【第60話】 魅了 1



 「貴女は質問に質問で返す癖がありますね。私が先に、なにをしているのかと訊いたのです」


 光を宿した紫色の瞳は暗闇で光る猫の目のようだと、いつかも思った。


 「……夢の中で司祭様が言っていたことが気になって……。夢だとは思ったけど、確認したかったの」


 「夢、ね。神殿というものは……まったく鬱陶しい」


 ヴィーリアは心底苦々しく眉根を寄せる。     


 わたしたちの周りには図書館の利用客はいなかった。おかげでこの不用意な発言は誰にも聞かれずに済んだ。


 「それで? 昨夜ゆうべは『魅了』のほかにはなにを吹き込まれたのですか?」


 「昨夜って……知ってたの?」


 「微かに気配を感じましたので」


 そういえば……どうしてここにいるのかと尋ねたとき、そんなことを言っていたような気がする。


 「司祭様は……契約をいてあげられるかもしれないって」


 「……」


 ヴィーリアの眉間がさらに寄る。


 「契約を解いてもらう気はないわ」


 慌てて言い添えた。以前のように誤解されて、なにをされるかわからないのはご免だ。


 ヴィーリアはわたしの真意を測るように瞳を覗き込んだ。

 うっすらと光る紫色の瞳。吸い込まれるような錯覚を覚えて思わず顔を右横に逸らすと、そのまま左耳のふちで熱を含んだ声で囁かれる。


 「当たり前です。……貴女は私のものです」


 ヴィーリアはいつもそう言う。契約者には漏れなくそう囁いているのだろう。


 「……それで、魅了ってなんなの?」


 左手だけを書架から離すと、冷たい指先でわたしの頬を撫でてゆく。そのまま顎を指先で持ち上げて正面を向かせた。わたしは真っすぐにヴィーリアを見据える。


 「……魂を対価とした契約者にかける、心を虜にする魔術です」


 「そんなことをする必要があるの?」


 「人間の心とは移ろいやすいもの。それこそが魅力でもあります。しかし……契約の途中で気を変えられると大変面倒ですので」


 『心を縛るにはそれが一番手っ取り早い』と司祭様は言っていた。


 紫色の瞳の底はまだ光を湛えている。


 「わたしには……かけたの?」


 「貴女にはかけていません」


 『……安心して、っていうのもおかしいけど……お嬢さんには、魅了はかけられてない、ね。』


 ロロス司祭様が言っていたことと同じ。それに、ヴィーリアはわたしに……契約者に嘘はつけないと言っていた。


 「どうして?」


 「さぁ……? そのほうが面白そうだったから。でしょうか」


 そう答えて唇の端を少しだけ上げた。


 面白そう? そんな曖昧な理由なの?


 「魅了にかけられると、どうなるの?」


 「そうですね……控えめに言っても、私に対して非常に好意的になります」


 非常に好意的……。 控えめに言っても? 


 ほかの契約者にもわたしと同じに、慇懃無礼な態度をとっていたのかどうかは知らないけど。

 ただでさえ表の顔は完璧な人たらしだ。書店でも短い時間でそれを遺憾なく発揮していた。もし、そのような態度で接した上で、魅了なんていうものにかけられたのなら……。


 きっと、ヴィーリアに心酔しきってしまうのだろう。自分の意思かどうかもわからないままに。


 いや、なにか、想像するだけで……いろいろと怖い。

 ここは魅了にかけられなかったことを素直に喜ぶべきだ。理由はともかくとして。


 それと……。


 「……魂に刻印されることと、魅了は同じようなものなの?」


 「異なるものです。紋章の刻印は所有の証ですので」


 それなら……あの気持ちは刻印のせいではない、のね。


 「……これからも絶対に魅了はかけないって約束して」


 「約束ですか……。まあ、いいでしょう」


 ヴィーリアは顎を持ち上げていた指を外した。胸元にかかった白銀色の髪を後ろに払う。


 伏せた瞳と再び目が合ったときには瞳の中の光は消えていた。


 「まだ、ここに用事がありますか?」


 図書館の閉館時間も近づいている。『魅了』のことは解った。『心の治療』のことはもう少し調べておくべきだろうか? 昨夜のことを話してしまったのだからヴィーリアに尋ねてもいいのだが、答えてくれるのは訊いたことだけだ。魔術古文書グリモワールと同じで、肝心なことを黙っていることもある。


 それと……『人の理の外の者』との契約を解く方法。


 ヴィーリアとの契約を解く気はない。だけど、知っておいた方がいいのかもしれない。

 神聖術関連の本に記述はあるのだろうか。それとも魔術関連の本なのか。それとも……ヴィーリアに訊いたら素直に教えてくれる? とはあまり思えないけど。


 「取りあえず……何冊か、神聖術の本を見たいわ」


 ヴィーリアはあまりいい顔はしなかった。それでも灰暗い書架の間を二人で足早に探し、棚に数多く並ぶ神殿や神聖術関連の本の中から『神聖術』や『治癒』と『治療』の文字が入った題名タイトルの本を何冊か手に取った。


 ぱらぱらと頁を捲るが、書店で購入した『神聖術の体系と司祭』以上の記述はなかった。目次にも『契約の解除』というような項目は見当たらない。図書館にもなければ、これ以上は調べようがない。魔術関連の本も探したかったが、ちょうど閉館を告げるベルが鳴らされた。



 図書館を出るとはすでに落ちていた。山のには橙色とも赤みがかった桃色ともつかない空が残っていた。それもあと少しで夜の色に染まるだろう。空気はだいぶ冷えていた。


 大通りには沢山のランプが灯り、お店や屋台からは魚や肉を焼く香ばしい匂いが流れてくる。


 中央広場の人出は夕方前よりも多かった。大勢の人たちが屋台のテーブルで食事をしている。お店の呼び込みも賑やかで盛況だ。


 町がこんなにも活気に溢れているのは嬉しい。

 ヴィーリアも言っていたが、リモールにはこれからますます人が集まるだろう。


 「ねえ、お土産に焼き栗を買いましょう」


 掴まっていたヴィーリアの腕を引くと、わたしの顔を見てふっと笑った。


 「忘れていなかったのですね。焼き栗はお好きですか?」


 「好きよ。ほくほくして、ほんのり甘くて美味しいもの」


 屋敷裏の湖畔の森に栗の木はないが、リモールの村には栗林がある。秋には茶色く艶々つやつやとした栗の実が市場に並ぶ。この時期には、お父様たちが町に降りるとお土産に焼き栗を買ってきてくれた。秋の楽しみのひとつだった。




 

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