【第25話】 冷たい唇 2



 秋の午後の柔らかい陽射しのせいだろうか。それともヴィーリアがあまりにも妖艶に、しかもそれ以上に優しく微笑んだせいだろうか。


 ……あの雷の夜は揺りかごの中で微睡まどろんでいるような、絶対的な安心感を覚えた。今また、ヴィーリアの腕の中で不覚にも同じような気持ちを覚えてしまった。


 これは、絶対に秘密。


 でも……。


 「ヴィーリア……。こっち向いて」


 「なんです……」


 最後まで言わせなかった。

 両手で思いっきり、ヴィーリアの両頬を挟むように叩いた。


 バチンと乾いたいい音が鳴る。


 草をんでいたライトとフィールドが、耳を立てて頭を上げたのが視界の端に映った。


 「……」


 ヴィーリアが驚いたように目をみはる。


 「わたし……初めてだったんだからね!」


 「……それは、まあ、そうでしょうね」


 そう、そうなのだ。

 初恋もまだだけど、そんな相手もいないけど、片田舎の貧乏貴族でも一応は貴族だから想う相手と結ばれるとは限らないけど! でも、それなりに淡い憧れをもっていたのに。いきなり、あんなの……。


 叩いた手が痛い。


 「そういうのって普通は最初に合意とか? あるでしょ? なんていうかもっと……うまく言えないけど、こんなのじゃない」


 「……そうですか。一面の秋桜畑なんてかなり情緒的だと思ったのですが。では次回はご期待にそえるようにいたしましょう」


 「そういうことじゃないの!」


 「……わがままですねぇ」


 叩いたせいでまだかすかにじんと痺れている指に、ヴィーリアは指を絡めてくる。大きく腕を振って外そうとするが外せない。


 じっと恨めし気に紫色の瞳を見上げる。思いっきり叩いた白磁のような滑らかな頬には、手形の痕さえついていない。

 なんだかいろいろと……悔しい。 


 「ヴィーリアは慣れているだろうけど……わたしは違うもの」


 「なにかと思えば……やきもちでしたか」


 「違うよ!?」


 「では、なんですか?」


 なんですかと訊かれても……答えられるわけがない。自分でもなにがなんだか、よくわからないのだから。


 ヴィーリアがふっと笑う。


 「私ではお嫌でしたか?」


 優しく囁かれてまじまじとヴィーリアを見てしまう。


 陽に透ける白銀色の艶やかな長い髪は風に揺れている。今は気遣きづかわしげに、深い紫色の瞳がわたしを映している。口角が上がった、形の良いふっくらとした柔らかな唇は穏やかな微笑みを浮かべる。顎を支えた長い指は、そのまま指に絡められたままだ。


 『貴女は私のものです。よく覚えておきなさい』


 ……こんなの、意味を勘違いしそうになる。


 「……ヴィーリアはずるい」


「お褒め頂いて光栄です。では……次回は期待していてください」


 「次回はないから!」






 屋敷へ戻るなりシャールが玄関ホールへと駆け込んできた。後からブランドも続く。


 「お姉さま! 大変! ベナルブ伯爵様がお見えになるって!」


 「おかえりなさいませ。お嬢様、ヴィーリア様」


 「……あ、ごめんなさい。お帰りなさい。お姉さま、ヴィーリア様」


 シャールは興奮しているようだった。手には封筒を持っている。


 「どういうことだか説明して?」


 伯爵が来る? どうして? ヴィーリアは司祭様も来ると言っていた。


 「それが、お姉さまたちが出かけた後に伯爵家から知らせが届いたの」


 シャールは封筒から手紙を取り出した。クリーム色の肌触りの良い滑らかな紙を受け取る。ブルーブラックのインクで書かれた、流麗な文字が並んでいた。素早く目を通す。


 「…………五日後? 司祭様も同行されるの?」


 「そうみたい。どうしよう? お姉さま」


 「ブランド」


 ブランドは心得ましたというように肯いた。


 「コディにはお嬢様たちがもどっていらしたら、旦那様に早馬を出すように申し付けております」


 さすが執事のかがみ。仕事が早い。


 「ありがとう。ブランド」


 ベナルブ伯爵の手紙には、五日後に巡礼の旅の司祭様と見習い司祭様を伴って、屋敷を訪問すると告げられていた。それとともに、間もなく婚姻が迫った花嫁に会いたいとのむねもそれとなく記されていた。


 「お姉さま……わたし……あの……」


 シャールが桃色の唇を噛み締めていた。


 「シャール、大丈夫よ。落ち着いて。ほら、唇を嚙まないの。切れてしまうわよ」


 シャールのふっくらとした頬を両手で挟み、唇を噛むのを止めさせる。


 「大丈夫よ。シャール。なにも心配しなくていいの」


 シャールの大きな緑色の瞳を見つめて肯く。もう大丈夫。ベナルブ伯爵に嫁ぐ必要はない。すべてが元に戻るのだから。


 「お姉さま……ご……な……」


 シャールは目を伏せてうつむいた。なにか小さい声で呟いたような気がした。しかし、シャールのことはもう大丈夫という安心感と、司祭様の件をどうするかで頭がいっぱいで、そのときは特に気に留めなかった。





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