第5話 炎の御令嬢
地恵期20年 4月2日 6時40分
トレイルブレイザーベース 訓練場C 休憩室
「…ん、ここは…?」
「よかった、ようやく起きた!」
瞼を開いた瞬間、視界に飛び込んできたのは相変わらず吸い込まれるような黒い天井と、顔をぱあっと輝かせたロビンの姿だった。
「突然倒れたから、訓練場の休憩室に連れて来たんだよ。まだ20分くらいしか経ってないけど、もう大丈夫なの?」
彼の言葉を聞きながら、ファレムはベッドからゆっくりと体を起こした。完全ではないが、疲労は大方抜けている。近くに用意されていた水を口に含むと、ファレムは傍で看病していたロビンを睨んだ。
「あんた、この機会に乗じて変なところ触ったりしてないでしょうね?」
「へ、変なところ!?ないない!触ってない!」
顔をブンブンと横に振るロビンを横目に、ファレムは調子を崩さずに言い放つ。
「冗談よ。あんたにそんな度胸は無いものね」
顔を赤くするロビンを横目に、ファレムはそう言ってくすりと笑った。ロビンにとって、彼女の笑顔を見るのはこれが初めてだった。
「……そういえば、君の名前についてずっと聞きたかったことがあるんだ」
「…?何よ急に」
改まったように調子を取り戻すロビンの声に、ファレムは首を傾げる。
「大隊分けの時、ファレム・ワテラロンドって呼ばれてたよね?あれからずっと気になってて…」
ロビンの質問の意図に気づき、ファレムは一瞬言葉を詰まらせた。しかし思いの外早くそれを受け入れると、彼女は首を縦に振った。
「ええそうよ。あんたの予想通り」
「つまり、本当にエボリテス・ワテラロンドの御令嬢…ってこと?」
「そうって言ってるでしょ?同じこと2回も言わせないで」
エボリテス・ワテラロンドは、第7洞窟内で流通するオブジェクトの8割以上を生産している【オメガツール】という企業のCEOである。オメガツールの社員から人格者として慕われている彼は、TVや雑誌にも度々出演している超有名人で、推定総資産額は大統領以上。説明するまでもない超大富豪だ。
そんな彼には二人の子供がいる。顔も名前も公表されていないが、噂によると10代後半の娘だという説が濃厚らしい。メディアはそんな二人の正体を掴むのに躍起になっているのだが、まさかそのご令嬢が目の前に実在しているとは夢にも思わず、ロビンは口をあんぐりと明けた。しかも、本人がこうもあっさりと受け入れてしまうとは。
「すっ、凄いな!光栄だよ!まさか都市伝説紛いの人物と友達だったなんて!どうりでお嬢様っぽい雰囲気を感じたわけだ」
「何それ、嫌味?」
「そんなまさか!オメガツールの御令嬢ってことは、もしかしてサラマンダーも特別な物だったり…?」
そう尋ねたロビンは、ファレムのサラマンダーに視線を向ける。彼の興奮し切った声が静かな休憩室中に響き渡り、ファレムは顔をしかめながらも頷いた。
「や、やっぱり!?オブジェクトの知識はある程度持っているつもりだけど、あんなの見た事ないからさ。オーダーメイドとかかな?」
「ただのプロトタイプよ」
「ってことは、いずれその製品版も正規販売されるってことか!それを先行して使えるなんて凄いね!」
「馬鹿ね。そんないい物じゃないわ」
ファレムはそう言い返すと、残念そうな目でサラマンダーを眺める。その視線は、まるでサラマンダーを呪うかのような冷たいものだった。
「サラマンダーって名前も、火の精霊の名を冠したものだよね。サラマンダーがあるってことは、もしかして他の精霊の名を冠したオブジェクトも?」
「実際にプロトタイプが完成しているのは2つだけよ。残りの2つは開発段階らしいけど、詳しい事は知らないわ。正直お父様の仕事には興味ないし」
「どうして?」
「別に深い意味なんて無いわ。ただ興味無いだけ」
「そ、そっか…」
段々と彼女の顔に翳りが差していくのに気付き、ロビンは口をつぐんだ。一度話が途切れて休憩室に沈黙が訪れると、ファレムは徐にベッドから立ち上がる。
「お喋りはこれでおしまい。十分休憩は取れたわ。早く訓練に戻るわよ」
「戻るって言ったって、朝食の時間まであと20分しか…」
「あと20分もあるじゃない。時間は有限よ?」
調子を取り戻したファレムはテーブルのサラマンダーを手に取り、軽快な足取りで出入り口の前に立った。
「ほら、あんたも早く来なさい。これからはあなたが私のトレーナーよ。光栄に思いなさい」
「えっ!ちょ、ちょっと待ってよ!」
急いで準備をするロビンを放ったらかして、ファレムは悠々と射撃訓練場へと向かう。その最中で彼女が小さく口にした「ありがとう」の言葉が、ロビンの耳に届くことはなかった。
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