【第83話】 殻の外 1



 三日三晩、昏々と眠り続けて目を覚ましてから十日が経っていた。





▽△▽△▽


 目を覚ましてからの最初の五日間は寝台の上で過ごした。


 大事をとったのと、ベルやブランドたちにこれ以上の心配をかけないためだ。


 その間に熱は上がったり下がったりを繰り返したけど、それほど大きな変動はなく、ふり幅は少なかった。身体がだるくなることも、力が入らなくなるということもなかった。


 横になっているだけだったのでかなりの時間を持て余してしまった。昼に眠ってしまうと夜に眠ることができなくなる。昼間はベルに図書室から持ってきてもらった本を読んでいた。あとはただ、寝台の上をごろごろと転がりながら過ごした。


 ヴィーリアの仕事はだいたいのかたがついたとは言っていた。それでも毎日のように商会や鉱山などの事業関係者が訪れる。とても昼間にわたしの話し相手をしているような時間は取れない。


 「お嬢様が眠っていた三日間は、どなたの訪問もお断りされていました」と、ベルが教えてくれた。その三日間分の仕事のしわ寄せもきているようだった。


 夕食が済むとヴィーリアはわたしの体調を診みにきていた。ぱちんと指を鳴らして淹れてくれた紅茶を二人で飲んだ。紅茶の淹れ方は、もうベルにも劣らない。


△▽△▽△





 たっぷりと休養をとったために、最近の体調はとてもよい。身体の熱も安定してきている。


 鉱山でヴィーリアに魔術をかけられて眠りにつく前には、目が覚めたら、なにかが変わってしまうのかもしれないという思いをいだいた。それは、たぶん、恐れだった。自分では気が付かない間に、わたし自身のなにかが変わってしまうかもしれないという恐れ。


 そして……目が覚めた今。


 実際に、変わったことはいくつかある。


 まず。


 食欲が増した。


 なんだか食べても食べても、まだまだ食べられるのだ。


 今まではパンは一個で十分にお腹を満たしてくれた。おかわりをすることはほとんどなかった。だけど最近では毎食、パンのおかわりをしている。


 ケインはわたしの食欲があるのを喜んで、張り切ってパンを焼いてくれた。ケインの焼くパンはとても香ばしい。小麦の甘みも感じられる絶品なものだから、ついついベルにお皿を渡してしまう……。


 三回目のおかわりをしたあとにベルに小声で「お嬢さま……。ウエスト……」と囁かれた。ベルはヴィーリアに贈ってもらった大量のドレスが着られなくなることを心配していた。


 わたしが目を覚ました直後は、食欲があることをとても喜んでいたのに。……うう。


 ヴィーリアによれば食欲が増したのは一時的なものだろうということだった。魂を安定させるまでは、身体が大量のエネルギーを必要としているから、ということらしい。


 それならばドレスやウエストの心配はせずに今のうちにたくさん食べておこう。大丈夫よ、ベル。たぶん。


 それと。


 以前に比べると感覚が鋭くなったように思う。これはそう感じるということだけど。


 いつもではないが、ふとした瞬間に大気の流れだとか天候の変化を感じることがある。


 今までも例えば、湿気を含んだ空気や雨、雪の降る前の匂いなどは解った。でも、それとは明らかに違う感覚だった。大げさにいうと、わたしを取り巻く世界が大きく動いていることが解る感覚。

 大気が流れて雲が動き、水が落ちて大地が震える。それが、解る。


 言葉にするのはなかなか難しいけど、そういったこと。

 これは魔力を自覚した影響らしい。


 あとは。


 ヴィーリアの思考や情動が伝わるときの香りを感じることがなくなった。


 わたしの魂にヴィーリアの魂がより濃く混ざり込み、人よりもヴィーリア側……つまり人の理の外の者の影響を強く受けたために、思考や感情を香りとして受信していたことが、そのままの思考や感情に近い形で伝わるようになったためではないか、とヴィーリアは推測していた。


 考えていることがはっきりとした言葉で伝わってくるわけではない。でも、確かに以前よりはヴィーリアの澄ましている表情かおの下に隠れた感情が解る……ようになってきている、かもしれない。

 もう、嵐の雷の夜のようなあんなにも恥ずかしい思いはしなくても済むはずだけど……。わたしの強い思念や情動は、やっぱりヴィーリアには伝わっているはずで……。


 あまり……深く考えることはやめよう。精神の衛生上よくないと思う。うん。常に平常心。


 それから。


 毎朝の依代の徴収はなくなった。


 もともと、わたしの血はヴィーリアをこの世界につなぎ止めるために必要なものだった。


 今はその役割をヴィーリアに混じったわたしの魂が果たしているらしい。体温のほかに、このこともヴィーリアに与えた影響だった。


 「大きな力を使ったときや、そうですね……まあ、たまには嗜好品として遠慮なくいただきますが」と、爽やかに微笑んでいたけど……。


 そして。


 わたしにとって……いや、わたしとヴィーリアにとって?


 一番の大きい変化。ヴィーリアは本当の婚約者になった。ということだった。


 もしかすると気が付いていないだけで、もっと変わったことがあるのかもしれない。でも、気が付いていないのなら、変わっていても、変わっていなくても同じ。どちらでも構わない。そう、今は思っている。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る