【第51話】 夢の中で 2
「隠さなくてもいいよ。そういうのは……わかるから」
司祭様はまた一歩、足を踏み込んで近づいてくる。わたしはまた一歩、後ろへと下がる。
「逃げないで。大丈夫。僕は怖くないよ」
司祭様は分厚い丸眼鏡を外した。
きらきらと輝く美しい黄緑色の瞳で優しく微笑みながら、わたしに手を差し出す。
眼鏡を掛けたままでも、濃い金色の髪は後光が射しているかのように神々しかった。眼鏡を外した今は、瞳の威力が足されて、さらに神々しさが増している。もはや眩しい。
「こっちへおいで」
いや、いや、いや、いや。行かないよ? 『怖くないよ』と言われても……おそろしくきれいな分だけ、なにか怖い。
手は取らない。黙ったまま、首を左右に振る。
ちょっと! ミュシャ! 変な夢を見ていないでさっさと起きようよ!
ロロス司祭様は、また首を傾げて苦く笑った。差し出した手をためらいながらも引っ込める。
「ずいぶんと気を許しているんだね。あの悪魔に」
今、さらりと禁句を言った。
「……お嬢さんの願い事って、なに?」
「そんなことを知ってどうするの?」
「だって、この世界の秩序を乱す願い事なら困るでしょう?」
世界の秩序? どうしてそんな大きな話になるのだ。だいたい世界の秩序を乱すなどという願いなんて思い浮かびもしないし、なんなのかさえ想像もつかない。
「そんなこと、願わない。わたしはただ……」
「ただ?」
「……ライトフィールド男爵家の借金を、利子も含めて全額ベナルブ伯爵に返せるように願っただけよ……」
……答えてしまうように誘導された気がする。夢でもなにか悔しい。
ロロス司祭様は軽く腕を組んで考え込んだ。
「そうなんだ……。お嬢さんも、大変だったね」
ロロス司祭様の声がしんみりとした。首を傾げて眉が下がっている。
知っていたら力になったのに、などとでも言うつもりだろうか。
助けてくれたのはヴィーリアだった。ほかの誰でもない。
……自分の夢ながら訳が分からない。
……こんな夢、早く覚めてよ。
「そんな言葉は要らないわ。……もう、いい加減に夢から消えてよ」
「夢?」
ロロス司祭様は怪訝な
「お嬢さん、もしかして、これは夢だと思っているの?」
当たり前だ。夢じゃないならなんだというのだ。
「……そうか、僕が急ぎすぎちゃったね。説明が足りなかった。ごめんね」
そう言って、頭を下げて謝る。
「……」
「あのね、これは心を癒す治療法の応用なんだよ。……人間にはね、無意識下に、共通の集合的無意識の領域があるんだ」
……?
もうすでに、なにを説明されているのかさえわからない。
「ううん……お嬢さんにもわかるように簡単に説明すると……人の心の奥のもっと奥には、共通する意識の流れがあるんだ。普段は自覚できないんだけど、眠っているとき、それから眠りと目覚めの狭間にいるときには、そこに意識が流れていく。心の治療をするときには、こうやってその流れの中で、意識をつなげてお話をするんだよ。僕はやっと今日、お嬢さんの意識とつながることができた。……鏡は世界のすべてを映しているからね。だからこれは夢のようだけど、夢じゃない」
よほど、わたしはぽかんとした顔をしていたのだろう。ロロス司祭様はどこかで聞いたような
理解したかどうかはこの際、置いておく。
夢の中で夢じゃないと言われても、正直なところ夢だとしか思えない。
「信じてなさそうだよねぇ……。ううん、どうしよう」
ロロス司祭様は困ったように苦笑した。
「……ん?」
ふと、ロロス司祭様はわたしの背後に視線を向ける。
「……残念。今日は時間切れだ。でも、考えておいて。僕はお嬢さんの、その契約を解いてあげられるかもしれない……またね……」
ロロス司祭さまの姿は光の粒子がばらまかれるようにして、現れたときと同じに足元から崩れて消えていった。
「ミュシャ!」
はっと目が覚める。
瞼を開けても薄闇の中だった。うっすらと光を帯びた紫色の瞳と目が合う。白銀色の長い髪が、わたしの肩や胸にこぼれていた。
ヴィーリアは寝台の上で、わたしの上半身を抱きかかえていた。
「わたし……?」
……よかった。
夢とは思えないほどはっきりとした夢だったけど、やっぱりさっきのは夢だった。
それにしても……なんでここにヴィーリアがいるの? あれ? もうそんな時間なの?
「……大丈夫ですか?」
こくんと肯く。大丈夫もなにも、ただおかしな夢を見ていただけだ。
「……ヴィーリアこそどうして?」
目が覚める前に、ヴィーリアがわたしの名前を呼んでいた気がする。
「気配があったようですので……」
「わたしは……夢を見ていただけよ」
「夢……ですか」
「それより、もう、そんな時間?」
「……いいえ。ですが……」
ヴィーリアはわたしを抱き起こした。そのまま胸に寄りかからせる。頬にかかった黒檀色の髪を一房、背後から左耳にかけた。背中からお腹に手を回して、しっかりとわたしを引き寄せる。
顔が耳に近づく気配を感じると、冷たくて柔らかい唇が耳の縁をなぞった。甘噛みされ、冷たい舌で
わたしの肩からこぼれて落ちる艶やかな白銀色の髪に、どうしようもなく安心感を覚えた。夢の中のロロス司祭様の言葉を思い返す。
『ずいぶんと気を許しているんだね。あの悪魔に』
だって、それは……契約者だから。魂に刻印をされたから。いずれわたしの魂は、ヴィーリアのものになるのだから。
『でも、考えておいて。僕はお嬢さんの、その契約を解いてあげられるかもしれない……またね……』
ただの夢だとはわかっている。それなのに、なんだか胸がざわつく。……もしかしたら、わたしは心の奥で、それを願ってもいるのだろうか。人間とは揺らぎだと、ヴィーリアは言っていた。
少しだけ強く耳を噛まれた。痛くはないが、いつもの甘噛みではない。
「ヴィーリア?」
「ミュシャ。貴女は私のことだけを考えていなさい」
なにかが燃えるような、焦げた匂いが鼻の奥に微かについた。……なんだろう。
以前にもヴィーリアに強く耳を引っ張られたときに魔法陣にも触れられて、瞬間的に焼けつくような熱さを感じたことがあった。そのときにも同じ匂いがした。皮膚か髪が焦げたのだろうかと思ったが、あとで鏡を見て確認しても、そんなことはなかった。
なんだか……とても眠い。
夢を見て疲れたというのもおかしな話だが、まさにそんな感じだった。
「ヴィーリア。眠いの……」
「このまま、眠りなさい」
左耳から唇を放す気配はなかった。熱よりも疼きよりも、今は眠さが
ヴィーリアの胸にもたれたままで、瞼を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます