【第39話】 男爵家会議 1
毎朝、左耳からの熱と疼きを感じて目が覚める。
もはや恒例となってしまった依代の搾取の時間。ヴィーリアもまだ陽も昇らない
「目が覚めましたか?」
部屋の薄い闇の中で、白銀色の長い髪と紫色の瞳は微かに光って見える。
「……ん。でもまだ……眠い」
そう答えてもお構いなしで、左耳に冷たく柔らかい唇を這わせて甘噛みする。ヴィーリアが左耳に唇を寄せているときは白銀色の絹糸のような髪が頬に落ちてくる。くすぐったくて身を捩る頃には、左耳から伝わる熱と疼きが限界に近くなる。
ここまでの一連の流れが毎朝の日課といってもいい。最初のころはいちいち戸惑って心臓にも負担をかけたが、今は少しだけ慣れた。慣れたとはいっても……朝の目覚めはやはり、焼きたてのパンの香ばしい小麦の匂いや、小鳥の可愛らしいさえずりに越したことはない。
今朝はヴィーリアがわたしの左耳から唇を離すと、外で馬の短いいななきが聞こえた。馬車の車輪が土を踏み分ける音もする。こんな時間から誰か出かけるのだろうか。
片手をついて上半身を起こしたヴィーリア。わたしを見下ろしながら唇を親指で拭い、赤い舌を出して舐めとる。……これから爽やかな一日が始まる朝だというのに、なぜこんなにも
「神殿の二人がユーグル山脈の麓の村に四、五日ほど出向くようです」
司祭様が布教活動と治療のために村に逗留するのなら、その間は顔を合わせないように気を使わなくて済む。それにしても、昨日の午後にリモール領に着いたばかりだというのに。次の日のこんな早朝から出発するなんて……お疲れの出ませんように。
「……司祭様はお忙しいのね」
「……さぁ、今日は貴女も忙しくなりそうです。もう少し眠りなさい」
ヴィーリアは口角を上げて予言めいたことを囁いた。冷たく大きな手のひらで瞼を撫でられる。意識が眠りの底に堕ちていくように引き込まれていく。瞼を閉じる寸前に、微かに弧を描くヴィーリアの唇が見えたような気がした。
何人もの足音が部屋の前を通り過ぎては戻ってくる。この部屋の先にあるのはシャールの部屋。目覚めたばかりで、まだぼんやりとしている頭でそう考えたときに扉がノックされた。
「おはよう、ミュシャ。早くから悪いわね……。入るわよ」
お母様の声がした。慌ててガウンを羽織って飛び起きる。こんな時間に部屋に来ることなんてまず、ない。なにかあったのだろうか。
「おはようございます。どうか……したの?」
お母様は部屋に入るとさっと室内を見廻した。
「シャールを見なかった?」
「え?」
「シャールがいないのよ」
「……」
昨夜は二人で幼い頃の思い出などを楽しく語り合った。遅くならないうちにシャールは部屋に戻った……はずだ。
「どこか……散歩に行っているのかも……?」
そうは言ってみたがそうでないということはわかった。部屋の前を行き交う足音も、お母様の表情もそうではないと悟らせる。
幼い頃のシャールは、悪戯をした後や習い事をしたくないときにはわたしの部屋に隠れていた。お母様もそれを確認しに来たのだろう。
「ミュシャの部屋にいないのなら……そう、やっぱりそうなのね。……フェイもいないわ」
フェイも?
お母様は手の中に持っていた四つ折りの紙を開いた。
「それは?」
「シャールの置手紙よ。公都に行くと書いてあるわ」
置手紙? 公都? え? なにをしに……。
そういえば……思い当たるのはノルンだ。かつてのわたしたちの家庭教師だったノルンは今、公都の大学で自然科学の教師をしている。シャールはノルンがリモールを去ってからも、よく手紙のやり取りをして親交を続けていた。
「ノルンのところで助手をしながら勉強したいのですって」
「……」
ああ……。昨夜、部屋が散らかっていると部屋に入れてくれなかったのは荷造りをしていたからなのか。シャールの部屋をノックしたときに大きな音がしたのは、慌てて鞄を隠した音だったのかもしれない。
「その手紙には……ほかになにか書いてある?」
お母様から渡された手紙にざっと目を通す。丸みのある文字の癖は確かにシャールの筆跡だ。
ノルンと連絡を取り合っていたこと。ノルンの助手の席が空いたので公都に行って助手をしながら勉強をしたいこと。フェイを連れて行くこと。どうか心配しないでほしいということ。最後に、黙って勝手にリモールを出ていくことを詫びていた。伯爵のことには一切触れていなかった。
手紙を読み終えてお母様と顔を見合わせる。
シャールが、家出した。
△▽△▽△
時間になっても起きてこないフェイの部屋をベルが訪ねた。いつもならフェイの方が早く起きてくるはずだった。何回ノックをしても一向に返事はなく、心配になったベルが扉を開けると寝台は空だった。ブランケットはきれいにたたまれており、壁にはお仕着せの紺色の服が掛かっている。寝台に触れてみるとすでに冷たかった。不審に思ったベルがブランドに報告し、二人でフェイの部屋の衣装棚を開けると空になっていた。
お父様はフェイがいないとの報告をブランドから受けると、すぐにお母様にシャールの部屋を確認させた。やはり寝台の上にシャールの姿はなく、寝台はすでに冷えていた。衣装棚を開けると服や靴、ここ数年は使われていなかった旅行用の鞄が消えていた。机の上には、シャールが拾ってきた白いつるつるとした石を重しの代りにして、手紙が置かれていた。
お父様は町にあるリモール領唯一の蒸気機関車の駅にコディを遣わせた。ベルやブランド、ケインにルウェインまで駆り出されて、伯爵に気付かれないように速やかに裏庭や屋敷内、地下室までシャールとフェイがどこかに隠れていないかを一応、確認した。しかし、やはり屋敷内にも敷地内にも二人の姿はなく、置手紙の内容が事実なのだと理解せざるを得なかった。
△▽△▽△
* 回想部分を△▽△▽△でまとめてあります。
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