【第65話】 湖上の出来事 2



 顔の横に両手を張り付けられて、冷たい手につながれた。白く長い指を絡められる。白銀色の髪は傾いた陽光を反射してつややかに光り、わたしの胸にさらさらと流れて落ちてくる。


 ヴィーリアの肩越しに広がる空は、薄い青色の中にも橙色の光が混じり始めていた。

 わたしを覗き込む紫色の瞳は空の陰になって灰昏ほのぐらい。


 ボートは湖の上で右に、左にとゆっくりと揺れていた。


 「私が貴女と契約をしたときに、我々が対価をどう回収するかという話をしたことは覚えていますか?」


 じっとわたしを見つめながら静かに訊いた。


 表情は淡々としていて……いや、少し苛立っているようにも見える。なにか怒っている?

 でも今はなにも、焦げたような匂いもしない。


 「ミュシャ?」


 こたえないわたしに首を傾げる。


 ああ……ええと、確か。


 「わたしの命の炎が尽きたあと、ヴィーリアが迎えに来るって……」


 「そうです。しかし、正確には貴女の命の炎が宿命に従い尽きたあと、です」


 「宿命に従い? どう違う……」


 そこまで言って、気が付いた。

 わたしをつないでいるヴィーリアの指に心なしか力がこもる。


 もしかして。


 「……わたしの命が宿命通りに尽きなかったら、契約は解かれるの?」


 「そういうことです」


  でも。


 「宿命通りに尽きるとか、尽きないとかって……?」


 「貴女の未来はすべてが決定しているわけではありません。その時点で現在となる選択によって幾重いくえにも変化が生じます。ただし、この世界に命を持ったときに決められている種類のものもある。解りやすくたとえを挙げるとすれば……生まれや容姿、なにかの才能などです。それが宿命であり、人のことわりです。貴女が輪廻の輪に還るまでに過ごす時間も決まっていました」


 なんだかややこしいけど、つまり……。


 わたしの命の炎が輪廻の輪に還るまでの決められた時間をまっとうして、自然に消えれば宿命通りに尽きて、決められた時間をまっとうせずに不自然に消えれば宿命通りに尽きない、ということ?


 だけど不自然に消えるということは……。


 なにか嫌な予感がする。大抵、嫌な予感というものは当たってしまう。


 「宿命通りに尽きないということは、その命を途中で手折たおられた場合です」


 ヴィーリアはいつも通りに平然と言ってのけた。


 「……」


 手折られるって、つまり、そういうことだよね? あまり言葉にもしたくないけど……命を奪われる、ということでしょ?


 『でも、考えておいて。僕はお嬢さんの、その契約を解いてあげられるかもしれない……』


 ロロス司祭様の言葉が鮮明に頭の中に蘇る。


 ロロス司祭様に『こっちへおいで』と手を差し出されたときに、あまりにも神々しい清廉せいれんさをおそれた。


 わたしという存在の痕跡をすべて消し去って、一滴の染みさえ許されずに真っ白に染められてしまうような。そのあとに残るのはわたしだけど、わたしではない者だという予感。ある意味でそれは正しかったということだ。

 それはつまり、ロロス司祭様はわたしを……強制的に輪廻の輪に戻そうとしているということ。


 今さらながら、ぞくりと肌が粟立つ。


 「理解しましたか?」


 言葉もなく肯くと、絡められていた片方の指が離されて眉間を軽く押した。


 「ほら、また。貴女には……私がいます」


 その途端にヴィーリアの表情はふわりとける。なぜだか完璧な婚約者の微笑みをわたしに見せた。


 この男はいつも……ずるいと思う。


 今は。

 そう、今はまだヴィーリアがいる。


 だけど、わたしの願いの成就を見届けたらかえってしまう。


 闇の中に微かに輪郭をなしていたグラスを、ぼんやりと眺めた夜にも考えたことだ。


 それはいつ?


 ロロス司祭様の件が解決したら?


 男爵家の事業が本格的に軌道に乗ったら?


 シャールと伯爵のことにある程度の結論が出たら?


 いつ還ってしまうのだろう。

 だけど、口には出せない。


 ……それを訊いてしまったら、自分にも負けてしまうような気がするから。





***



 湖に鏡を沈めてから数日が経っていた。


 夜、わたしに眠りの魔術をかけては、朝に目を覚ます直前に客間へと戻ってゆくヴィーリア。


 深い眠りに落ちると、夢も見ない。朝の依代の徴収にも目を覚ますことはない。

 途中で起こされずに、ぐっすりと眠ることができるおかげでなんだか体調もよい気がする。


 ロロス司祭様にもあの夜以来、会うことはなかった。


 ヴィーリアは毎晩、ソファで本を読んでいるらしい。


 ベルにそれとなく寝相のことについて訊いてみると「お嬢様の寝相……ですか? それは、まあ、幼い頃はそれなりでしたが。今? 今もまあ、それなり……なのではないでしょうか?」と、つつと視線を逸らされながら返された。


 ……ううん。よく分からない。


 なにしろ眠っているのだから、自分では分からないのがもどかしい。




 公都にいるお父様とお母様からも手紙が届いた。アロフィス侯爵家を訪れて感謝の意を伝えたあと、シャールとフェイ、ノルンにも会えたそうだ。三人とも元気だと書いてあった。驚いたことに、ベナルブ伯爵も公都に向かうお父様たちのあとを追ったらしい。シャールが頼りにしているノルンが気になって居ても立っても居られなくなったとか。

 これは、お父様も人が悪い。わざと伯爵には教えなかったのだろう。ちょっとした意趣返しだ。


 ノルンはお父様よりも少し歳が上の女性だ。お母様のお友だちの姉だった。その伝手つてでわたしたちの家庭教師をしてくれていた。


 お父様はまだ伯爵がシャールを正式に訪ねるのを許してはいないそうだ。お父様がどのくらいの期間を考えているのかは解らないが、こればかりは仕方がない。


 お父様とお母様はアロフィス侯爵家にもうしばらくは滞在するとのこと。ヴィーリアにもくれぐれも宜しくと書かれていた。




***



 「今夜は出かけましょう。準備をしておいて下さい」


 夕食を終え、部屋に戻る途中でヴィーリアが言った。あとで迎えにくるという。


 夜に散歩? 


 どこに行くつもりなのかと尋ねると、それには答えずに「楽しみにしていて下さい」と言った。


 それから一時間ほどしたあとで、わたしたちは満月に近い月が照らす夜の山の中にいた。





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