【第17話】 雷嵐の夜 3
しばらくヴィーリアの胸に収まっていると、体温がヴィーリアのシャツを
地下室で初めて触れられたときから、ヴィーリアの身体は冷たいと感じていた。体温というものがないように冷たい。生きているものの温度ではない。汗や皮膚の匂いもしなかった。
だから今までは、抱き寄せられても耳に口づけされても、端正に造られた人形に触れられていると思えた。
触れられ、見つめられると恥ずかしい気持ちにはなる。でも、相手は美しい人形。現実としての実感や、道徳観への抵抗は薄い。それにそもそもヴィーリアは人ではない。
だから、意識しないようにしていた。
……でも、人肌は温かい。
それだけのことだ。たったそれだけのことなのに。
そう思おうとすればするほど、ありありと、生々しく意識してしまう。
筋肉がしっかりとついた胸元や、白い首に浮き出た喉仏。固い腕や、筋張った長い指の感触。
なぜ今までは人形のようだなどと思えたのだろう。触れられても、なぜ平気でいたのかさえ、不思議と思い出せなくなる。
いったんそのような思いに
図書室で匂ったような、重厚な甘い香りを突然に感じた。昼間よりも濃厚に、より甘く香っている。吸い込んだ途端に、くらりと引き込まれるように眩暈がした。
図書室で感じた意識が飛び散る感覚には遠く及ばないが、なにかに酔ったように意識がぼんやりとしてくる。思考に白い膜がぴったりと張り付いたかのようだ。
「……この香り?」
「……貴女のせいですよ」
ヴィーリアがついたため息が額にかかった。
「……わたし?」
「昼間に貴女の魂に触れたといったでしょう? ……魂が繋がった余韻が
「どういうこと……?」
はっきりとしない、ぼんやりとした思考のせいで理解することに時間がかかる。
「魂の一部が混ざって……思考と感情が一時的に混線しているようです」
「……混線? わたしと誰が……」
「私です」
「……」
「……貴女が考えたことや感じたことが伝わってきます。もちろん全部ではありませんが、強い思念や情動を発したとき……特に欲情など……」
魂が混ざっちゃった?
わたしの気持ちがヴィーリアに筒抜けだったっていうことだよね?
……ああ。
だからどうりで、ヴィーリアと気持ちが通じ合っているなんて気がしていたのね。そうか。そうだったのか。
それなら仕方がないかな。ええと、なんだっけ? 特になんて言った? 欲情? あの気持ちはそういうことなの―――?
なんて一瞬、微かに一瞬、ほんの一瞬。
そんなことを思いかけてしまった。
お酒を飲んでもいないのに、ほろ酔いどころか酩酊気味だった意識が全速力で駆け戻ってくる。
――は? なんなの、それ?!
……想定外過ぎる衝撃だった。
通じ合っているなんて、そんなのんきな! 仕方がないなんて思えるわけがないよね!? 納得なんかできないよね!? だって、嘘でしょう? 筒抜けだよ? つ・つ・ぬ・け! しかもなに? 欲情? って、そんなわけないよ! ……ないと思う。……ないと思いたい。
……恥ずかしい。恥ずかしすぎる。……明日といわず、今からでも合わせる顔もなにもあったものじゃない。顔から火が出るどころの騒ぎじゃない。炎上! 大炎上! さっき思ったことはすべて取り消すから! 絶対全部取り消すから! こんな、こんな恥ずかしい気持ちもヴィーリアに丸ごと伝わっているなんて! それなのにわたしのせいって!
「……そんな顔をしないでください」
そんな顔以外にどんな顔をしろというのか。
感情や思考が伝わっているのなら、わたしの言いたいこともわかるはずだ。
もう……気持ちはぐちゃぐちゃだ。
「貴女の言い分もわかりますが、これは事故のようなものです。惹く力が強いと起こりやすい。……混線しているといったでしょう? 私も同じですよ」
「……どう同じなの? わたしにはヴィーリアの考えていることなんて、伝わってこないよ」
恥ずかしすぎて泣きそう。泣いてもいいかな? 目から出るのは汗だけど。
「匂いがしませんでしたか?」
匂い? 匂いはした。重厚で甘い香り。吸い込むと眩暈がした。酔ってしまうような、バニラよりも濃厚で魅惑的な甘い甘い香り。
「人間には私の思考は捉えられない。そのかわりに香りとして感じます」
髪を掬うように頭を撫でてくる。なだめるように何度も、何度も繰り返して。
「……ずるい。香りはしても、結局ヴィーリアの考えていることはわたしにはわからない」
「一時的なものです。明日には元にもどるでしょう」
「……それでもやっぱり……ずるいよ」
「……ではひとつだけ。……強く感応すると、香りはより濃くなります」
その香りは昼間よりも濃厚で、
「……強く……感応? ……さっき欲情って?」
「つまりは以心伝心です」
「……それ、いい感じに言っているだけよね」
ヴィーリアは真顔で、臆面もなく堂々と言ってのける。悪びれもしない。
……なんだか、恥ずかしがっていることがバカみたいに思えてくる。
おかしくなった気持ちも、雰囲気も、すでに霧が晴れるように消えていた。思わず笑ってしまう。
「物は言いよう、だね」
「本心ですよ」
指を鳴らしたヴィーリアは青い蝶を消した。
「さあ、おやすみなさい。雷が去るまではこうしています」
「うん……おやすみ。ヴィーリア」
瞼を閉じた。明日には消えてしまう繋がりであるのなら、今はもうなにも考えない。腕のなかで夜が過ぎるのを待っていよう。
それから、うとうとと浅い眠りを繰り返した。夜半過ぎには閃光と雷鳴の間隔が徐々に遠くなった。雨音がしなくなった頃に、ヴィーリアの腕の中で深い眠りに落ちた。
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