【第64話】 湖上の出来事 1



 いち度、外套コートを取りに部屋に戻った。それから、裏の湖まで続く小路こみちを二人で歩いている。

 ヴィーリアはわたしの歩幅に合わせてくれていた。



 秋の陽はすでに傾いている。まだ陽射しはあるが空気は冷たい。いぶられたような秋の匂いが鼻の奥をくすぐると、どこか懐かしいような気持ちになった。


 足元に散る枯葉は吹く風にかさかさと音を立てて舞う。嵐の日の大風おおかぜでも枝に残った楓や銀杏いちょうの葉が、燃え盛る炎のような赤色、鮮やかな黄色に染まり目に眩しい。


 ずいぶんと季節が深くなっていた。



 遅い午後の図書室。ヴィーリアに少し散歩に行きませんかと誘われた。


 ただ散歩をするためだけに誘ったわけではないだろう。


 昨夜ゆうべ、眠らされて途中になってしまった話の続きを聞きたかった。


 だけど、ヴィーリアからはなにも切り出さない。二人で本当の散歩のようにただ、ゆっくりと歩く。白銀色の長い髪が歩調に合わせて揺れている。


 そのうちに小路が途切れて湖が姿をみせた。みどり色の水面みなもは波に揺らめいていた。傾いた陽射しを反射した湖面は少しだけ暗かった。


 ところどころ木が腐り、崩れかけた桟橋とボート小屋へと近づいたヴィーリア。

 振り返ると「乗りませんか?」と手を差し出した。


 「でも……」


 桟橋はもう何年も手が入っていないために、使えるような状態ではない。


 「問題はありません」


 ヴィーリアは指を鳴らした。瞬く間もなかった。桟橋もボート小屋も時が戻ったかのように、あの夏の日の思い出のままの姿を取り戻していた。ボートも一艘、桟橋の先の湖面に浮かんでいる。


 「さあ。どうぞ」


 わたしの手を引いて桟橋を渡り、自分が先にボートへと移った。それからわたしを支えて揺れているボートにいざない、隣に座らせる。


 ボートにはかいもない。それなのにゆっくりと湖の真ん中へと漕ぎ出す。翠色の湖面にボートの曳波ひきなみが広がってゆく。


 ヴィーリアが婚約者になった日に、湖畔を縁取っていたのは黄金色こがねいろの金木犀だった。

 今は背の高いススキが白い穂を垂らしている。リモール山脈やユーグル山脈から吹き降ろされて湖面を渡ってくる冷たい風に、ゆらゆらと白い穂をゆだねていた。


 思わず外套の襟を立てて首をうずめる。


 「寒いのですか?」


 「ええ」


 「ではもう少し私の傍へどうぞ。風除かざよけにはなりますよ」


 ありがたくそうさせてもらう。おとなしくヴィーリアに近づいた。すると自分が着ていた黒い外套の前釦を開いた。わたしをもっと引き寄せてその外套の半分でくるむ。


 「これなら少しはましでしょう?」


 「……ありがとう」


 外套に包まれたおかげで冷たい風に体温を奪われることはない。


 でも……。


 うん。今日は絶対に気を付けなければ。余計なことを考えてはダメ。大切なのは平常心。

 わたしの熱はまだヴィーリアに移ってはいない。


 「昨夜というか、今朝は……いつまで部屋にいたの?」


 気になっていた朝のことを訊く。気を紛らわせるように、湖畔に揺れる白いススキの穂を見るともなく眺める。


 「貴女が目を覚ます直前までです」


 やはり朝まで部屋にいたらしい。と、いうことは……。


 「一緒に、その……?」


 「私は眠らないと申し上げたでしょう。……そんな心配をしなくても、ソファで本を読んでいましたので」


 その言葉を聞いてほっと安心したと同時に、なにか言いようのない気持ちにもなる。


 眠らないヴィーリアは人間のような睡眠を必要としないらしい。

 それならば夜をずっと、ひとりで過ごしているのだろうか。それは……長くはないのだろうか。

 『人の理の外の者』の心のうちなど解るはずもない。だけど、胸がちくりと勝手に痛む。


 少し感傷的な気持ちになってしまったわたしを紫色の思わせぶりな眼差しが捕らえると、唇の端を意地悪く上げた。


 「まあ、しどけない寝姿を期待してもいましたが……貴女では、ねぇ? 先日の寝姿も……」


 そして、なにかを思い出すように、唇に手の甲を充て残念そうにくすりと哂った。


 寝姿って……なに? 一体なにを思い出してるの!? 『ねぇ?』って? え!? 

 もしかして……わたしの寝相って……すごいの?

 寝ぐせもかなりあれだが、寝相って、そんな。

 恥ずかしさでかっと顔に血が上り、頬が熱い。


 ヴィーリアはわたしを面白そうに眺めてから「まるで楓の葉のようですね。ほんの冗談ですよ」と笑った。


 うう……悔しい。


 「……本当に悪趣味。冗談にしては不適切よ」

 

 いつものように余計な一言を忘れていない。紫色の瞳を睨んだ。涼しい顔をしているのもかんさわる。

 心配なんかするんじゃなかった。

 でも……そんな必要はなかったことにも、どこかでほっとしている。


 ふいに、以前にもこんな風に二人でボートに揺られて、ヴィーリアが笑っていたような気がした。そんなことはない筈なのに、おかしな既視感を覚えた。


 それにしても……本当にわたしの寝相は大丈夫なの? 今度、ベルに訊いてみよう。


 吹きつけた風にヴィーリアは髪を押さえた。耳元を風の音が抜けていく。冷たい風は頬の熱を冷ます。外套に籠り出した熱も奪っていけばいい。


 「昨夜は……いかがでしたか?」


 「……司祭様にも会わなかったわ」


 深く深く眠っていた。たぶん、夢さえ見ていないように思う。


 「私が傍にいますから」


 当然だという口ぶり。


 「依代を徴収されたのにも気が付かなかった」


 「ええ。そのようでした」


 「……約束よ。契約の解き方を教えて」


 ヴィーリアの横顔を見上げる。


 「その前に……」


 ヴィーリアは黒い外套のポケットからなにかを取り出した。小さくて丸い……木枠に嵌った鏡だ。


 「それ!?」


 思わず鏡に手を伸ばすと、ひょいと腕を上げてかわされた。

 白い手の中にあったのは探していたあの鏡だった。そういえば、あの朝には寝台にヴィーリアもいた。


 「どこにあったの?」


 「……貴女の寝台の枕元です」


 シャールか屋敷の誰かの落とし物だと思っていたから、まさかヴィーリアが持ち去った可能性は考えもしなかった。


 「貴女は、なんというか……。大胆かと思えば怖がりで、慎重かと思えば軽率で……」


 わずらわしそうに眉をひそめて、手の中の鏡を見ている。


 「その鏡はたぶん、見習い司祭様か司祭様の物なの。大切に使われていたようだから返してあげな……きゃ!?」


 ヴィーリアは長い指をゆっくりと開いた。手の中から鏡がこぼれ落ちる。とっさに腕を伸ばすも間に合わずに、丸い木枠の鏡は、ぽちゃんと小さな水音みずおと水沫すいまつを立てて湖の中に落ちた。


 鏡をさらおうと身を乗り出して、水中に突っ込みかけた腕をヴィーリアに掴まれて止められる。

 鏡は小さな泡を立てながら翠色の水に沈んでいった。


 「あ……」


 「そして……呆れるほどのお人好しですね」


 見下みおろしながら平然としている。


 「ちょっと! なんてことをするの? あの鏡はきっと大事な……きゃあ!?」


 ヴィーリアはわたしを仰向けに転がしてボートの底に押し倒した。





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