秘拳の五 八重山の塩事情
「お前には関係ねえだろ。引っ込んでいろよ、ティンダ」
「そうはいくか」
ティンダはずいっと一歩だけ足を踏み出した。
「あんたらも男衆の端くれなら男衆としての自覚を持て。それともあんたたちがトーガに詰まらない因縁を吹っかけて喧嘩を売ったことをカメバァに報告されたいのか?」
「カメバァ……ツカサ様にか」
さすがのゲンシャたちもカメの名前には適わなかったのだろう。
おもむろにゲンシャは取り巻きの連中に首をしゃくった。
「覚えとけよ、ティンダ。この借りは近いうちに返すぜ」
ゲンシャは唾を地面に吐き捨てるなり、取り巻きの連中を引き連れながらトーガの横を通り過ぎた。
そのまま集落に続く曲がり角へと消えていく。
やがてゲンシャたちの姿が完全に見えなくなると、五人を相手に威勢よく啖呵を切って見せたティンダが近づいてきた。
「とんだ災難だったな、トーガ」
「ああ、お陰で助かった。それにしても久しいな、ティンダ。こうして顔を合わせるのも十日振りか?」
「十日じゃない。十一日振りさ」
久しぶりに見る親友は何一つ変わってはいなかった。
ゲンシャたちと同じ男衆の一人でナズナの実兄であるティンダは、主に根森村で生産された工芸品を石垣島の仲間村に持ち運ぶ仕事を担っている男の一人だ。
それだけではない。
ティンダは数年前から石垣島に滞在している明国人から後学のために明国語を習っているのだという。
「それにしても危ないところだったな。俺が現れなければお前は昔みたいに酷い目に遭わされていたぜ」
「そうだな、お前には心の底から感謝するよ」
ただ、とトーガは目眉を細めた。
「一つ気になったことがある。訊いてもいいか?」
「何だ?」
「どうしてお前は俺の家がある方角から現れたんだ?」
ティンダは「ああ、それはな」と高笑した。
「二刻(約四時間)ほど前からお前の帰りを待っていたんだが、全然お前が帰ってこないから待ち疲れて戸口の前で少し眠っちまったんだよ。そんで起きたらもう夕暮れだ。仕方ないから今日のところは引き上げようと帰り道を歩いていたら」
「都合よく俺たちに遭遇したと?」
「ダールヨー(その通り)」
ティンダは唇の端を吊り上げると、左手に持っていた布包みを差し出してきた。
トーガはわけも分からずに布包みを受け取る。
「これは?」
ティンダから受け取った布包みの中身は小さな壷に違いない。
布で中身が包まれていようとも重みと形でそれぐらいのことは容易に判別できた。
「塩を入れた壷だよ。ナズナから聞いたぜ。俺がいない間に何度もオジィの身体を診てくれたそうだな。でも、お前はまったく金を受け取らなかったそうじゃないか。だから俺は顔合わせも兼ねて塩を持ってきたんだ」
「塩だって!」
これにはトーガも驚きを隠せなかった。
日々の生活を営む中で塩は欠かすことのできない貴重な物だ。
けれども約百年前に琉球王府に与された八重山では製塩作業は一切行われていない。
塩の生産に携わると王府に納める年貢米の生産量が減ってしまい、また八重山では古来より海水を炊くと災いが起こるとされて誰も塩を作らなかったからだ。
しかし塩は食生活に必要不可欠な物なので、八重山で暮らす島人たちは必然的に異国から塩を買うしかなかった。
根森村に住む人間たちもそうだ。塩は大和の薩摩藩からすべて購入している。
「ちょっと待ってくれ、ティンダ。塩をくれるのは嬉しいが、これは壷の重さを差し引いてもかなりあるぞ。三、四人家族が使う量で一ヶ月分はあるんじゃないか?」
「いいってことよ。俺とお前の仲だろ」
「いいわけないだろ。この量はさすがに貰えんよ。このまま持って返ってくれ」
「ベーヒャー(嫌だね)、やると決めた物を返されても俺が困る」
ティンダは絶対に受け取らないとばかりに走り出した。
「おい、ティンダ。この塩はどうすればいいんだよ」
「どうもこうもねえよ」
卓越した健脚で一気に五間(約九メートル)以上も移動したティンダは、布包みを持ったまま呆然とするトーガに言い放った。
「余計なことは考えず素直に受け取っとけ。それと久しぶりに会ったんだ。数日後のモーアシビ(毛遊び)には付き合えよ。じゃあな」
それだけ言うとティンダは曲がり角の奥へと消えてしまった。
「まったく、あの豪快な性格は童子のときから変わらないな」
トーガは仕方ないと振り返り、布包みを携えながら家路を急ぐ。
今日の夕餉は塩をまぶした握り飯だな、と微笑みながら。
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