あの日の忘れ物

青樹空良

あの日の忘れ物

「奥山さんって彼女いないんですか?」

「ああ、うん」

「えー、もったいない。いいなって思う人もいないんですか?」

「そういう人もいないな」

「じゃあ、私。立候補しちゃおうかな」

「ごめん。今はあんまり恋愛とか興味なくて」

「そんなぁ。仕事も出来るし、素敵なのにもったいないですよ。業務の教え方も優しいし、わかりやすいし、頼りになるし、前からいい人だなって思ってました」

「そうかな。仕事とプライベートだと違うかもしれないよ」


 俺は困ったように笑ってみせる。

 言い寄ってきているのは、飲み会で隣になった佐原さはらさんだ。最近、派遣で俺のいる部署に入ってきた。

 どうやら目を付けられていたらしい。今日はぐいぐい迫ってくる。


「好きな人がいないなら私でもよくないですか? お試しでどうです?」

「いや、遠慮しとくよ」

「そんなぁ」


 お酒の勢いならいけると思っていたのだろうか。


「佐原さん、奥山おくやま君が困ってるぞ~」

「はーい、すみませーん」


 茶化すように上司が助け船を出してくれた。

 助かった。

 佐原さんは、残念そうにしながら今度は別の男性社員の隣に移動している。現金だなと思いながら、俺はほっとする。

 社会人になってから、何度か女性から好意を寄せられたことはある。理由はさっき佐原さんに言われたようなことが多い。

 仕事でいい人だからといって、私生活でも合うかどうかなんてわからないと思うのだけど。

 学生の頃は違った。いや、同じかもしれない。

 だけど、仕事なんて無くて、あるのは私生活と勉強と遊びくらいだった。それと、恋。

 お世辞にもろくなことをしていたとは言えない。

 それでも、あの時は……。

 思い出すだけで胸が苦しくなる。

 だから、俺は恋が出来ない。




 ◇ ◇ ◇




 飲み会の次の日。


「新しく入った派遣の水澤みずさわさんです」

「水澤です。よろしくお願いします」


 頭を下げて、上げた顔。

 その顔に、俺は驚いた。

 スーツは社会人のそれだし、メイクもこなれている。

 けれど、見間違うはずが無い。

 彼女はにっこり笑って周りを見回して、俺を見つけて目を留めた。

 俺の時間は止まっていた。

 違う。あの頃に戻っていた。

 彼女、水澤あかねはすぐに俺から目を逸らした。目が合っていたのは、ほんの一瞬だった。




 ◇ ◇ ◇




「茜!」


 人気が無い廊下で、俺は声を掛けた。


「なんですか、奥山さん。下の名前で呼ぶの止めてください。会社ですから」

「あ。ご、ごめん。じゃなくて、すいません。水澤さん」

「はい。なんでしょう」


 心なしか茜が冷たい。当たり前だ。

 茜は俺の大学時代の彼女だった。

 茜の姿を見て、話し掛けずにいるなんて無理だった。

 そんな俺に対して、彼女はどうにも不機嫌そうだが。


「あの、よかったら、今度どこか食事でも行きませんか」


 小さな声で俺は言った。誰かに聞かれでもしたら面倒なことになりそうだ。女性の誘いを全て断っている俺が、派遣社員が来た初日に食事に誘うなんて大ニュースになってしまう。


「はい? いきなり? なに言ってるの、しげる

「あ、うん。嫌だったら断ってもいいけど」


 と、言いながら本当は断って欲しくなんかない。


「別に、いいよ。せっかく再会したんだし。思い出話も悪くないかな。さすがにもうあの時とは違うし」


 茜の返事に俺は心の中でガッツポーズした。

 茜もいつの間にか素の口調になっている。それが嬉しい。




 ◇ ◇ ◇




 俺は茜と二人で向かい合って、居酒屋でビールジョッキをカチンと合わせた。


「学生の時はひどい飲み方してたよね。止める人が誰もいなくてさ。みんなべろべろに酔っ払って」

「そうだったな。今はそんなことしないけど」

「ねー。職場でも落ち着いた感じだったし。仕事の出来る男って感じ」

「そうかな」


 嬉しくて思わず顔に出てしまう。

 けれど。


「相変わらず、誰にでも優しいみたいだね。奥山さんは頼りになるって、色んな女の子から言われたよ」

「う」


 茜の言葉に俺はぐさりと心臓を刺される。

 これでは、あの時の二の舞だ。


「私なんて特別じゃ無かったんだもんね?」

「それは……」


 まだ誤解されているらしい。

 それでも、あの時はそういうものかと別れてしまった。


「あの感じだと女の子には不自由して無さそうだよね」

「違う」


 俺は言った。

 あの時は失敗した。だけど、今は違う。

 せっかく、再び茜に会えた。

 もう二度と会うことなんか無いと思っていた。

 こうして会えたことが奇跡なら。


「茜だけが特別だったよ」

「嘘。サークルでも後輩の女の子とか、誰にでも優しかったでしょ。ゼミの女の子と仲良さそうに話してるのも何度も見たよ。で、そういうところばっかり見せられて、私が我慢できなくなっちゃったんだよね。それでダメになったんだよ、私たち」

「違うんだ」

「でも、私が別れようって言ったときに同意したでしょう? それが答えだったんじゃないの?」

「……確かに。茜が俺といて幸せじゃ無いなら別れた方がいいと思ったんだ、あの時は」

「あの時は?」

「だけど、ずっと後悔してる」

「他の女と付き合ってみてあんまり合わなかったとか?」

「……それが」

「?」


 こんなことを言ったら気持ち悪がられないだろうか。

 だけど、隠していても仕方ない。


「あれから、誰とも付き合ってない」

「は?」

「茜のことが忘れられなくて、全部断ってる」

「……なに、それ。断ってるってことは告白とかされてるってこと? それでも、付き合ったりしてないの?」


 茜がぽかんと口を開けている。


「そうだよ。確かに俺は誰にでも優しいかもしれない。だけど、それは好きだからそうしているんじゃなくて、そうした方が周りの人と円滑でいられると思ってるだけなんだ。けど、茜だけは違う。好きだから優しくしたかったし、一緒にいたかった。別れてわかった。俺、茜のことがすごく好きだった。別れたことを今でも後悔してるくらい」


 多分、俺は今気持ちの悪い男なんだろう。

 だけど、いい。構わない。


「もう一度、付き合ってください」


 目を合わせるのが怖くて、俺は下を向いていった。

 しばらくの間を置いて、ため息が聞こえた。


「バカじゃないの」


 俺はがっくりと肩を落とす。

 これは振られた。

 だけど、茜は続けていった。


「そういうことは、目を見て言うもんでしょ。そういうとこ、ヘタレなんだから」

「え、じゃあ……」


 俺は顔を上げる。

 茜はやれやれと肩をすくめて、けれど微笑んでいた。


「それ、あの時に聞きたかったよ。私だって、今思えばどうでもいいことに嫉妬しちゃうくらい繁のこと好きだったんだから。簡単に別れてくれるなんて、どうでもいいと思われてるのかと思ってた。ちゃんと説明してくれればよかったのに」

「それは、茜のことを思って……」

「だから、それがダメだったって言ってるのに」


 茜がため息を吐く。


「だけど、茜が特別だっていうのはちゃんと伝えようと思ってたんだ。あの頃も」

「いつ?」


 言われて俺は、鞄の中からごそごそとあるものを取り出す。


「なに、それ」

「……茜の忘れ物。ずっと渡したかった。これは茜の為に買った物だから」


 茜が首をひねる。

 そして。


「そういえば、別れた日に何か渡したい物があるって言ってたっけ。今になって物でなんとかしようなんて、ムカついて逆にすぐ飛び出しちゃった気がするけど」

「そうなんだ。でも、これ」


 茜が包みを開ける。

 もう二度と無いと思っていた瞬間。


「あ」


 茜が声を漏らす。


「これ、私が欲しいって言ってた……。学生なんかじゃ、絶対無理な値段だと思って全然期待なんかしてなかったやつだ」

「うん」


 俺は頷く。


「俺、口ではなかなか言えないから。茜が欲しがってたものを送ったらわかってくれるかなって……。結局、あの時は開けてすらもらえなかったけど」

「……バカ! バカじゃないの? そんなの、あの時言ってくれればよかったのに!」

「ごめん」


 なんて不器用だったんだろうかと思う。


「それに、こんな可愛いの今じゃ似合わないよ。学生の頃だったらよかったけどさ」

「そんなことない。今でも茜は可愛いから」

「バカ」

「今度はちゃんと言う。今も大学生の頃もずっと特別だと思ってるよ」

「さっきも聞いた。でも、嬉しい」

「それ、貸してもらっていいかな」


 俺は茜から指輪の箱を受け取る。


「手、出して」

「……うん」

 

 俺は茜の手を取って、その指にそっと指輪をはめた。


「やっぱり、似合ってる」


 俺の言葉に茜は嬉しそうに微笑んだ。

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