【第41話】 成就 1



 いつ何時なんどきにシャールの名前がベナルブ伯爵の口から出るかと緊張した空気の中、ケインには申し訳ないが食べた気のしない朝食が終わると早々に部屋に引っ込んだ。

 今朝は食欲もあまりなかった。伯爵は時折、空いた席に視線を向けてシャールが朝食に出ていないことを気にしていたようだったが、誰になにも訊くことはなかった。


 お父様、お母様、ヴィーリアと伯爵はそれぞれに休憩をはさんでから執務室で協議を始める。


 寝台に横になると昨夜この部屋で楽しくシャールと語り合ったことが思い出された。

 今年の柘榴のシロップは一緒に飲めなかった。


 ……なにも言わずに行ってしまったことには一抹の寂しさを覚える。でも「行ってらっしゃい」と送り出したとしたら、ここに残るわたしはきっともっと寂しさを感じていたかもしれない。


 シャールはいち度こうと決めたことは、なにを言われても頑として譲らない。可愛らしいふわふわとした雰囲気からは想像もつかない意志の強さを持つ。幼い頃からそうだった。屋敷の者なら誰でも知っている。以前にシャールの頑固さは誰に似たのかしらとお父様とお母様が首を傾げたことがあったが、ブランドとわたしは顔を見合わせてそんな二人を笑ってしまった。シャールの決めたことを曲げない頑固さは両親譲りだった。


 シャールがノルンのもとで本気で学びたいというのなら応援してあげたい。シャールはノルンがいた頃も熱心に授業を受けていた。フェイもついているのだから公都でもきっとうまくやっていくことだろう。  


 ……伯爵はどうするのだろう。シャールは伯爵を試してもいるのだ。本気で好きなら追いかけてきて、と。


 



 ノックの音で目が覚めた。寝台に横になって考え事をしているうちに、つい浅く眠ってしまったらしい。飛び起きて寝台に腰を掛け、慌てて髪と服を整える。


 「どうぞ」


 返事と同時にヴィーリアが入ってきた。


 「もう協議は終わったの?」


 スカートの裾を直しながら訊いた。窓から差し込む、斜めに伸びて床を這う陽光はまだ正午前だと告げている。


 「今は休憩中です」


 片手でタイの結び目を弛めて、隣に座ったヴィーリアは長い足を組んだ。 


 「どんな感じで進んでいるの?」


 ヴィーリアはいつものように平然として、いともあっさりと言った。


 「貴女の願いは叶いましたよ。伯爵は自ら申し出て以前の過剰な請求を破棄した上で、正当な返済額に同意しました」


 「……」


 あまりにも淡々とした報告のために言葉の意味を理解するのが一瞬、遅れた。


 シャールとの会話の内容から、伯爵はもしかしたら自分から請求を破棄するのではないかと考えてはいた。自ら破棄することで過ちを認めてお父様に謝罪をするために。


 そして……思わずヴィーリアの両手をとった。言葉が出てこなかった。


 やっと、やっと……やっと。


 お父様と資料を探しに訪ねた町の書店で偶然に魔術古文書グリモワールに目を留めた。

 やってみるしかないと、切羽詰まった半信半疑のダメ元で地下室に魔法陣をえがいた。痛いのは嫌だし、怖かったが震える手で指先に充てたナイフの刃を引いた。……あの朔の晩に、ヴィーリアがわたしの依代に引かれて召喚されてからやっとここまできたのだ。あっという間だったような、とても長かったような、その両方であったような気もする。

 そして……ついにライトフィールド男爵家が抱えていた大元の問題が解決されたのだ。この二年間、ずっと望んでいたことだった。それが、今、ヴィーリアの口から現実になったと聞かされた。


 願いが、叶った。


 ヴィーリアの両手を強く握りしめる。


 喜ばしくて躍り出したいくらいなのに身体が小刻みに震えてしまい、足も立たない。


 目頭がどうしようもなく熱くなる。深い紫色が滲みだすのを止められない。


 「……ミュシャ」


 名前を呼ばれてはっと引き戻される。気持ちが昂って思わず強く握ってしまった両手を離した。


 しまった。このままだと……。

 雫が頬を伝う前に、ヴィーリアが唇を寄せる前に拭ってしまわないと。


 ……もう、困るのだ。


 うつむいて素早く手の甲で頬を拭う。その手を掴まれた。冷たく、筋が浮いた大きな手はわたしの手首を捕えて簡単に覆ってしまった。


 「……離して」


 「貴女は……そればかりですね」


 顔を上げると眉間を寄せて、なぜだか複雑そうな表情かおをしていた。


 今回は珍しく唇を寄せてはこなかった。いつもなら否応無しに冷たい唇で掬い取っていくのに。  


 それでも掴まれた手首は離してはもらえない。


 深く、大きく深呼吸をした。

 ……気持ちを切り替えなければ。


 「もう、ちょっと、本当に離して?」


 ぶんぶんと大きく手を上下に振るとヴィーリアは掴んでいた手首を離した。


 自由になった両手で自分の頬をぱんと叩いて気合を入れる。痛いくらいがちょうどいい。


 「よし! もう大丈夫」


 とにかくこれで、あとは伯爵とシャールの拗れた糸を解けばいいのだ。


 「……以前から思っていましたが……貴女はもう少し情緒というものを理解した方がいい」


 呆れたようにため息をつかれる。  

 それはヴィーリアにだけは言われたくないことなのであえて無視する。


 「シャールへの求婚の件と噂の確認は?」


 「これから伯爵に男爵家と侯爵家の事業を説明します。それからでしょうね」


 シャールとの縁が続くか否かは、伯爵が馬鹿な画策(仮定)を告白して、謝罪がお父様に認めてもらえるかどうかにかかっている。


 「朝は口添えしてくれてありがとう。わたしを助けてくれたみたいに伯爵も助けてあげてね」


 「貴女が……お望みとあらば」


 「それで……噂の真偽はどうなのかしら?」


 今朝、ヴィーリアがお父様とお母様に提案したアロフィス家の諜報網というのはもちろんヴィーリアの魔術のことだ。


 「それは後ほど。まずは伯爵の弁明を聞いてみることにしましょう」


 「……なるほど。そうね」


 ヴィーリアにかかれば噂の真偽や、伯爵が真実を話したかそうでないかもすぐにわかるはず。もし、この期に及んでも誠実な対応を取らないのであれば……残念ながら信用に値しない人物ということになる。せっかくここまできたのだから伯爵にはきちんと本当のことを話してもらいたい。お父様に誠意をみせてほしい。


 部屋の扉がノックされた。

 休憩が終わり協議を再開するために、ベルがヴィーリアを探しにきたのだ。





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