【第81話】 あなたの隣で 1



*目覚めた朝の回想回になります。





△▽△▽△



 瞼を開けると薄い闇の中に見慣れた天井があった。


 青い蝶が一羽だけ翔んでいて、周りを仄かに青く照らしている。


 わたしは屋敷の自分の部屋の寝台にいた。


 室内には青い燐光からのがれた薄闇が残り、カーテンの隙間からも陽は入ってはいない。窓の外から鳥のさえずる声も聞こえない。屋敷の中もまだ静かだ。


 明け方の少し前の時間のようだった。


 寝台の隣には椅子が置かれ、ヴィーリアが座っていた。ヴィーリアの右の手はわたしの左手をしっかりと握っている。


 『やっとお目覚めですね』


 ほっとしたように微笑んだヴィーリアの襟元のタイは弛められていた。

 なんだかくたびれて、疲れているようにも見える。


 『気分はいかがですか?』


 あの身体の熱と重さが嘘のようになくなっていた。熱さもなく、身体も軽い。だるさもとれている。


 『なんだか、とてもいい気分よ』


 頭もすっきりとしている。

 ゆっくりと身体を起こすと軽い眩暈がした。


 ヴィーリアはすぐにガウンを羽織らせてくれた。


 髪の寝ぐせが気になって、後ろ髪を撫でつける。ほつれた髪を耳にかけてくれたヴィーリアの左手の指と、わたしの指先とが触れた。


 ……あれ?


 『……貴女はこの三日間、眠り続けていました。水分は取らせましたが……。林檎でも召し上がりますか?』


 いつのまにかヴィーリアの手の中には真っ赤に熟した林檎があった。


 『そう……ね。ありがとう』


 ぱちんと指が鳴る。白いお皿の上にきれいに皮を剥かれた八等分の林檎がのせられた。水溶性の甘くて酸っぱい香りを嗅ぐと、お腹が空いていることを自覚した。


 ひと口ひと口をゆっくりと噛みながら飲み込む。しゃくしゃくとした果肉と甘酸っぱい果汁が空腹と渇きを癒す。


 だけど、三日間なにも食べていなかった胃は、三切ほど食べたところで満足してしまった。


 『朝にはまだ早い。もう少し眠りなさい』


 『……ヴィーリアは? とても疲れているみたい』


 さっきまで眠っていたわたしよりも、ヴィーリアの方がよっぽど睡眠を必要としているようだった。


 『申し上げたように、私は眠り』


 言葉の途中でシャツの袖を引いた。


 『……なんですか?』


 『もしかしたら……眠れるかも。ヴィーリアだってわたしの魂の影響を受けているかもしれないでしょ?』


 そう。もし、わたしがヴィーリアの眠りの魔術に頼らなくてもまだ眠ることができるのなら。


 影響を受けるのはわたしの魂の方が大きいとしても、ヴィーリアだってわたしの魂の影響を受けていないとは言い切れない。

 だって、さっき……。


 『それは……お誘いですか?』


 紫色の瞳が細められて、夜の残り香を振りまいた。口角が意地悪く上がる。片手で襟元のタイをさらに弛めると、寝台に片膝をついて上がり込んできた。


 『違うよ!?』 


 なんだかもはや、こういったヴィーリアの行動も想定内のことになりつつある。


 わたしの隣に勝手に横になり、肘をついて手の甲に頭をのせる。白銀色の髪が乱れて寝台の上に広がった。頬の横に落ちた一筋の髪と、珍しく疲労を滲ませたような目元が退廃的な色香を纏う。


 慣れたとはいえ……いや、やっぱり慣れないかも。


 『客間で眠ればいいでしょ? もう、ロロス司祭様の心配もないし』 


 『貴女が寂しがると思いまして』


 ヴィーリアは長くて白い人差し指を自分の唇の上に置き、すっと横に引いた。


 『そんなことは……』


 言いかけて、それを見て……思い出した。


 そういえば、わたし……なにをした!?


 とっさにヴィーリアから距離を取って逃げようとした、その瞬間。


 腕を掴まれて寝台の上に引き倒された。

 あっという間に背中に両腕を回され、胸の中に囲われる。


 そして……顔を上げた。


 やはり、気のせいではなかった。

 わたしの熱が移動したのでもなかった。

 握られていた手も、触れた指先もそうだった。


 『気が付いたのでしょう?』


 深い紫色の瞳と目が合う。


 背中に回した腕をほどいてわたしの左右の手首を取る。両方の手をヴィーリアの頬へと導いた。手のひらが白くなめらかな頬に触れる。


 ヴィーリアの頬が、肌が……温かい。


 『貴女の熱が私に宿った。そうですね……貴女の言う通り、私も少なからず影響を受けている』


 そう囁くと、瞼を閉じて紫色の瞳を隠した。

 わたしの手のひらに甘えるように頬をすり寄せると、柔らかな人肌の唇をつける。


 熱が退いたというのに、また頬が、顔が、身体が熱くなる。苦しいくらいに、うるさくどきどきとする心臓の音がそのままヴィーリアに伝わりそうだ。


 ……どうしよう。


 雷の嵐の夜のように……あの濃厚で蠱惑的な甘い甘いバニラの香りがしてきたら。

 もう、あんなに恥ずかしい思いは絶対に、絶対にしたくはないのに。

 ……告白なんていうこともしてしまったけど、あの雷の夜の恥ずかしさだけは別。

 平常心……とは思っていても、たぶん、もう、遅い。


 『手を離して……』


 声が震える。




 

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