【第10話】 陽の下で 1



 しばらくの間、湖の周囲を散策してから無花果いちじくを収穫した。この辺りの森にはアケビの蔓やプルーンの樹も自生している。アケビやプルーンの実はすでに収穫済みだった。そういえば果皮に付いた白い蝋を磨いた下の、プルーンの皮の色はヴィーリアの瞳の色に似ている。


 まだ収穫に早いものは残しておいた。数日後にまた取りくればいい。ヴィーリアにも無花果を手渡すと、なぜかしげしげと眺めていた。


 「無花果が珍しいの? もう熟しているから食べられるわ。よかったらどうぞ?」


 「いえ、私は遠慮しておきます。貴女はこの果実が好きなのですか?」


 「好きよ。甘くておいしいもの」


 「……そうですね。おいしいものは、甘い」


 突然に紫色の瞳の濃度が増した。ヴィーリアの片手がすっと伸びて、左耳に黒檀色の髪をかける。そのまま左耳の縁を、長く冷たい指で挟んでなぞられた。指が耳の後ろの魔法陣にかかると、反射的に身体が震えた。昨夜に感じた禍々しい寒気とは違う。もっと異質な感覚。身体の内側をゆっくりと、湿った柔らかいなにかが這い回るような感覚に引きつれる。


 「あの、ヴィーリア?」


 無花果を両手に抱えているので彼の手を振り払えない。指は魔法陣に円を描くようにまわる。


 ヴィーリアはそのまま屈んで耳の横で囁いた。


 「ミュシャ。今日の分をいただきます」


 「え? 昨夜たくさん飲んだでしょう?」


 「あれは、召喚時の不足分と力を行使した分ですよ」


 「そん……」


 許可を出さないうちに、柔らかく冷たい唇が耳をんだ。冷たい舌と柔らかい唇に皮膚を無遠慮になぞられる。

 最初はくすぐったかった。そのうちに例えようもない熱と、痺れのような疼きが魔法陣から広がっていく。


 「ん……」


 ヴィーリアは両腕でわたしを囲い込み腰を引き寄せる。甘噛みされている耳が熱い。 


 「ヴィーリア……もう……」


 身体の内側から浸食されるような疼きと熱。それが限界に達して耐えられなくなる前に、頭を動かして唇から逃れようと試みた。


 ヴィーリアの身体は冷たい。ふっくらとした唇も、腰を引き寄せる腕も、抱き込まれた胸元も、服の上からでもわかるほどに体温を感じない。人形に抱えられているようだった。それがかえって熱を帯びた身体には心地よく感じられた。


 耳元でくぐもった笑い声がして、ヴィーリアが顔を離す。白銀色の髪が頬に触れてから遠くなる。


 「ミュシャ、大丈夫ですか?」


 わたしの赤くなった顔に気付くと、意地悪そうに微笑んだ。心の内を見透かされたような気がして、わざとつんと横を向く。


 「なんのこと? 貧血なら心配ないわ」


 「それはよかった」


 哂うヴィーリアの唇には赤い血の染みが小さく残っていた。わたしが舐めたわけでもないのに、昨夜の記憶がよみがえる。口の中いっぱいに鉄の味が広がった。


 「唇にちょっとだけ残っているわよ」


 哂われた仕返しに、幼い子供に諭すような物言いをする。ヴィーリアは目を細めて「ああ」と呟き、わたしの瞳を捕えたまま親指の腹で唇を拭った。赤い舌でそれを舐めとる。


 ぞくりと肌が粟立つ。


 世界に祝福されたようにこんなにもあでやかで美しい。それなのに血を舐める目の前の者は、人ではないのだと改めて実感する。

 爽やかな眩しい陽の光の中にいても、ヴィーリアは朔の日の暗闇から呼び出された。彼の背後には深淵があぎとを開いてわたしを待っている。


 「……そろそろ帰りましょう」


 美麗で豪奢ごうしゃな装飾が施された美しい箱は、見る者を魅了し誘惑する。箱の中身はもっと素晴らしいから開けてごらんなさい。と、蓋を開く者をいざなうために。しかし、物語においてはその箱はたいてい禁忌の箱だ。絶対に箱の蓋を開けて中を覗いてはならない。


 ――もう、遅いけど。


 箱を押しやるように、ヴィーリアにくるりと背中を向けた。


 ……だけど、これ以上堕ちることなんてあるのだろうか?




 昼近くに湖から戻ると屋敷の表が騒々しい。何事かと急いで正面玄関メインエントランスに向かうと、お父様が馬車に乗りこむところだった。急ぎの知らせを告げる早馬らしき使いもいる。


 「お父様」


 声をかけると馬車のステップに足をかけたまま、お父様はこちらに振り向いた。


 「おお、ミュシャ。ヴィーリア殿も」


 「どちらへお出かけですか?」


 「いや、実はリモール山脈の麓の炭鉱で変わった鉱石が出たというのだ。確認に行ってくるよ」


 お父様はこころなしかそわそわとしている。


 「まあ! どんな鉱石なの?」


 ヴィーリアの昨夜の仕事が早くも実を結んでいた。


 「いや、それがまだ、確かではないのだ。……おまえにもぬか喜びはさせられない。帰ってから詳しく話そう」


 「男爵様。私もご一緒させていただいてもよろしいですか?」


 「それはありがたい。アロフィス侯爵様のクリムスの御領地は確か、翡翠の産地でしたな?」


 「はい。なにか私でもお役に立てることがあるかもしれません」


 ヴィーリアの提案にお父様は一も二もなく頷いて、二人は早馬とともに炭鉱へと出発した。


 夕刻になってもお父様とヴィーリアは戻らなかった。



 

 


 

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