【第34話】 密会 3



 ……しまった。


 会話の内容が内容だけに、飛び出すこともできず、そうかと言って立ち去ることもできず、つい、聞き入ってしまった。わたしはなんというところにノコノコと……。

 これは……つまり、あれだ、密会とかいう秘密のやつではないのか。

 ……迂闊すぎる自分を呪いたい。……もう絶対に、絶対に見つかるわけにはいかない。そうかといって今さら動けもしない。だから、せめて目を閉じるしかない!


 「……シャール」


 しばらくして二人の影が離れる気配がすると、伯爵が甘く名前を呼んだ。


 ……いけない。これ以上は本当に、人として聞いてはいけない。見てもいけない。ここにいることすら許されない。

 だけど、だけど! 動けない! 

 少しでも動いて物音でも立てようものならば……。

 背中に冷たい汗が流れる。どうしたらいいのかわからずに、取り敢えず耳をふさいで目をぎゅっと閉じて小さく小さく縮こまっていようと決心した。不幸中の幸いにもドレスは濃紺だし髪は黒檀色だ。顔を伏せて銀色の靴さえドレスのスカートに隠してしまえば、闇に紛れて溶け込める……はず。


 ごめんなさい。シャール。こんなつもりじゃなかったの!


 「……もう、名前を呼ばないで」


 シャールの声は震えていた。耳をふさごうとしていた手が止まる。 


 「どう……して?」


 伯爵はシャールに手を伸ばした。混乱しているようだ。わたしも混乱している。


 「あなたはずるい。でも、わたしもずるいの。……本当にわたしが好きなら、捕まえにきてよ。そうすれば……」


 シャールはそう呟くと伯爵の手を振り払った。最後の声は小さくて、なにを言っているのかは聞き取れなかった。小さく縮こまって闇に同化している……はずのわたしの横の繁みをシャールが勢いよく走り抜けた。


 「シャール!」


 伯爵の叫びは悲痛なものだったがシャールは振り返りもしなかった。そのままドレスをひるがえして屋敷の裏手へと走り去って行った。伯爵は追いかけるような素振りをみせながらも、迷っているように動きを止めた。


 ええっ!? ちょっと! 追いかけないの!? 


 心の中で声を上げてみたものの伯爵には届くはずもなく、わたしは堂々と姿を現わせる立場にもない。


 結局、伯爵はシャールを追いかけなかった。

 シャールの去った屋敷の裏手を戸惑うように見つめていた。ため息をつきながらクシャリと前髪をかき回し、そのまま途方に暮れたように夜空を見上げて立ち尽くした。

 屋敷に戻っていったのは、それからしばらく経ってからだった。



 伯爵の後ろ姿が見えなくなると、緊張の糸が切れたようにその場にへたり込んだ。固く強張こわばっていた身体中から力が抜けてしまった。

 しゃがみ込んでいたために足が痺れている。背中を冷たい汗が流れてゆく。息を殺すようにしていたため、深呼吸を何度も何度も繰り返し、冷たい空気を胸いっぱいに吸っては吐き出した。

 気持ちを落ち着かせて冷静になろうとした。だけど、頭の中は依然として混乱したままだった。シャールには訊きたいことがたくさんある。


 でも、それよりも―――。

 ……ごめんね。シャール。



 「ミュシャ」


 小さく名前を呼ばれる前に大きな手で口をふさがれ、背後から背中を覆うようにして硬い胸の中に瞬時に囲われて抱き込まれた。


 「!!!」


 心拍数が一瞬にして最大に跳ね上がる。あまりの驚きに叫ぶことさえできなかった。


 「貴女は一体なにをしているのですか?」


 白銀色の髪がわたしの肩にさらりと流れてかかった。口元は微笑んでいるが紫色の瞳は眇められ、声には微妙に険がある。


 「まあ、おおよその見当はつきますが」


 口をふさがれながらも、もがもがと唇を動かして抗議した。


 ちょっと! お願いだからわたしの心臓をいたわってほしい!


 激しい鼓動をなんとか落ち着けようと胸の辺りを必死にさする。口をふさいでいた手を離したヴィーリアは、寒がっていると勘違いしたのか上着を脱いで肩にかけてくれた。絶対に見つからないように夜の闇に紛れようとして、もしくはその辺りに転がっている小石になりきって伯爵が去るまでじっとうずくまっているうちにかなり冷えてしまったので心遣いがありがたい。しかし当分、心臓の激しい鼓動は治まりそうにない。心遣いはぜひそちらにもしてほしい。


 混乱と寒さと動悸で、指先が細かく震えていた。


 ヴィーリアこそどうしてここに? と尋ねかけたが、訊くまでもなくわたしの平常心がどこかへ飛んで行ってしまったので様子を見に来てくれたのだろう。


 「とりあえず……そんな恰好でこんなところにいたら風邪をひいてしまいます」


 腕を引かれて立たされると、ドレスについた枯葉や土埃をざっと払って落としてくれた。痺れている足がもつれ、高いヒールのせいでよろけてとっさにヴィーリアの腕につかまる。と、そのまま横抱きに抱えあげられる。


 耳元でパチンと指を鳴らす音がするとほぼ同時に、くるりと視界が回転した。柔らかな澄んだ月明りの秋の庭から、一瞬のうちに見慣れたソファや寝台のあるわたしの部屋の中へと戻っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る