらには耳がついていないのか! 俺の親友を大勢で取り囲んで何をしているのかと聞いているんだ!」


 男の名前はティンダ。


 今年で十八歳になるというのに、髪の毛がすべて純白に染まっていたトーガの幼馴染であり親友であった。 

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