【第62話】 教えてほしい 1



 レリオは無事に侯爵邸に戻れただろうか。

 ヴィーリアに焼き栗の袋を膝の上に乗せられて固まってしまい、ぎくしゃくとした動作のままで蒼い光の柱の中に消えたけど……。


 彼女の都合などお構いなしに突然リモールに呼び出し、その上、数時間も待機させた。おそらくレリオも仕事中だったはず。あちらの魔術師にも迷惑をかけたに違いない。今度、改めてレリオにお詫びを兼ねたお礼をしなければ。


 そんなことを考えながら、灯りを消すために寝台脇の棚の上に置いたランプに手を伸ばす。


 ふと、気配を感じて後ろを振り返った。枕元にヴィーリアが腰をかけていた。


 ……うん。もうね、慣れた。慣れたとはいえ、心臓にはとても悪い。




 そして今も、客間に帰らずにそのまま居座っている。


 「わたし、眠いの」


 「どうぞ。おやすみください」


 「じゃあ部屋に戻ってよ」


 「私のことはお気になさらず」


 「そういう問題じゃないの」


 わたしはガウンを羽織ったままクッションを抱えて、寝台に座っていた。

 さっきから同じようなやり取りを繰り返している。


 午後に町を歩き、買い物をした。書店と図書館で調べものもした。中央広場では騒ぎの中、ヴィーリアが酔っぱらい男を見事に石畳の上に放り投げた。手を引かれながらランプが灯る町中を走り抜けた。


 夕食のあとにお湯も使い身体も温まっている。就寝するにはいつもよりも早い時間だったが、眠りたかった。


 それなのに、ヴィーリアは寝台の枕の横に腰を下ろして背もたれに身体を預けている。床に投げ出した足を無造作に組み、書店で購入した『神聖術の体系と司祭』のページをなんの気なしにぱらぱらと眺めていた。


 「読みたいなら持っていっていいわよ。戻って部屋で読んで」


 「こんなものは暇つぶしにもなりません。そうですね……どうせ読むなら貴女のご趣味のもう一冊の本がいいですね」


 にこりと笑うと『神聖術の体系と司祭』をテーブルの上にぞんざいに放った。


 ……。


 『下着アンダーウェア大全~あなたを誘う魅惑の世界~』なら、革の表紙をかけて図書室の一番奥にある書架の棚の隅に、隠すように押し込んできた。木を隠すには森の中というように、本を隠すのなら図書室の中。


 「……読みたいなら図書室にあるわ」


 「では、明日にでもご一緒にいかがですか?」


 「読まないわよ!?」


 「それは残念です」


 そう言って、たいして残念でもなさそうに口角を上げる。


 ……ヴィーリアが部屋に戻らない理由は、おそらくロロス司祭様だ。


 集合的無意識の中で……わたしには、はっきりとした夢の中としか思えないけど……その中で司祭様が接触してくるのを警戒している。


 心配されているのは解る。だけど……。


 あの雷の夜を思い出してしまう。


 ボタンを外したシャツの襟首から覗いた白い肌。背中に回された腕の重みと、赤子をあやすように優しく背中を叩かれた調子リズム。まるで揺りかごの中にいるような、護られているという深い安心感。


 わたしの熱が移った肌は温かかった。


 バニラよりも濃厚で魅惑的な甘い香りを吸い込んで眩暈めまいがした。それから、とんでもなく想定外の……顔から火が出る、なんてことくらいでは済まない恥ずかしい思いをした。二度とあのような気持ちを味わいたくはないし、それ以上の惨状なんて絶対にご免だ。


 ヴィーリアと一緒になんて、眠れない。


 ……髪の毛の寝ぐせだって見られたくはない。


 「戻って。じゃないとわたし、眠れない」


 「なにを今さら……ともに朝を迎えたでしょう?」


 しっとりとした声で囁いて、紫色の瞳に夜のかけらを忍ばせて流し見る。


 ……お願いだから、その言い方をやめて欲しい。人が聞いたら絶対に誤解されるから。そう伝えてはいるのだが、一向に改善されない。わたしをからかうのを止めるつもりはないらしい。なので、あえて聞かなかったことにする。


 「夢の中で……というか、もし、眠ってからロロス司祭様にお会いしてもきちんとお断りするわ。だから……」


 意識が流されたあの真っ白な空間は、実体ではなかったが身体としての感覚はあった。意識だけなら司祭様と弾き合うこともなかった。司祭様の調子は軽かったし、話をしただけ。油断をしているわけではない。でもそれだけなら、そんなに心配することはない、とも思うけど……。


 「そういう問題ではありません」


 「昨夜も、司祭様とは話をしただけよ」


 「……意識の深層で接触をしてくるのなら、貴女では対処できない」


 「なにかあればすぐに呼ぶわ。来てくれるでしょ? だから大丈夫」


 ヴィーリアは重々しく首を振った。


 「……私はそこに入ることはできません。あの領域は人間たちにのみ許されたです」


 「でも、昨夜は……」


 ロロス司祭様はあの場所で、確かにわたしの後方に注意を向けた。ヴィーリアの存在を感じていたようだった。


 「本来なら我々は立ち入ることのできない領域ですが……。貴女と私の魂の一部は繋がっています。おそらくその影響でしょう。ただし、私が感知できたのも、送ることができたのも気配だけです」


 「……」


 ロロス司祭様と話をするだけなら、問題はないように思う。しかし、もしも、あの場所でなにかが起こったら、ヴィーリアはわたしを助けにくることはできない。ヴィーリアが気配を送っても司祭様が引き下がらない場合や、強制的に契約を解かれるような事態に陥ったとしたら……。


 今のままでは、どうしたって抗うことはできない。


 ……司祭様に『こっちへおいで』と手を差し出されたとき、あまりにも神々しい清廉せいれんさのためにおそれを抱いた。


 ヴィーリアに感じた禍々しい恐れとは違う。


 わたしという存在の痕跡をすべて消し去って、一滴の染みさえ許されずに真っ白に染められてしまうような畏れ。そのあとに残るのはわたしだけど、わたしではない者。

 言われるままに手を取り、ロロス司祭様に委ねてしまったら取り返しのつかないことになるという予感もあった。


 やはり、わたしもヴィーリアとの……『人の理の外の者』との契約を解く方法は知っておくべきだ。

 知っていれば最悪の事態が起きたときにひとりだったとしても、それを回避するためにできることがあるかもしれない。


 「またそのような顔をして……。 心配は要りません。私が傍にいれば神殿の影響は受けにくいと言ったでしょう?」


 ヴィーリアは手を伸ばして、長く、冷たい指でわたしの眉間を軽く押した。


 その手をけて、クッションを抱えたままヴィーリアの隣ににじり寄る。


 「……どうかしましたか?」


 いつもならわたしからこんなに近づくことはまずない。ヴィーリアは不可解だという表情で問う。その紫色の瞳をじっと見つめた。


 「……いて。もし、ヴィーリアが傍にいなかったとしても、知っていれば……なにか起こったとしても、わたしでも対処できることがあると思うの」


 「……」


 「だから……ヴィーリアとの契約を解く方法を教えて」





 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る