【第24話】 冷たい唇 1



 「近いうちに神殿の者がこのリモールの地に来ます」


 「司祭様が?」


 ヴィーリアは先にライトから降りた。二頭の手綱を手近な木の枝に繋ぐ。それからライトの背中から抱き上げて、短く繁った草の上に降ろしてくれた。


 リューシャ公国はグレナダ大陸の北に位置しており、その中でもリモール領は公国の最西端だ。


 リューシャ公国には国教はない。


 一般的に神殿と呼ばれているのは、国をまたいでグレナダ大陸全土に広がる多大な信徒を持つルークス教だ。


 ルークス教は原初げんしょの輝きと呼ばれる光を世界の創造主としてまつっている。

 大陸の各国にそれぞれにいくつもの神殿を持ち、神殿は各国から治外法権を認められていた。国には属さない代わりに、多額の援助を国に納めて独立した自治権を維持しているのだ。援助というのは金銭だけではない。司祭様たちの治癒の力や祝福も含まれている。


 司祭様たちは各神殿に所属している。数年から十数年に一度、各地の神殿への巡礼じゅんれいの旅をする。その旅で神殿が建立されていない地域にも、布教や治療のために立ち寄り逗留する。


 逗留先で宿泊の世話をするのがその地の領主だ。幼い頃に出会った司祭様も、巡礼の旅でリモール領を訪れていた。屋敷にひと月ほど滞在していた記憶がある。


 「巡礼の旅かしら?」


 そうなると滞在するのは領主である我が男爵家の屋敷だ。それは……あまりというか、かなりよろしくないのでは?


 「おそらくは」


 ヴィーリアが切り倒された木の丸太を椅子にして腰を下ろす。ここにはコディも馬を散歩させに来ている。コディが用意したものだろう。


 「っ!?」


 急に腕を取られて引かれた。重心を崩し、ヴィーリアの膝の上に腰が落ちる。


 「危ないじゃない」


 「こうしないとおとなしくは座らないでしょう?」


 うう……。それはそうかもしれないけど。


 「ミュシャ。契約をふいにするような真似は許しませんよ」


 腕を取られたまま、腰をぐいっと掴まれて抱き寄せられた。ヴィーリアは黒檀色の髪の中に顔を埋めて耳元で低く囁く。


 「……放して」


 強く掴まれたままの腕が痛い。


 「解っていますね?」


 ヴィーリアは顔を離したが、腕と腰は掴まれたままだった。


 その声の冷たさに思わずヴィーリアを見上げる。


 紫色の光彩が、声と同じように冴え冴えと冷たい光をたたえていた。秋の穏やかな陽光を反射して、風に流れている髪の白銀色も、今は心の内側に無遠慮に入り込む真冬のしんとした鋭い冷気のようだ。


 ――怖い。


 しかし、それ以上に美しいと思ってしまった……。


 「わかっているわ。――だから放して」


 腕が離されると指で顎を掴まれた。そのまま白銀色の髪が、さらさらとした粉雪のように頬に降りかかる。


 濃淡の桃色が揺れる一面の秋桜や、雲が高くたなびく薄く青い空や、眼下に広がるリモールの町の、色とりどりの屋根が視界から遮られる。


 目の前には透明度の高い紫色と、きらきらと輝く白銀色しかない。


 唇に、冷たくて柔らかいヴィーリアの唇がゆっくりと降りてきた。一瞬だけ唇に触れて離れ、そしてすぐにまた深く深く合わせられた。

 冷たい舌が唇の縁を探るように動いたかと思うと、するりと内側に入り込んだ。まるで飴玉を転がして舐めるかのように、口の中で動いて熱を奪いとってゆく。


 「!?」


 驚く間もなく、喉が痛くなりそうなほどの濃厚で芳醇ほうじゅんな甘い香りに包まれた。甘すぎて甘すぎて、喉が焼けそうだ。くらくらとする眩暈が止まらない……。


 鼻で空気を吸い込んでも、張り付くような甘い香りが胸に満ちて苦しい。唇も塞がれているので思うように息ができない。息苦しくて視界がにじんでくる。


「ん! っん!」


 言葉を出せない代わりに、ヴィーリアの胸をどんどんと叩く。


 唇がやっと離れた。


 周囲にとりどりの色が戻る。でも、視界は滲んだままだった。


 ヴィーリアは赤い舌で自身の唇を舐めた。

 全身の力が抜けてしまった上に、酸素も不足していた。ヴィーリアの胸に倒れるように、もたれ掛かってしまう。


 繰り返し深く息を吸って、荒い呼吸と心臓の鼓動を整える。その間に、狂おしいほどの甘い香りは、余韻だけを残して消えていた。


 「いつもそれくらい従順でいてほしいものです」


 ヴィーリアの唇が近づいてきて眦に寄せられ、滲んだ雫を拭っていった。いつものしっとりとした声色のなかには、もうとがった氷のような鋭い冷たさは感じられない。


 「なんで……こんなこと」


 「言ったはずですよ」


 「……」


 「かせてみたくなるって」


 ……確かに甘すぎて、苦しくて、視界が滲んだ。


 「貴女は私のものです。よく覚えておきなさい」





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