【第42話】 成就 2



 お昼前に再開された協議は陽が傾き始めても終わる気配がなかった。執務室からは誰も出てこない。


 昼時にはサンドイッチのような軽い食事をブランドとベルが運んでいた。コディも町から戻っていた。駅に着いたときには公都へ向かう汽車は出発してしまった後だった。

 お昼過ぎには伯爵家から連れてきていた従者たちは、伯爵付きの侍従と馭者を残して伯爵領への帰途についた。


 秋の陽が落ちるのは早い。

 空が夜の紺色に覆われてリモール山脈とユーグル山脈の山の端が橙色に染まる頃に、執務室の扉の前に立った。


 こんなに時間がかかるということは、話が上手く進んでいないのだろうか。


 周囲をきょろきょろと見廻し、廊下に誰の気配もないのを確認すると執務室の隣の部屋の扉を静かに開けて中に入り込む。ここは応接室。隣の執務室とは扉で繋がっている。今日は執務室を使っているからだろう。誰もいない部屋でもランプが灯されていた。


 執務室へと続く扉の前でしゃがみ込んだ。厨房から持ってきた硝子のグラスのふちを扉に当ててグラスの底に耳を押し付けた。『こうすると音響結合が高まり聞こえやすくなります』と、ノルンが言っていた。どういう仕組みなのか理解したかどうかは置いておく。まさかこんなところで授業で習ったことが役に立つとは思わなかったが、こんなことに知識を使っていると知ったらノルンはさぞ嘆くことだろう。


 一応貴族の年頃の令嬢としても、基本的に人としても盗み聞きはダメ。と、そう昨夜に反省したばかりだ。昨夜の今日で本当に反省しているのかとヴィーリアに疑われても仕方がないが、反省だけは本当にしている。


 今朝、この協議にはわたしも参加させてほしいとお父様にお願いをしてみた。しかし、許可を出してはもらえなかった。


 協議が終わり次第、ヴィーリアは必ず報告してくれることはわかっている。だけど、こんなに時間がかかるほど話が拗れてしまっているのだろうかと、気になって気になって仕方がない。少しだけ、ほんのちょっとだけだからと誰にでもなく言い訳をした。


 執務室の扉が厚いせいなのか、グラスの効果が低いのか、ぼそぼそとした低い話声はところどころで聞こえるのだが、なにを言っているのかまではまったく解らない。グラスの角度を変えたり、立ち上がってグラスを充てる位置を変えたりといろいろと試してみたが、やはり音としての声が聞こえるだけだった。それでも諦めずにしゃがみ込んでグラスに耳を充てていると、微かにシャールと公都という単語が聞こえた。


 うん。この高さがちょうどいいのかもしれない。耳もぐっとグラスの底に押し充てて……。


 そのときに肩先に微かになにかが触れたような気がした。だけど、そんなことを気にしている場合ではない。


 やっとこつが掴めてきた。なんとか単語だけでも聞き取れるようになれば……。


 肩先に気配がして、またもやちょんとなにかが触れる感覚があった。


 なに? 今、やっと……


 「ミュシャ様?」


 振り向くとブランドが口元を引きつらせながら中腰で立っていた。その背後にはちょうどブランドに隠れて顔は見えないが、白いローブを来た人物が立っている。


 ブランド!? 司祭様!? どうして!?


 「……あ、え、や、……あの、歩いていたらちょっとつまづいて足首を捻っちゃったみたいで……あ痛たたたっ……ここで少し、座って休んでたの……」


 グラスをさっと後ろ手に隠して片手で足首を擦ってみせる。ブランドの口元も引きつったままだけど、わたしの口元も引きつっている。

 片眼鏡モノクルを人差し指で持ち上げて、それはいけません、大変です。歩けますか? ベルを呼びましょうか? と訊いてきたが、絶対になにをしていたのかはわかっている。


 「痛いのですか? 少し見せてもらっても?」


 ブランドの背後から白いローブの人物がすっと前に出た。


 司祭様はダメ! 弾かれちゃう! かもしれない!


 背中は執務室への扉にぴったりと張り付いている。横に逃げる時間もなかった。しかし姿を見せた人物は、波をうったような濃い金髪を肩に垂らし、分厚い丸眼鏡をかけたロロス司祭様ではなかった。


 焦げ茶色の真っ直ぐな髪を後ろでひとつに結んだ少年だった。歳はシャールと同じくらいかもしれないし、もう少し若いかもしれない。白いローブを着ているので司祭様だと思ったが、よく見るとローブの裾に金糸で刺繍された神殿独特の幾何学的な模様が入っていない。裾に金糸で刺繍が施されたローブは司祭様だけが着ることができる。


 ……ということは、見習い司祭様だ。そういえば……昨日、馬車から旅の荷物を持って降りてきたのを見たような覚えがなんとなくある。歓迎会にも……出席していた。


 見習い司祭様は足元にしゃがみ込み、足首に手を伸ばそうとした。


 「ミュシャ!」


 ヴィーリアの硬い声とともに執務室の扉が勢いよく内側に開かれた。


 それこそ蟻の這い出る隙もないくらいに扉にぴったりと張り付いていたわたしは次の瞬間、そのまま毬のようにころんと、背中から執務室の床に見事にまるく転がりこんだ。



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