【第11話】 陽の下で 2




 夕食の席でお母様は気が気でない様子を隠せなかった。


 二年前に伯爵から、莫大な額の返済とシャールとの婚礼を要求されて以来、お母様はお父様と一緒に金策や事業に奔走している。もちろん、わたしやシャールも手伝ってはいる。しかし、わたしたちは両親の補佐くらいにしか役に立てなかった。


 貧乏暇なしとはよく言ったもので、忙しく動き回っても、それでも途方もない借財は来月までにはどうにもならない。精神的な疲労も積もっているこの時期に、炭鉱からの知らせが届いた。


 見つかったという鉱石が、もしも、もしも……。期待が大きいほど落胆も大きい。でも、期待せずにはいられない。そんな様子が見て取れた。


 「お母様、きっと大丈夫よ」


 今すぐにでも本当に大丈夫だと、すべてはうまくいくと、お母様とシャールに教えてあげたい。


 「そうよ。お姉さまの言う通りよ。お姉さまは昔からそういう勘はよく当たったじゃない」


 シャールが無邪気に笑う。


 お父様とお母様は、ベナルブ伯爵との婚礼をシャールにはっきりとは伝えていない。


 歳がひと回り以上も離れている上に、伯爵には黒い噂がある。そんな伯爵から求婚されたことを、娘にどうしても伝えられなかった。そして、もしかしたら伯爵の気が変わるかもしれない、もしかしたらすべて返済できるかもしれない、もしかしたら……。と、仮定に一縷いちるの望みをつないでいた。


 お父様もお母様も善人だ。だが善人というだけではベナルブ伯爵には通用しなかった。


 シャールはうすうすとわかっていた。『貴族の結婚とはそういうもの』と微笑んでいたから。


 「ええ……そうね。……そう信じましょう」


 お母様は静かにそっと息をついた。






 深夜に馬車の車輪が小石を弾く音や、馬のいななきがして浅い眠りから目を覚ました。玄関エントランスホールが騒々しくなる。お父様とヴィーリアが戻ったようだ。


 燐寸マッチって、脇の本棚の上に置いたランプに灯りを入れる。


 本棚に挿しておいた黒い背表紙の魔術古文書グリモワールを手に取った。


 この魔術古文書グリモワールを手に入れたのは偶然だった。


 お父様とリモールの町の書店で、農業用の耕作機の資料を探していた。そこでたまたま目に留めたものだ。

 興味本位で開いてみたが、頁を捲るうちに購入を決めていた。書店の店主は値札のついていない魔術古文書グリモワールを眺めていぶかしそうに首を傾げた。それから投げ売り同然の価格を提案した。手持ちで買える金額だった。

 なんとなくお父様には購入したことを秘密にした。


 しばらく魔術古文書グリモワールの頁を読むともなく捲っていると、部屋の扉が遠慮勝ちに叩かれた。


 「どうぞ」


 静かに扉が開かれたそこにはヴィーリアが立っていた。足音もなく部屋に入り、寝台に深々と腰をかける。ほの暗いランプの灯りに照らされた紫色の瞳は、闇の中に溶けきれなかった猫の瞳のように光っていた。


 「来てくれると思っていたわ」


 「……寝付けなかったのですか?」


 「馬車の音で目が覚めたの。心配してくれたの?」


 「……気にしていると思いましたので、お知らせを少しだけ」


 「こんな夜中まで大変だったわね。大丈夫?」


 「貴女こそ私の心配ですか? ……安心なさい。私がしくじるはずがありませんよ」


 ヴィーリアは腕と長い足を組んだ。態度こそ尊大だが、褒めてもらいたがっている子どものようだった。昨夜の少女の容姿と重なって、思わず笑いがこみ上げる。大きな力を操る人の理の外の者。人間ではない。畏怖の対象のはずなのに、それなのになんだか可愛らしく見えてしまう。


 ヴィーリアは鉱石が発見された炭鉱での、抗夫たちや技師、お父様の興奮ぶりを短くまとめて話してくれた。


 「さあ、詳しいことは明日です。もう眠ったほうがいいでしょう」


 そう言うと立ち上がった。用意された客間に引き上げるのだろうか? 昨夜のこともあるので一応、きちんと確認をしておきたい。


 「……ヴィーリア?」


 「なんですか?」


 「今日は客間で眠るの?」


 「……それはお誘いですか?」


 「ん?」


 片膝が寝台にかけられた。寝台が軋む音が、静かな部屋でやけに大きく聞こえた。身体を起こしているわたしを寝台についた両腕が挟みこむ。ぐっと顔を寄せてきて、深い紫色の瞳で覗かれる。白銀色の髪がわたしの頬に触れそうだった。至近距離で視線を浴びてしまう。


 「ちょっと……なに!?」


 いきなり顔を近づけられたら驚くでしょ!?


 とっさに上半身を後ろに引くと寝台の背もたれに身体がぶつかった。両手を顔の前に広げてヴィーリアの瞳を遮り、横を向く。近いよ!


 「昨夜のように私と一緒に寝たいのなら……」


 「違うよ!? なんでそうなるの?」


 最後まで言わせない。広げた両手をそのまま突き出して、ヴィーリアの口をふさいだ。


 「……」

 「……」


 お互いに短い沈黙の後に、ヴィーリアがわたしの両手首を掴んで離す。なんだか恥ずかしくて顔を見ることができなかった。


 「からかいがいがありますね」


 つやめいた微笑みのヴィーリアはわたしの左手を開き、薬指の先に口づけた。浅かった傷からはもう血は出ない。

 唇は冷たかった。

 本当に性質たちが悪い。心臓に悪いからそういう冗談は止めてほしい。


 「……ほら、また。淑女がそんな顔をして」


 「……ヴィーリアのせいでしょ?」


 「それは光栄です」


 わたしの指から手を離すと立ち上がる。


 「では、良い夢を」


 「……ヴィーリアも」


 「私は夢を見ません。……昨夜も一緒に寝てはいませんよ。残念ながら」


 わたしを見下ろす口の端が上がる。


 夢を見ないとはどういう意味なのか。


 「……じゃあ、どこで寝たの?」


 長いい指を唇に充てて、片目をつむった。


 「秘密です」


 それから、わたしの髪を一筋だけすくって口づける。


 「おやすみなさい。ミュシャ」


 「おやすみなさい。……ありがとう。ヴィーリア」


 返事の代わりに指が鳴らされた。ランプの炎が消える。真っ暗な静寂が戻った部屋に、扉が静かに閉まる音がした。





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