【第82話】 あなたの隣で 2



 髪と同じ色の長い睫毛に縁取られ、ぴったりと合わさって閉じられていた瞼がゆっくりと開かれた。

 深い紫色の瞳は艶を含んで光るとわたしをからめとってゆく。


 掴まれている手首の力はまったく弛まない。離す気はないらしい。逃げるに逃げられない。

 口角がわずかに上がる。


 『貴女はまだ、それを言う……。では……試してみましょうか?』


 なにを!?


 『絶対にイヤ!』


 掴まれている手首を振りほどこうとして必死に力を入れるが、びくとも動かなかった。


 『くっ』


 わたしの様子を眺めて、ヴィーリアが喉の奥で哂った。


 『なにが……おかしいの?』


 哂うところなんてどこにもなかった。


 『貴女は本当に……からかい甲斐があり』


 最後まで聞かなかった。

 思いっきり膝を曲げてからヴィーリアを蹴飛ばした。

 長い脚はそれでも微動だにしなかったけど。顔色も変わらなかったけど。


 たぶん、蹴ったわたしの足の方が痛かった。


 やっぱり……ヴィーリアなんて、なにも全然わかっていない。


 こんな風にからかうなんて。


 わたしの気持ちを知ったくせに……なんの答えもくれないくせに。


 『「いいのです。咎めているわけではありません。言ったでしょう? それが人間です。……そして今の貴女は非常に人間らしい。とても……美しいですよ」』


 思わせぶりなことを言っていた。

 だから、それはどういう意味なの?

 でも、還ってしまうんでしょ? それはいつ? 魔術師としては契約をしてくれるの? わたしの記憶は消していってくれるの?


 『ミュシャ』


 『イヤ。手を離して。わたしを見ないで!』


 下を向いて顔を隠した。わたしの両手首がヴィーリアの片手にまとめて掴まれる。

 もう片方の手で顎を掴まれて強引に持ち上げられた。


 『見ないでよ。これは……汗なんだから!』


 まなじりに唇が近づいて器用に掬われる。


 『やめて……』


 『話を聴きなさい……貴女は私のものだとこれまでも何度も申し上げてきました』


 諭すように囁く。


 目を伏せた。今は紫色の瞳を見たくない。


 『だから……なに? 今までの契約者たちにも同じことを言ったんでしょ?』


 『……否定はしません。しかし、それとこれとは話が別です。私たちの魂は非常に相性がいい』


 『そんなの何回も聞いたわ』


 『その上、今ではもう、どれほど混じっているのかさえ……』


 『……』


 『ミュシャ。私を見なさい。貴女はご自分が……私にとっても特別だということを理解していない。解っていないのは貴女です。ご自身に関することには鋭いほうではないと思っていましたが……まさかこれほどだとは。ご自慢の勘も貴女自身にはまるで働かないのですね』


 ヴィーリアにとっても特別……。


 確かに、魂が混じることは今までにもなかったと聞いていた。

 だけど……思い違いかもしれない。

 とりあえず、遠回しに鈍感だと言われたことはわかったけど。


 『……はっきりと言ってくれなくちゃ解らないわ』


 ヴィーリアはやれやれというように深いため息をついた。


 『貴女の魂に触れてから、私には貴女が見ている夢が流れてくる』


 『……?』


 『私が眠らない深い夜の狭間はざまに、貴女は夢を見ている。だいたいが明るい雰囲気の夢ですね。美味しいお菓子を食べたとか、妹やベルたちと畑に行ったり、森で収穫をしていたり、湖で釣りをしていたり』


 全部食べ物関連の夢じゃないか。本当に……子どもみたいだ。 


 『……ですが、私のいない夢を見ていることもありました』


 ……そう。見ていた。そして夜中に起きてしまうのだ。


 今のすべてが夢で、目覚めたらヴィーリアが召喚よばれる前の現実だったという夢を。


 ……ヴィーリアを忘れたら、その日々に戻るだけの、それだけのこと。


 『貴女は私に夢を教えてくれた。私は貴女の楽しい夢とやらをずっと隣で見ていたい。そうですね……二人でボートに揺られて流星群を眺めた夜のような夢を』 


 『……』


 以前にヴィーリアが湖でロロス司祭様の小さくて丸い木枠に嵌った鏡を湖底に沈めたときに、二人でボートに乗ったけど……。流星群? ……でも、あのときに、以前にもこんな風に二人でボートに揺られて、ヴィーリアが笑っていたようなおかしな既視感を覚えた。


 それはわたしが見た夢なの?

 ずっと隣で見ていたい……?


 『貴女は憶えていないかもしれませんね……。まだわかりませんか? 指輪の意味も?』


 掴んでいた手首を離して左手の薬指に触れる。


 婚約指輪と称して贈られた薔薇の蕾のようにカットされた紫色の緑柱石ベリルが優しく、柔らかな光を投げかけた。銀のリングは髪の色。宝石は美しい瞳の色。


 『わたしを……縛るため』


 『間違いではありませんが……。貴女は本当に……呆れるほど鈍いですね。それとも、私を焦らしてたのしんでいるのですか?』


 『そんなこと……。はっきり言ってくれなくちゃ解らないもの』


 『何度でも言います。貴女は永遠にわたしのものです。記憶の一片いっぺんでさえ。この世界で貴女の命が宿命通りに尽き、そしてそののちも私と共にあるように……』


 深い紫色の瞳に蕩けてゆく。


 それは……。わたしの都合のいいように考えていいの?


 還らないの? ずっと一緒なの?


 ヴィーリアの唇が微かに上がり、肯いた。


 『だから……試してみましょう。貴女の傍で……私が眠ることができるのか』


 わたしの手を取り、ヴィーリアの額に触れさせる。


 『貴女の手でかけてください。眠りの魔術を』


 魔術なんか使えるわけがない。だけど、ヴィーリアがわたしにかけたように、見様見真似みようみまねで瞼の上に手をかざす。


 手の動きに合わせて、ゆっくりと瞳が閉じられた。



△▽△▽△





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