【第76話】 光と闇 2



 ロロス司祭様はわたしをかして、さらに手を伸ばしてくる。


 「触らないで……」


 なんとか倒れずに踏みとどまった。声を絞り出し、かすれた声でロロス司祭様を拒む。


 指輪はまだ熱い。紫色の緑柱石ベリルも明滅を繰り返す。


 左耳に刻印された魔法陣に、心臓が強く脈を打ったような、どくんとした衝撃が突き抜けた。今まで感じたものとは比べものにならないほどの熱と疼きがともる。それが一気に全身に広がった。足の爪の先まで熱い。

 身体の内側を柔らかな、温かいなにかが這い回る感覚がひどくなまなましい。今は意識だけのはずなのに。


 その意識も細かく千切れたかけらになって、でも連続して繋がっていて、四方八方に乱反射して、また収縮しては飛び散ってゆく。


 以前に図書室で感じたあのめちゃくちゃな感覚。でも、あれ以上にもっともっと鮮明で、もっともっと鮮烈だ。目の前が白く霞んで空間以上に真っ白になる。


 もう、限界だった。立っていられない。


 次の瞬間、膝をつく寸前だったわたしを、腰から掬い抱き止める冷たい腕があった。


 「神殿は昔から変わらないようですね」


 頭の上で響いたその声は……。

 すぐさま見上げる。深い紫色の瞳と目が合った。


 腰に回された冷たい腕を両手でぎゅっと、かたく掴む。


 「遅くなりました。……大丈夫ですか?」


 耳の横で囁く。


 ただ、うんうんと肯いた。


 わたしを引き上げて立たせると、かたわらに強く抱き寄せる。


 でも。


 「……どうして?」


 それしか言葉が出てこなかった。


 だって、これって……まさか。


 ヴィーリアが現れた途端に眩暈も、焼け付くような指輪の熱も、首の後ろのひきつれるような痺れも、紫色の緑柱石ベリルの光の明滅も弱くなり、徐々に治まりはじめていた。周囲に散乱しては収縮するあの意識の感覚と、身体の内側を柔らかくて温かいなにかに這い回られるような違和感と疼きも消えていた。


 だけど、灯った熱はまだ退いてはいない。


 「貴女の魂に触れました」


 そんなことをしたら。


 「……どれだけ混ざったのか私にも解りません」


 自嘲するように口角をわずかに上げた。それからわたしの額に唇を落とす。


 前髪越しなのに、唇は冷たいのに、口づけられている箇所が熱い。じんと痺れてくる。

 ただでさえ熱が退いていないのに。

 ロロス司祭様の目の前なのに。

 さらに頬が熱くなる。


 額からゆっくりと唇を離すと、ヴィーリアはロロス司祭様に鋭い視線を定めた。射るように見据える。


 「これ以上は条約違反です。……私も黙っているわけにはいきません」


 紫色の瞳が濃く深く色を増してゆく。


 ロロス司祭様は額に手を充てて、うんざりとしたようにかぶりを振った。


 「あーあ、まったく。悪魔の執着は聞きしに勝るよ。……それ、これからどうするつもり?」


 「神殿には関係のないことです」


 「そう……でもないかな? 興味があるよ。悪魔と混じった魂の行く末。今はここに引き寄せられたようだけど……それはまだ、人の魂なのかな? それとも悪魔の魂?」


 黄緑色の瞳と目が合う。


 そんなことを訊かれても、わたしだって解らない。ただ……とても熱い。


 「さあ? どうなのでしょう? 教える気はさらさらありませんが。それにしても……相も変わらずに愚かですね。魔も聖も人間たちが勝手に区分し、名付けたにすぎないというのに」


 「それこそ戯言ざれごとだ」


 「人の理の外の者ということは同じです。違いはありません」


 黄緑色の瞳が鋭く光る。ロロス司祭様の顔からは飄々とした笑みが消えた。


 「人智を超えた存在だということには同意するよ。だけど……光と闇は決して同じじゃない」


 「光の存在を知るには闇が必要です。また闇も光の存在なしには闇にはなりえない。いうなれば……物事の表と裏のようなもの」


 「人を惑わす悪魔の分際でなにを……」


 「思い込みが強いですね。だから神殿は……。非常に迷惑です。おとなしく神殿に戻りなさい」


 心底うんざりとしたように、苛立ちが混ざるヴィーリアの声。


 「悪魔に指図される筋合いはないよ。お嬢さん、さあ、こちらへ」


 ロロス司祭様は再び手を伸ばそうとしたその時に――。


 「ぶんをわきまえなさい! 強すぎる光はすべてを焼き尽くす。……均衡を保つための条約です。いいかげんに退きなさい」


 空気が大きく震えた。

 すべてを包み込む夜の闇のとばりのような、おごそかな圧力を感じて動けなくなる。

 ヴィーリアの言葉は荘厳そうごんに、崇高に胸の内に沁み入ると沈んでゆく。この場を圧倒的に支配して、反論を許さない威厳をもって。


 たぶん……これが代理人であるロロス司祭様とであるヴィーリアとの違いなのだろう。

 

 「……」


 伸ばしかけた手を戻すこともできなくて、ごくりと息を呑みこんだロロス司祭様。あれだけ饒舌な口も閉じて、さすがに黙っている。

 それから疲労を滲ませるため息をついて、黄緑色の瞳を伏せた。

 濃い金色の髪をかき上げながら、後ろへと流す両手は震えているようだった。


 「……まあ、今回は……しょうがないよね。僕たちもやれるところまではやった。なんとか上にも報告できるかな。……セイン君が心配だから……先に戻らせてもらうよ。少し疲れたし。じゃあ、またあとでね。お嬢さん」


 そう言っていつものように微笑みながら、ひらひらと手を振る。

 足元から光の粒子がばらまかれるように散らされると、ロロス司祭様の姿は瞬く間に消えてしまった。


 白い空間にヴィーリアとわたしだけが残される。


 ……これで、終わったの?


 確認をするためにヴィーリアの端正な横顔を見上げる。

 視線に気が付くと口元を弛めて優しく微笑んだ。


 「ミュシャ。私たちも戻りますよ」


 肯くとヴィーリアの手のひらが瞼を覆った。





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